お寺さんぽ Ver.03

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常陸・佐竹氏討伐に出陣する実平さま (土肥実平)中編

2009年07月23日 | 歴史
本日も平安末期から鎌倉時代に活躍した武士「土肥実平(どひ[い]・さねひら)」さまです。

湯河原駅前に像がある、湯河原の英雄・実平さま。
実は挙兵以前から常に「源頼朝」を支え続けた、忠義の将であったのです。


治承四年(1180)
平氏追討のため挙兵した頼朝は「石橋山合戦」にて大敗北。
形成不利を見てとった実平は、自らの領国であった土肥郷・椙山(すぎやま)は「しとどの窟」へと頼朝を招いてそちらに身を隠すのです。
なお、彼の夫人も民に変装して、身を隠す頼朝を夫と共に支えています。
武士の妻ですねー。

ここで山中を捜索していた平家方・「大庭景親(おおば・かげちか)」の軍勢ですが、参加していた武士「梶原景時(かじわら・かげとき)」が見逃したこともあって、どうにか窮地を脱しました。
この頃は頼朝ほか各地にて反平氏の動きがありましたが、平家政権というのは武士たちから飽きられ、支持されていなかったんですね。

さて、実平が真鶴に用意させていた船で共に安房(千葉県)へ渡海した頼朝一行。
当然、こちらにも実平は弟「土屋宗遠」らと共に従っております。
安房国に着いた頼朝らは房総に勢力のある千葉氏、上総氏らの参陣を得て、ようやく息を吹き返したのです。

当時の武士にとって源氏の貴種である頼朝はまさに特別な存在であったようで、進軍するうちに次々と参陣する者が増えておりました。
父・兄の本拠地であった鎌倉へ入った際には、なんと数万という大軍になっておりました
さらにその後も傘下へ入る武士たちは続出し、たちまち関東圏を支配するような身分になっていったのです。
これ、山中にて隠れた頃からわずか数カ月の出来事ですよ
凄いでしょ?

治承四年(1180)
”鳥の羽音に驚いて逃亡”したという有名なびっくり合戦「富士川合戦」に勝利した頼朝勢。
ここで上総氏らの進言を受け、足場を固める意味もあって東の常陸へと侵攻することとなったのです。

関東に残る、平氏方の最大勢力であったのが常陸国でした。
こちらを領していた佐竹氏は平氏との縁深く、頼朝へは曖昧な態度で参陣していなかったのです。
「吾妻鏡」によると、「権威境外にも及び、郎従国中に満つ」…と、常陸にてかなりの勢力だったのでした。

こうして、常陸・佐竹氏討伐を決定した頼朝勢。
実平は当然こちらにも従軍しております。

常陸・国府(石岡市)へと到着すると、一族の「佐竹義政(忠義)」はただちに参陣を約束。
しかし、嫡男「佐竹秀義」は当時平家に属していた父「佐竹隆義」が上洛中であったため、態度を保留して「金砂城(かなさじょう)」へと籠りました。
これに対し佐竹氏の縁者であった「上総広常」は、義政を誘い出してこれを大矢橋にて殺害。
ひでえ。
ともかく、この一件によって動揺した佐竹勢に対し、金砂城へと攻撃を開始しました。
しかし、要害の地にあった城攻めは難航。
ここで我らが入京は、
”叔父「佐竹義季(※隆義の弟)」に恩賞を与える”ことで内部分裂を誘うよう進言した、と言われております。
義季は寝返り、浮足立った佐竹勢は、その案内を受けた頼朝勢の総攻撃を支え切れずにわずか一日にて落城。
攻略に大きく貢献するのでした。
秀義は奥州へ逃亡。
ちなみに余談ですが、後に義季は謀殺されてます。

⇒ つづく。
 次回は「多くの功績を残した源氏軍の重鎮」
 
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※そんなこんなで、「源頼朝」さま。
 そう、この絵は別人とか言う話なんですね。びっくりですよ。


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