のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。
建武二年(1335)七月に起こった「中先代の乱」を切っ掛けに、「足利尊氏」はついに反乱。
一時は京都を確保した尊氏ですが、奥州から出撃した「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」によって九州へ追い落とされてしまったのです。
最大の危機を回避した「後醍醐」に対し、我らが「楠木正成」さまは”味方である義貞と断交し、武士の声望を集める尊氏を取り込め”、と凄まじい献策をしていたのです。
実際に九州で尊氏は再起し、「新田義貞」といえばその間ずっと播磨で足止めをされるという失態を演じているのでした。
建武三年[延元元年](1336) 三月
九州にて再起した「足利尊氏」は、軍勢を引き連れて進軍。
ここで「新田義貞」、「楠木正成」の両名には出撃が命じられました。
「尊氏が九州の諸豪族らを率いて上洛せんとしつつあるならば、大軍勢でしょう。
これを途中で防ぐには兵が足りず、到底勝ち目がありません。
ひとまず天皇は比叡山へお移りになって尊氏を京都へ入れましょう。
京都は守るに難しく攻めるに易い地形です。糧道を断って四方から京盆地を押し包めば、先の如く味方の勝利は疑いありません…」
京に誘いこんで疲弊を待ち、包囲・殲滅するという得意の作戦です。
”攻め易く守り辛い”という、尊氏を九州へ追い払った作戦と似たものですかね。
「合戦はとにかく終始勝つことこそ肝要」
プライドを棄ててでも、最終的に勝てば良い。
後の「朝倉宗滴」と同じようなことを正成が言っていたのです。
しかし、この献策すらも兵法を知らない宰相「坊門清忠(ぼうもん・きよただ)」ら公卿によって、あっさり退けられてしまったのでした。
彼の心中はどうだったでしょう。
やむなく従った正成は桜井にて十一歳となる息子「楠木正行(くすのき・まさつら)」に別れを告げ(※写真)、彼を本国河内へと帰らせました。
「このたびの合戦は天下を左右する重大な戦だから、もはや生きてお前の顔を見ることもあるまい」
そう、自分の死を覚悟したようなことを言い残しております。
(※ちなみに、コレは太平記の名場面なんですがこの時正行は二十歳くらい。史実ではないようです)
乏しい兵力と大した将軍のいない政府軍では、野戦で足利軍に勝てないと悟っていたのでしょう。
この時、正成は三千という股肱の臣を正行に従わせ、河内へ帰したと伝えられています。
次の乱を見据え、戦力の温存を図ったのでした。
⇒ つづく。
次回は「玉砕・賢才武略の勇士」 (16/16)
[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 尼子氏武闘集団「新宮党」
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 船上の二人[長尾政景・宇佐美定満](戦国サスペンス劇場) [前 中 後]
⇒ 地黄八幡の名将 「北条綱成」 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [1 2 3]
⇒ 北条家の忠実なる影 「風魔小太郎」
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⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [前 中 後]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [1 2 3 4]
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⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [1 2 3 4]
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [1 2 3 4 5 6]
⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 三好一族の末路 (三好家の人々) [1 2 3 4 5 6 7 8 9]
⇒ 没落の名門家・山名氏 「山名祐豊・豊国」 [1 2 3 4 5 6 7 8]
⇒ 出来人の出来た弟 「香宗我部親泰」 [前編 後編]
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [前 中 後]
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [1 2 3 4 5 6 ]
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 島津家筆頭家老・文武両道の名将 「伊集院忠棟」 [1 2 3 4]
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※やっぱり漫画がオススメでしょう。
ゲームにならないかなぁ。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。
建武二年(1335)七月に起こった「中先代の乱」を切っ掛けに、「足利尊氏」はついに反乱。
一時は京都を確保した尊氏ですが、奥州から出撃した「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」によって九州へ追い落とされてしまったのです。
最大の危機を回避した「後醍醐」に対し、我らが「楠木正成」さまは”味方である義貞と断交し、武士の声望を集める尊氏を取り込め”、と凄まじい献策をしていたのです。
実際に九州で尊氏は再起し、「新田義貞」といえばその間ずっと播磨で足止めをされるという失態を演じているのでした。
建武三年[延元元年](1336) 三月
九州にて再起した「足利尊氏」は、軍勢を引き連れて進軍。
ここで「新田義貞」、「楠木正成」の両名には出撃が命じられました。
「尊氏が九州の諸豪族らを率いて上洛せんとしつつあるならば、大軍勢でしょう。
これを途中で防ぐには兵が足りず、到底勝ち目がありません。
ひとまず天皇は比叡山へお移りになって尊氏を京都へ入れましょう。
京都は守るに難しく攻めるに易い地形です。糧道を断って四方から京盆地を押し包めば、先の如く味方の勝利は疑いありません…」
京に誘いこんで疲弊を待ち、包囲・殲滅するという得意の作戦です。
”攻め易く守り辛い”という、尊氏を九州へ追い払った作戦と似たものですかね。
「合戦はとにかく終始勝つことこそ肝要」
プライドを棄ててでも、最終的に勝てば良い。
後の「朝倉宗滴」と同じようなことを正成が言っていたのです。
しかし、この献策すらも兵法を知らない宰相「坊門清忠(ぼうもん・きよただ)」ら公卿によって、あっさり退けられてしまったのでした。
彼の心中はどうだったでしょう。
やむなく従った正成は桜井にて十一歳となる息子「楠木正行(くすのき・まさつら)」に別れを告げ(※写真)、彼を本国河内へと帰らせました。
「このたびの合戦は天下を左右する重大な戦だから、もはや生きてお前の顔を見ることもあるまい」
そう、自分の死を覚悟したようなことを言い残しております。
(※ちなみに、コレは太平記の名場面なんですがこの時正行は二十歳くらい。史実ではないようです)
乏しい兵力と大した将軍のいない政府軍では、野戦で足利軍に勝てないと悟っていたのでしょう。
この時、正成は三千という股肱の臣を正行に従わせ、河内へ帰したと伝えられています。
次の乱を見据え、戦力の温存を図ったのでした。
⇒ つづく。
次回は「玉砕・賢才武略の勇士」 (16/16)
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※やっぱり漫画がオススメでしょう。
ゲームにならないかなぁ。