真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「痴漢電車 あの娘にタッチ」(昭和63/製作:獅子プロダクション/配給:新東宝映画/監督:渡辺元嗣/脚本:平柳益実/製作:伊能竜/企画:白石俊/撮影:志賀葉一/照明:田端一/編集:酒井正次/助監督:笠井雅裕/監督助手:小原忠美・小笠原直樹/計測:宮本良博/撮影助手:中松敏裕/照明助手:王子貞治/美術協力:佐藤敏宏/スチール:津田一郎/録音:銀座サウンド/現像:東映化学/出演:荻野目翔子・橋本杏子・川奈忍・松本ちえみ・小林あい・池島ゆたか・ジミー土田・山本竜二・久保新二・螢雪次朗/友情出演:たかとりあみ・滝川真子)。製作の伊能竜は、向井寛の変名。正確なビリングは、久保チンと螢雪次朗の間に友情出演を挿む。
 映画「東京の休日」(監督:ウヰリー綾羅/主演:鳳直子)上映中の、“名画の殿堂”「駅前キネマ」。実際に駅前キネマといふ小屋が存してゐたのか否かにはニュートラルな名称すぎて辿り着けず、「東京の休日」といつて、皇女でなく帝自身がランダムに出歩く、荒木太郎の封印ピンクが時空を超えた訳ではない。与太を吹かねば死んでしまふ病ならば、息すんのやめれ。マリア(滝川)と久保田(久保)が原付で二尻してみたり、真実の口ならぬ針千本の泉に赴く「東京の休日」の終映後、眠る主演女優の後方に若き渡邊元嗣も見切れる場内。駅前キネマ三代目館主・マキノ松太郎(高田宝重ばりにモジャモジャの螢雪次朗)が寝倒した客を起こさうとすると、響未来(荻野目)は一瓶の眠剤を呑んでゐた。未来が、「蕾の薔薇・・・・」と譫言を漏らすや雰囲気一転、西武新宿線にジャジャジャジャージャジャージャジャンジャンと(仮称)「痴漢電車のテーマ」大起動、タイトル・インするものかと、思ひきや。タイトルは、後述する駅前キネマの新装に合はせ、エンド・クレジット前に回る。盲のヤクザとかいふただでさへ闇雲な造形を、白痴と錯乱を7:3の割合で搔き回す、もといブレンドする十八番のメソッドで、貞夫(山本)が―ナベの―兄弟子・滝田洋二郎と螢雪次朗による名探偵黒田一平よろしく電車痴漢を通して、指に残る名器の感触を頼りに未来を捜す。貞夫いはく“なかなかのもんやけど違ふ”、松太郎とは別居中の妻・淳子(橋本)にヒット。弾みで貞夫のタイピンが順子の手荷物の中に落ちる、逆痴漢のカウンターも火を噴く指戯に暫し耽りつつ、松太郎の友人で淳子とも往診と称して男と女の仲にある、医師の則平(チョビ髭の池島ゆたか)が介入、貞夫はその場を離脱する。
 配役残りジミー土田は、駅前キネマに出入りする新東宝の営業マン・北川。川奈忍は、亭主が来てゐないかと駅前キネマに乗り込む則平の妻・千明。松本ちえみと小林あいは、駅前キネマの常連客にして、双子感覚のシネフィル・松本いちごと小林あけび。そしてたかとりあみが、未来の母・寿美子。
 ハンドレッド戦以来御無沙汰のナベキューを久し振りに見てみるかとした、渡辺元嗣昭和63年第二作。ナベキューといつて渡辺久信では勿論なく、渡邊元嗣旧作の意である。
 “好きな映画を観ながら夢見るやうに死”なうとした女と、プリントの使用量も満足に支払へない名画座の館主がミーツする。ダサさ臭さに一瞥だに呉れずどストレートな映画愛を謳ひあげる反面、再三嘆かれもする斜陽ぶり。淳子が経営するビデオレンタル店の表を通りがかつた松太郎は、折角撮影に貸して貰つてゐるにも関らず、「いい加減な商売しやがつて」と悪し様に毒づく。“蕾の薔薇”なる如何にもロマンティックな謎まで含め、当時、よもや三十年後も現役でピンクを撮つてゐようなどとは思つてゐなかつたにさうゐない渡辺元嗣が、既に一線を退いてゐたたかとりあみと滝川真子をも擁し、並々ならぬならぬ意気込みで今作に挑んだ風情は、ひとまづ透けて見える。さうはいへ貞夫の正体が、トルコ嬢であつた未来の単なるヒモである旨が判明する辺りから、オッ広げられた大風呂敷はみるみる尻窄む。何だかんだであれよあれよと駅前キネマに俳優部が集結しての、上へ下への大騒ぎは如何にもこの頃のナベシネマらしさが微笑ましく、切れたフィルムが洪水の如くのたうつパニック描写は、島鉄雄の暴走する肉塊のイメージに鼻差で先行しつつも、締めの濡れ場を雑なフェードで中断する以上だか以下の最大の疑問手は、北川の提示を脊髄で折り返し、頑なに拒んでゐた松太郎が手の平返すラスト。再度抜いた「東京の休日」ポスターから、カット跨いで駅前キネマの新春番組は今作とナベ二作前「Eカップ本番」(昭和62/主演:田中みか)の豪華二本立て。即ち、大人から子供まで楽しめる娯楽をと、松太郎が先代も持ち出し北川に反駁してゐながら、駅前キネマはケロッと成人映画館に衣替へしたといふ寸法である。北川の手引きにより、劇中「あの娘にタッチ」の主演でデビューしたいちごとあけびが舞台挨拶で気前よく脱ぎ、駅前キネマ上映開始の体で新東宝カンパニー・ロゴとタイトルが入る趣向は素敵に洒落てゐるにせよ、流石に一欠片たりとて方便も設けないまゝ、主人公が右でも左でもどちらでもよいが、一昨日から明後日に転んでゐては凡そ満足に物語が成立し得まい。直截に切り込むと終りの見えたピンク映画に、ナベが賑々しくレクイエムを捧げようとした節は窺へなくもないものの、如何せん諸々伴はない一作である。“蕾の薔薇”の拍子も外れる真相に関しては、連れて来られたたかとりあみの面子に免じ、ここはさて措く。

 一箇所激しく琴線に触れたのが、フィルムの洪水にトチ狂ひ、何かの赤穂浪士もの主人公の口跡を真似自害しようとした貞夫を、未来が平手で張つた上で「何でアンタは何時もさうなのよ!」と一喝。ハハハハ、超絶正しく、何で山竜は何時もかうなんだ。


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