お寺さんぽ Ver.03

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信濃源氏・村上親子の奮戦 (楠木正成)8

2010年01月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

笠置山に挙兵した「後醍醐天皇」は捕えられ、流罪となっていました。
その嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)※写真」は潜伏したまま各地の武士らに令旨を発して決起を促し、自身もまた吉野山に挙兵したのでした。
我らが「楠木正成」は陥落寸前の赤坂城より密かに脱出。
城をあっさり奪還すると大修復をほどこし、逆に和泉・河内などを制圧したほか、天王寺合戦では幕府勢を正面から叩き潰したのでした。
この勝利は、発していた令旨の効果をより確かなものとしていったのです。


「護良親王」の挙兵、そして河内にて暴れる「楠木正成」…。
こうした事態を重くみた幕府は、集結させた軍勢を吉野山、そして金剛山へと向けて南下させたのでした。

「太平記」によると、総勢八十万から百万という大軍勢だったとされています。
…うっそだー(笑)
まぁ、話半分に考えたとしても、四十から五十万という大部隊。
相当に幕府が焦っていただろうことが想像されますね。

元弘三年(1333) 二月十六日。
こちら吉野山には「二階堂道蘊(にかいどう・どううん)」率いる、六万という幕府勢が侵攻しました。
小勢ながらも自然の要害に守られた「護良親王」勢は、期待された武力を発揮。
昼夜七日にわたって神出鬼没のゲリラ戦を続け、幕府勢を悩ませ続けるのです
「護良親王」勢は三百、幕府勢は八百という兵が討死しております。

戦況としては膠着状態だったなか、「護良親王」勢に寝返りがあって事態は一変。
(※先の笠置山と同じく、身軽な寄せ手の一部が忍びこんだという書き方もありました)
合わせて山内へとなだれ込んだ幕府勢によって次第に討ち取られていき、「護良親王」自ら甲冑を着て、薙刀を片手に奮戦することとなったのです。

しかし、圧倒的な兵数差に押され、いよいよ追い詰められてしまった親王勢。
ここで従っていた信濃源氏「村上義光」は、その時は返り血塗れで自決をも覚悟していたという「護良親王」に脱出を進言。

その鎧を拝領して自ら「尊仁(たかひと:護良親王ね)」と名乗り、
汝ら逆臣どもが武運つきたるときの手本にせよ!
そう叫び、身代わりとなって幕府勢の前にて壮絶な自刃をしています。

さらに、山中から逃れた「護良親王」ら一行も幕府勢に囲まれてしまいました。
ここでは、先の義光から護衛を任されていた息子「村上義隆」がただ一人踏み止まり、なんと一時間もの間持ちこたえたのです
全身に傷を受けた義隆は、壮絶な討死をしたそうです
こうした村上親子の命と引き換えの奮戦によって、「護良親王」は見事吉野山から脱出を果たして高野山へ隠れ、後に「楠木正成」の籠る千早城へと向かったのでした。
吉野山はおおよそ半月くらいで陥落。

なお、ちょっぴり後日談。
幕府勢の「二階堂道蘊」は、先の義光の首を「護良親王」の首として六波羅へ送ったんですが…そこで初めて偽物と分かったそうなのです
うっかりさんですね。

⇒ つづく。
  次回は「大いに翻弄される幕府勢」 (9/16)


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※太平記ですね。
 やっぱりこんなんのがとっつき易いと思います。 



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