真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「未亡人下宿?エピソード3 裏口も開いてます」(2019/制作:《有》大敬オフィス/提供:オーピー映画/音楽・脚本・監督:清水大敬/撮影:宮原かほり/照明:大久保礼司/録音:荒木俊一・宮谷広太郎/スチール:こくまい太・中江大助/撮影助手:榮丈/助監督:郡司博史/仕上げ:東映ラボ・テック《株》/出演:三島奈津子・成宮いろは・長谷川千紗・大山魔子・海空花・フランキー岡村・折笠慎也・安藤ヒロキオ)。ポスターにのみ、出演者に清水大敬の名前も並ぶ。寧ろ思ひきり普通に出てゐるのに、本篇クレジットでオミットする意味の方が判らない。
 一軒家と玄関に提げられた“貸間あり”の札を続け様に抜いて、未亡人下宿の女将・山口裕子(三島)が子供用かと見紛ふ、極小のミニスカどころかナノスカからガンッガン尻をハミ出させつつ、縁側をいそいそ拭き掃除。着衣の時点で既に大概な破壊力の爆乳と、当然太股にも入念に寄つた上で、いい陽気に裕子が目を細めてタイトル・イン。乳尻と太股のどさくさに紛れ、表地を喰ひ込ませた本丸観音様にも、大陰唇が1/3見えてゐる程度には攻め込んでみせる、清水大敬天晴な漢の至誠。観客が見たいものを銀幕に載せる、その姿勢は商業作家として断固として正しい。映画的な完成度?そんなものは所詮二の次三の次、あつて邪魔にはならないが、取るに足らない些末。済まん、言葉が過ぎた。
 包丁の音にも血相を変へ怒鳴り込んで来る、現状唯一人の店子にして帝都大学法学部志望の十浪生・尾崎清彦(安藤)の顔見せ噛ませ、地方税その他の滞納による、財産の差押へを通告する催告書が着弾。銭湯で溺死とか、何気に難易度の高いファニーな死に様を遂げた亡夫・武男(フランキー)の仏前にその旨報告がてら、裕子がワンマンショーをオッ始めてゐるところに、義弟の健二(折笠)が訪ねて来る。見事果てたのち健二に見られてゐるのに漸く気づいた裕子が、女陰は隠せど初めからスカートに納まつてはゐない尻はほぼ半分露出してゐる、マンコ隠して尻隠さずを当然当サイトは見逃しはしない、アホか。元々兄貴とは仲の悪かつた、健二が武男の来し方を口悪しくイントロデュースしてゐると、武男の幽霊がヌラーッと現れる。毎度毎度の繰り返し蒸し返しが恐縮ではあれ、主には口を変な風にすぼめておちやらける、娯楽映画を虚仮にしたフランキー岡村の駄メソッドが今作のアキレス腱。少なくとも政治的と経済的な意味での、平成の時代と同じくらゐ酷い、そんなに酷いのか。
 配役残り、ゴッリゴリの絡みで飛び込んで来る―まあ絡みは全部ゴリッゴリなのだが―清水大敬と成宮いろはは、裕子が―元々は武男が独り占めした山口家実家である―下宿家屋の売却を相談する、萬不動産(株)の社長・萬満作と内縁の妻・明美、双方離婚歴あり。海空花は、最終的には中退した大阪での大学生時代に、武男が下宿の女将に産ませた娘と称する萬千夏。このビリングでは脱がないものかと思ひきやシャワーは浴びるのと、タイトルバックに採用される闇雲なダンスに際しては、衣装越しにもお乳首を改めてしつかり見せる。長谷川千紗は武男の浄霊に明美が頼る、高校陸上部の同級生といふ仲の巫女・瀬川理紗。且つ、元々高校卒業後手を手を取り上京した尾崎を裏切り、帝都大法学生の下に走つたものの、後々自らも裏切られる。結果絶望と尾崎に対する罪悪感とで巫女になつたとかいふ頓珍漢にやゝこしい造形と、煌びやかなまでに狭い劇中世間が清々しい。未亡人下宿のニューカマー・村岡菊雄は、フラ岡の二役目。後方には護岸や民家が平然と見切れる、要はレス・ザン・ロケハンな超絶そこら辺で撮影した三途の川。大山魔子は何故かスパンキングで武男を成仏させる、バタフライだけ黒い天国の天使、実際大山(たいざん)のやうな謎の巨漢女。三途の川に天使がゐたりする、へべれけな死生観に立ち止まるなんて、そもそもかいはずもがなな野暮はやめてしまへ。
