真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「恋情乙女 ぐつしよりな薄毛」(2010/製作:多呂プロ/提供:オーピー映画/監督・脚本・出演:荒木太郎/原題:『夢しか夢がない人のプロレタリア恋愛』/撮影・照明:飯岡聖英/編集:酒井正次/助監督:三上紗恵子・森岡佑介/撮影・照明助手:堂前徹之・宮原かおり/応援:田中康文/音楽:宮川透/ポスター:本田あきら/劇中歌『恋情乙女』作詞:三上紗恵子 作曲:安達ひでや 唄:牧村耕次・『蓮池の恋』作詞:三上紗恵子 作曲:宮川透 唄:里見瑤子/録音:シネキャビン/現像:東映ラボテック/タイミング:安斎公一/協力:静活・佐藤選人・福島清和・安達ひでや・江川さん/出演:桜木凛・里見瑤子・浅井舞香・津田篤・那波隆史・淡島小鞠・佐々木基子・牧村耕次・野上正義)、何て完璧なビリングなんだ。
 タイトル開巻、轟音の煽情性を爆裂させる浅井舞香の自慰で口火を切り、イメージ風の津田篤との情交。津田篤が喘ぐ浅井舞香に、桜木凛の面影を重ね合はせる。殆ど立つことさへ叶はぬ、体調を崩した老父(野上)に見送られ、慎一(津田)が外出する。各々の厳密な撮影時期までは不明ながら、2010年六月公開の「最後のラブドール 私、大人のオモチャ止めました。」(監督:友松直之)と、同じく七月末の「お掃除女子 至れり、尽くせり」(監督・脚本:工藤雅典)のエクセス二作に続き、九月初頭に封切られた今作が、昨年末に逝去された野上正義さんにとつての結果的な最後の作品となる。名優と誉れ高かつたガミさんではあるが、老父の見るから具合の悪さうな様子は、恐らく既に半分以上芝居ではあるまい。厳しいことをいふやうだが、そのことの是非は、実は問はれるべきでもなからうか。話を戻して、慎一は父が潰した料理屋「あづま」の再建を期し、故郷―即ち、いふまでもなくロケ地―の静岡を離れ、出稼ぎの飯場で汗を流してゐた。ここで一度目に見切れる淡島小鞠は、家を出る慎一を見送る薮蛇なRAP女、SRにでも被れてみせたのか?三年前、慎一は歌が好きな幼馴染で、演歌だかムード歌謡歌手の河瀬純(牧村)に弟子入りしたマミ(桜木)と、三年後の夕方五時、七間町のオリオン座前での再会を約して別れる。金の目処もつけ、マミへの依然強い想ひも胸に、慎一は静岡に帰つて来たのだつた。尤も三年の間に、慎一は現場の親方(事前の予想通り、ガテン系フェイスの田中康文)の情婦(浅井)に見初められ、筆卸後も度々関係を持つ。一方先の見えぬ付き人生活を送るマミも、姉弟子の典子(里見)に誘はれ、社長(那波)との援助交際に手を染めてゐた。夢を体で買つたことを気に病むマミは、慎一が待つであらうオリオン座に向かふのを激しく逡巡する。
 配役残り荒木太郎―の一役目―は、河瀬純の多分マネージャー。佐々木基子は、自身と同様に“夢しか夢がない”娘の背中を押し、現在は病床に臥せるマミ母親。
 静活の旗艦館・オリオン座は正面の外景だけならば登場するものの、あくまで慎一とマミの三年越しの待ち合はせ場所に偶々選ばれたに過ぎず、二人が木戸銭を落とし小屋の敷居を跨ぐ訳ではなければ、主要モチーフの重きも歌の世界に置かれ、映画文化が顧られることはどちらかといはずともない。そのため、荒木太郎自身の心積もりは与り知らぬが、各々の出来不出来はさて措き脈々と続けてゐること自体は評価に値しよう、全国小屋ロケ行脚御当地映画シリーズの第十一弾とは考へ難いものと思はれる。とりたてて纏めてみるまでもないシンプルな主眼は、離れて暮らす内に互ひに汚れてしまつた男と女。男は兎も角ひたむきに女を待ち、対して過剰なきらひで憚る女は、何時までも忸怩たる思ひを抱へ立ち尽くす。果たして二人が、再び巡り会ふに至るや否や、といつた寸法の、古臭さが却つて鉄板の恋愛映画である。この期に一向に学習する気配すら窺はせない三上紗恵子に頼らぬ自脚本による、三人目の女の裸を見せることにより展開が猛然と走り始める前作に引き続き、三番手を開巻に投入した奇襲は、一旦鮮やかに決まる。屋上への上がり口の、更に屋根の縁に立つた姿を煽りで捉へた、まるで空に溶け込みさうな桜木凛が「ローレライ」を歌ふショットには、それ単体で鮮烈な映画的体験を叩き込み得る画的な力が漲る。ピンク映画初陣の桜木凛は口跡は少々心許ないが、憂ひを帯びた表情は悲恋気味の物語に綺麗に映え、当然期待されるサポート役を、里見瑤子も十全に務める。尤も端的には、起承転結の転部で力尽きてしまつた印象が強い。兎にも角にも二人の、殊にマミの過去にただでさへ限られた尺を喰ひ過ぎて、現在時制の慎一とマミのドラマは、甚だ未完成に止(とど)まる。締めの濡れ場でマミと慎一が結ばれるのが順当な流れであるとしても、伴はぬ脈略を捻じ伏せるだけのシークエンスを、必ずしも用意出来なかつた不備の穴は際立つ。斯様な次第であるならば、河瀬純こと牧村耕次が、キメッキメのカメラ目線で「恋情乙女」をワン・コーラス朗々と披露するのはサービス・カットとして嬉しいが、“溜め”のイントネーションで“為”の意味を通す、典子いはく自分には既になくマミは未だ有する、“タメ”に関する遣り取りなんぞいつそ端折つてしまへとさへ思へる。演者が及ばないものやら演出部の責に帰するべきものやら、津田篤の棒立ちぷりも甚だしい。少なくとも今回の荒木太郎に、若い男役をディレクションする熱意が凡そ感じられなかつたのは気の所為か。余計な意匠と機能しないギミックばかりの、荒木調ならぬ荒木臭を概ね排した正攻法も光りつつ、それでも最終的には肝心要に於ける詰めの甘さを否めない、惜しい大魚を釣り逃がした一作ではある。

 荒木太郎と淡島小鞠(=三上紗恵子)は、オリオン座表で延々と待ち惚けさせられる慎一にアテられる、フェイント要員としてカップルで再登場。辟易といふか自堕落なといふか、兎も角呆れさせられることは禁じ得ない。詰まるところは、僅かに漂ふ荒木臭は、このコンビの登場場面に限定される。自縄自縛を通り越した自爆は、全く以て因果とでもしか最早いひやうがない。簡潔に少なくともラッパー小鞠は、完全に不要だ。


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