お寺さんぽ Ver.03

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大いに翻弄される幕府勢 (楠木正成)9

2010年01月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

笠置山に挙兵した「後醍醐天皇」は捕えられて流罪となっていました。
我らが「楠木正成」は赤坂城を奪還して大修復をほどこし、逆に和泉・河内などを制圧したほか、天王寺合戦では幕府勢を正面から叩き潰したのでした。
「後醍醐」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」は吉野山に挙兵。
しかし、大軍を派兵した幕府勢によく戦ったものの、吉野山も陥落してしまったのでした…。


元弘三年(1333) 二月二十三日。
こちらには「阿曾時治(あそ・ときはる)」の率いる軍勢一万が包囲。
軍を五分割して突撃を繰り返す一方、正面に集中していた軍勢の側面を崩して水の手を断ち、守備隊「平野将監」らを生け捕っています。
わずか十日ほどで、前線を陥落させられてしまった正成。
じわじわと抵抗していた十七の砦も次々に攻略され、最終的に千早城へ籠りました

「太平記」によると、正成勢は千から二千程度。
この頃の幕府軍には吉野山の攻撃部隊であった「二階堂」率いる軍勢も加わり、およそ十万近いという大軍勢によって、千早城は包囲されてしまうのです
もはや風前の灯か。
…といった危機的状況なんですが、正成はここで巧みな戦術をもって、圧倒的だと思われた幕府勢を翻弄し続けるのでした。
さっそく、その戦術を見てみましょう。

まず、千早城は金剛山の中腹あたりに位置する山城です。
高さ一町(約109.09メートル)、周囲一里(=五町)ほどという、これまた小城でした。
何ほどのことがあろうか!
やはり小城と侮った幕府勢は、闇雲に突撃を開始しました。

しかし、こちらは山地での戦いを周到に考え・計算された、正成自慢の城だったのです…。

まず、兵らが城へ取りついた頃合いを見計らって、高櫓よりつぎつぎに巨石・土木を投げ落としました。
これによって、寄せ手の幕府勢はどっと谷底へ転落。
”書記十二名が三昼夜をかけて記録した”というほど、おびただしい数の死傷者を出してしまうのです。

思わぬ事態で慎重になった幕府勢。
今度は、水の手を断って苦しめようと、谷川へ密かに伏兵を配置しておきました。
しかし、城内には十分の用意があったため水を汲みにはなかなか現れず、また次第に警戒が緩んだところを逆に襲撃され、討ち取れてしまったのです。

それでは、大きな梯子によって城中へ侵入する策を採用しました。
こちらに対しては、油を注いで松明を投げつけて燃やし、やはり転落した兵は数千という有様だったのです。

こうして、方針を兵糧攻めに変えた幕府勢。
これに対して正成は、夜半に甲冑をつけた人形を城の下にずらりと並べておき、その目前に盾を配置しておきました。
(※図参照のこと)
そして、夜明けと共に一斉に鬨の声をあげたのです。
城中より討って出たか?!
チャンスとばかりにあわてて矢を射かけ、どっと攻め寄せた幕府勢。
城兵は敵を頃合いまで引き付けておいて城中へと撤退しましたが、残った人形を本当の兵だと勘違いした幕府勢はそのまま突撃を敢行。
そこを狙って、四十から五十の大石が落とされ、三百あまりが死亡、五百あまりの兵が大怪我をしたというのです。
しかもこの作戦は単純に敵の殲滅だけでなく、”矢を浪費させると共にその確保をする”という、三つの意味があったのでした。

…ちょっと出来過ぎな気もしますが、ともかくこうした奇策によって抵抗し続けたのですね。

⇒ つづく。
  次回は「落城しなかった千早城」 (10/16)
  

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※ちょっと本格的にこうした戦術を学んでみたいですねー。
 こんなんはどうかなぁ。


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