 「未亡人下宿? 谷間も貸します」(2017/主演:円城ひとみ)に、「続・未亡人下宿? エロすぎちやつてごめんなさい♡」(2018/主演:成宮いろは)。清水大敬2019年第二作は気がつくと年一本のシリーズ化してゐた、大蔵未亡人下宿?第三作。今年もコロニャンにも屈せず、先月終盤に性懲りもなく、もとい目出度く第四作が封切られてゐる。事この期に及んで、よもや清水大敬が定番を堂々と張つてゐようだなどと、正しくお釈迦様でもといふ奴である。
 満作と千夏が執拗に繰り広げる決して新しくはない珍喜劇に、裕子や健二らが一々感嘆する。クスリともピクリとも掠りもしない、一ッ欠片たりとて面白くも何ともない大阪フィーチャーは、兵庫出身の関西人である清水大敬―ついでに相方の海空花は京都―はこんな無様な茶番を仕出かして恥づかしくないのかと、腹を立てるか呆れのも通り越し訝しむほかないが、この際強ひて等閑視する。清水大敬の映画が明後日なり一昨日な方向に振れずして、全体あとに何が残るのかと思へなくもないからである、どんな作家性だ。終盤藪から棒に火を噴く怒涛の令和祝賀は、この御仁は元号が変るのが何がそんなに嬉しいのかと重ねて首を傾げる以外の選択肢は見当たらないが、兎に角棚から牡丹餅ならぬ天井裏から万馬券を機械仕掛けのハッピー・エンド起爆剤に、ドミノ倒しの如く吉事が連なるクソ団円は、カサベてた頃の箍のトッ外れた破壊力も今となつては悪い夢にも似た遠い昔。それはそれとしてそれでもそれなりに、大正道の娯楽映画路線に気がつくと開眼してゐた清水大敬にとつては一種の十八番芸。理紗のスピリチュアルな稼ぎがどの程度あるのか知らないが、多分職歴ゼロのアラサーが泡銭も頭金で使ひきつてこれからどうする気なのか、だからさういふ世知辛い話をしてんぢやねえ。未亡人下宿を去る者と、新たに訪れる者。フォーマットの御約束事的シークエンスにも、貪欲に主演女優の裸を絡める苛烈な真心は、泥酔した寡婦が亡き夫と同じ姿形の男に夢うつゝで身を任せる、未亡人ものならではの案外秀逸な論理性込みで素晴らしい。ここで一点特筆しておきたいのが、その比較的短めの一幕まで含め、何気に驚異の全濡れ場完遂。ピンクなのに濡れ場を疎かに端折つて済ます、そんな小癪な輩は言語道断、叩つ斬つてやるといふ清水大敬のレイジをもが轟いたやうな気がしたのは、ために吹く与太。これでもう少し、ブッツブツ体位を羅列する雑な繋ぎさへどうにかなつて呉れれば、といふのは戦車に空を飛べと望む類のお門違ひなのか。豚型の蚊取線香に、どう見てもブラウン管のテレビ。もしかすると、所謂古き良き時代的な懐古が見え隠れするのかも知れないが、平成をも飛び越えた、木に竹を接ぐ昭和の意匠は御愛嬌。何はともあれ、あるいは何もなくとも。斯くもクソ以下にショボ暮れた御時世といふかより直截にはゴミ時世に、映画に出来ることは何か、映画は何をするべきか。と清水大敬が自問したのかどうかは当然知る由もなく、よしんば単純な商業的処世であつたにせよ、鬱屈としかしてゐない世相に、遮二無二―暴風の―南風を吹かせようとする、吹き荒さうとする清大のエモーションを当サイトは買ふ。蛮勇といふ声が聞こえて来たやうな気がしたけれど、さうかもね。映画の出来?だからそんなものは四の次五の次、五十音順で勝利一(a.k.a.添田克敏/a.k.a.大超寺明利)か、大門通(大体ex.浅尾政行)の旧作でも狩つてゐればよろしからう。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )