真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「恥ぢる喪服妻 潤ほふ巨尻」(2001『喪服妻の不貞 ‐乱れた黒髪‐』の2007年旧作改題版/製作:ワイ・ワン企画/提供:Xces Film/脚本・編集・監督:遠軽太朗/企画:稲山悌二《エクセスフィルム》/プロデューサー:戸川八郎/撮影:鷹野聖一郎・田宮健彦・織田猛/照明:原信之助/メイク:三岡美恵子/助監督:児玉成彦・筒井茂太/スチール:遠崎智宏/音楽:駿下真実/タイトル:道川昭/協力:彰呼堂/出演:篠宮麗子・今井恭子・林由美香・小林節彦・辻親八・平賀勘一・真央はじめ・山口明文・中村和美・遠軽太朗)。出演者中、中村和美と遠軽太朗は本篇クレジットのみ。
 レンタル妻クラブ「メリー・ウィドウ」喪服デリトル嬢の沢崎多恵美(篠宮)と、妻に逃げられた侘しい中年男・佐々山義則(山口)との一戦で順当極まりなく開巻。一夜の妻を謳ひながら、嬢が喪装であることには冷静に考へれば混乱が生じてゐるやうに思へなくもないのだが、細かいことは気にするな。個人的には欠片も持ち合はせない属性ながら、ひとまづ大定番のギミックである。一方「メリー・ウィドウ」本丸、何処まで本気なのか判らないが、菩薩の心と社会奉仕を説く坊主×髭×作務衣の店長・犬飼義三(辻)が電話を取り、今日もボウズの飯島奈津子(林)を尻目に、その他要員・ユミ(中村)が客の下へと向かふ。それはそれとして平賀勘一は、結果的には臍を曲げ帰つて来るので奈津子の神様になり損ねた男・橋田寿夫。事に及ぶ事前の遣り取りの際、「よく判らんが」を頻りに繰り返すのが、平静を装ふ小心者をポップに表してゐて堪らない。容姿に難は全くない反面、お芝居の方は正直地に足の着かないエクセスライクな主演女優の濡れ場に続く、共に熟練した林由美香と平賀勘一による―両義的な―絡みは、映画を何気なくも安定させる。心情的には、林由美香が三番手に甘んじる不遇を難じたくもなりかねないところではありつつ、逆にかういふ役回りが、これぞ林由美香の仕事ともいへるのではなからうか、あと風間今日子と。話を戻して、奈津子の対橋田戦は中途で終つてしまふ故、帰還した奈津子を、改めて犬飼が抱く。こちらは家ではエコーなのに、外ではマイセンを吸ふ見栄を張る―多分単なるミスに過ぎまいが―文芸誌編集長の駒田忠芳(小林)は、下手に若い女房を貰つてしまつたばかりに、何かにつけて嫉妬心に苛まれ仕方がない。ここで今井恭子が、駒田の若妻・晶子。女癖の悪さで知られる人気作家の矢吹京助(真央)が、晶子の噂を聞きつけ駒田家を来訪することになり、駒田は頭を抱へる。新連載を書いて欲しい矢吹の機嫌を損ねることは許されないが、勿論晶子を他の男に抱かせる訳にも行かないのだ。導入が少々力技ではあれど、駒田の直面する葛藤は実に綺麗なものである。他愛なくも手堅い艶笑譚が、順調に展開する。
 ザックリ譬へると大体イジリー岡田の、二つの重要な繋ぎをさりげなく自分でこなす遠軽太朗は、駒田と、現在は違ふ職に就いてゐるものの、以前は同僚編集者であつた佐々山二人の馴染みの店マスター。駒田と佐々山を繋げるのが、この件で完結する一つ目。駒田の悩みを聞いた、佐々山は一計を案じる。晶子は家を離れさせた上で「メリー・ウィドウ」から多恵美を呼び、多恵美を駒田の妻といふことにして、矢吹を迎撃させようといふのだ。
 過去に他作を観てゐてもおかしくはないが、とりあへず全く覚えてゐない遠軽太朗の、少なくともピンク映画に関しては最終第六作。さうしてみたところ、これが褒め過ぎると完成品の趣さへ漂はせる、素敵にスマートな量産型娯楽映画の佳品。適当な口実で晶子は実家に帰し、多恵美招聘。矢吹を迎へ撃つべく、半分偽物の駒田家の舞台は整つた。勿論ここは当然、晶子が忘れ物を取りに戻つて来るに決まつてゐる。諸々の思惑が複雑に交錯する中、遠軽太朗が卒のない台詞回しで自ら蒔いた伏線が実を結ぶ、終に憤慨に分別を失した駒田がガラッと障子を明け乗り込んでの「貴様!」は抱腹絶倒。実際に、小屋で小生は己(おの)が太股を乱打した。駒田が―又しても―仕出かしかけたところで、強引に火を噴くもう一手が二番手二度目の絡みも込みで、万事を然るべき落とし処に滑り込ませる。一見如何にも御都合的に見せて、この誠麗しい論理性は、ピンク映画として絶対的に秀逸。どうでもいいお話に見させるところが、却つて偉ぶらず素晴らしい。唯一の瑕疵は、晶子V.S.矢吹戦の最中に、一回よろめいてしまふ画面のルック程度か。個人的にはこの辺りの、特にこれといつたテーマ乃至はメッセージを殊更に織り込んでみせることもなく、人の営為にさういふことが最終的には成立し得ぬにせよ、専ら技術と論理によつてのみ作り上げられたやうな一篇にこそ、逆説的なエモーションを激しく覚えるものである。何も技術や論理が、ひとへに機械的で温もりを欠いたものである筈がない。それらを習得する過程で、どれほどの汗と涙とが流されたであらうことか。ところが難しいのは、斯様に技術なり論理を尊ぶ己の視点が、音楽には適用されない身勝手なランダムさ。ズージャーだのフュージョンだのは、「演奏が上手えのは判つたよ、だからどうしたんだよ!」と大嫌ひなのだ。我ながら不徹底あるいは未整理甚だしいが、とかく、さういふものでもあるのではないかと開き直つてみせる。映画の感想から外れて、一体俺は何処の明後日に墜落したのだ?

 気を取り直しついでにところで。エクセスのすることに一々律儀に釣られてみせるのも大人気ないやうな気もせぬではないが、御当人の名誉の為に一言お断り申し上げておく。篠宮麗子の尻は、いふほどデカくは全然ない。


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