お寺さんぽ Ver.03

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存在さえも不確かな正成さま (楠木正成)4

2009年12月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)※写真」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

後に吉野朝廷(南朝)を開くこととなる「後醍醐天皇」が即位。
実権を取り戻すべく精力的に活動する彼でしたが、元弘元年(1331)の計画も事前に発覚。
京都を脱出し、笠置山に挙兵したのです。
集まる兵は付近の土豪ばかりという中、なんらかの歴史の奇跡によって、”楠木多聞兵衛正成”という武士に出会ったのでした。

私が生きている限り、ご聖運は必ず開けると思し召し下さりますよう…


さて、ようやく登場した英雄「楠木正成」さま。
これだけ有名な方なんですが、その素性はいまいちはっきりしないという、謎の多い人物なのでした。

時代を戻して永仁二年(1294)
生年不詳な正成ですが、この年に誕生したと言われています。
実際のところ親も不確かではあるんですが、河内に勢力を持っていた「楠木正遠」の子とよく書かれていました。

ほとんど謎なんですね

河内国金剛山付近の赤坂には、正成の屋敷跡があります。
紀伊の橘氏、河内の橋本氏らと婚姻関係があるとされ、付近ではなかなかの有力豪族であった…らしいという推察。

元弘元年(1331)
「天竜寺文章」の記録に、”悪党「楠木兵衛尉」が和泉国若松荘に押し入って乱暴した”と残っています。
こちらの「楠木兵衛尉」こそ、正成ではないのか?ということ。
ちなみに、ここで言う”悪党”とは、「源義平(みなもとの・よしひら)」の通称”悪源太(あくげんた)”と同じく、”悪人”というよりも”強い”というイメージです。
若松荘から略奪をし、兵を養っていた、ということみたい。

とりあえず、強い楠木さんが付近にいたらしい。
よくは分かんないのですが。

そんな訳で、実績どころか存在さえも不確かだった程度の「楠木正成」さま。
「後醍醐天皇」と面会を果たした正成は、さっそく赤坂にて挙兵の準備に取りかかりました。

一方の幕府勢。
宇治は平等院へ七万五千という大軍を終結。
「後醍醐」の笠置山をぐるりと包囲したのです。
なお、この際に「楠木正成」挙兵の報告があり、”大いに幕府勢を狼狽させた”とか書いてあるんですが…まだ名前すらよく知られてない正成ですから、これは誇張か後の創作ではないかなぁ。

幕府の大軍勢に対し、天皇方は巨石を落とすなどして抵抗しました。
決死の防戦につとめたため、攻めあぐねた幕府勢。
ここで幕府側の一部が夜陰に紛れて忍び込むことに成功し、寺の四方へ火を放ったのです。
こうして、笠置寺のほとんどは焼失。
混乱を好機と見た幕府勢は一気に押し寄せ、内通者が出たと勘違いした天皇方は大混乱に陥ってしまうのです。

共に戦っていた公卿たちは、裸足のまま山中へ飛び出すような始末。
大将たる「後醍醐」は笠置山からの脱出を狙いましたが、二日間ほど山中をさ迷った揚句、結局捕えられてしまったのです。
なお「後醍醐天皇」の笠置山は、九月三日から二十八日まで粘った末に陥落しております。

⇒ つづく。
  次回は「”四町四方に足りぬ”という赤坂城」 (5/16)
  

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※謎つながりです。
 昔の生活とんなんとかが見直されてますよね。


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