真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「未亡人 男と女がゐる限り…」(1996『どすけべ未亡人 私、好きもの!?』の2009年旧作改題版/製作:サカエ企画/配給:新東宝映画/監督:新田栄/脚本:岡輝男/企画:中田新太郎/撮影:千葉幸男/照明:高原賢一/編集:酒井正次/音楽:レインボーサウンド/助監督:佐藤吏/監督助手:大岡昌輝/撮影助手:島内誠/照明助手:原康二/録音:シネ・キャビン/効果:中村半次郎/現像:東映化学/出演:吉行由美・桃井桜子・林由美香・野口四郎・清水大敬・神坂広志)。
 山間の村、夏祭り当日。祭りの舞台となる神社の境内からは少し離れた森の中で、悟郎(野口)と婚約者の美枝(桃井)が接吻を交す。わざわざ“悟郎”といふ役名までつけられてゐる野口四郎ではあるが、少なくとも現代の感覚でいふと、どの辺りが野口五郎なのかサッパリ判らない。別に普通の、少し間も抜け気味のアンチャンである、髪型は近いかな。話を戻すと接吻までは交すものの、美枝はそれ以降は許さなかつた。美枝は退場し、お預けを喰らつた格好の悟郎が宮司の妻・由利子(吉行)の色つぽい浴衣姿に鼻の下を伸ばしてゐると、当の宮司・宏夫(清水)が何事か悟郎を誘(いざな)ふ。家中に招いた悟郎に、藪から棒に宏夫は自らが撮影した由利子の扇情的なヌード写真を見せつける。共同体の目出度え日といふのに、神職が何を仕出かしとるか。狼狽しつつも興奮する悟郎の前に、由利子再登場。宏夫は妻と悟郎をセックスさせると、その模様も写真に撮り始める。そのうちに催して来たのか、宏夫も俄かに参戦の機運を高まらせる。これはこのまゝ由利子を前からか更に後ろからかは兎も角、二穴責めを敢行するものかと思ひきや。何がどう明後日にスッ転んだのか、宏夫は何と悟郎の後門をズブリと開通。清水大敬ならやりかねない歪曲した説得力ないし迫力も、あるといへばなくもないのだが。下から喜悦する由利子、苦悶する悟郎、そして驚喜する宏夫とかいふ地獄絵図のやうなサンドイッチが展開される中、羽目外しも度が過ぎたのかあるいは神罰か、宏夫は発作を起こすと急死してしまふ。宏夫は心臓が悪い云々といつた、フラグも特に皆無のまゝに。ともあれ宏夫の死は、それは腹上死ならぬ

 尻上死かよ!

 映画史上に残、らなくとも別に構はない画期的にアホな死に様だ。兎も角、何故だか悟郎はこの一件を機に心境を急変させると、美枝との婚約を解消し、故郷も捨てる。美枝には悟郎に捨てられる原因がまるで理解出来ないが、美枝のみならず、その点に関しては我々観客も全く同様である。
 “それから一年が経つた”(劇中クレジットは珍かな)、東京で「シロネコ運輸」の宅配便配達員として働く悟郎は、出入りする「サカエ建設株式会社」OLの勝子(林)と仲良くなつたりなんかもする。宏夫の死に責任を感じた―別に欠片も悪くないぢやろ―悟郎は、由利子に金を送り続けてゐた。そんな悟郎を、差出人住所を頼りに由利子が訪ねる。夫の死を自らの腹の上での出来事と処理した由利子は、狭い田舎の淫乱を咎める視線に苦しめられる。一年はと由利子も辛抱するが、遂に東京に出て来たのであつた。そんなこんなで、何が何だか悟郎は由利子と結婚する、釈然としなさばかりの映画ではある。年上の由利子は悟郎を鑑み、浮気を公認。さうはいはれてもそんな気はない悟郎ではあつたが、ある日気紛れに、仕事の途中入つた電話ボックスから拾つて来た、ピンクチラシでホテトルを呼ぶ。現れた嬢は、二度目の何と美枝であつた。美枝は美枝で悟郎から破談にされると処女なのに傷物扱ひされ、その旧弊な針の筵に耐へかね単身上京する。当然苦労しながらも、逞しく生きてゐた。時間までさういふ世間話に花を咲かせると、美枝は金も取らず悟郎の前から姿を消す。神坂広志は、実は今作に於いて依然濡れ場バージンである桃井桜子を介錯する客要員。
 “更に一年後”、殆ど忘れかけた頃に、林由美香再登場。男に騙されただの何だかんだの末に、勝子はサカエ建設を退社。寮を追ひ出された勝子は、ほかに頼る友達もゐないのか悟郎宅に転がり込んで来る。すると勝子を出迎へた由利子は、咄嗟に自分は悟郎の姉であるといふ嘘をついてみる。
 あはよくばお察し頂けようか、筋道立つた物語の萌芽すら見当たらぬ、一切が粛々と濡れ場を銀幕に載せる不断の営為にのみ奉仕する純粋裸映画。展開の逐一は唐突で埋め尽くされ、観客の寝耳には大海原が拡がる。平常の劇映画としてのストーリーの追求を放棄したかのやうなその逆説的、あるいは変則的なストイックさがいつそ麗しくすら見え、これはこれでこれとしてピンクのひとつの完成形でもあるのではあるまいかなどと、野放図な錯覚にすら陥りかけるのは、偏に吉行由実×桃井桜子×林由美香、女優三本柱にビシリと美人が揃つた慶福の為せる業。この際最早、酔はされた者の方が勝ちだ。たとへどんなにそれが木に接いだ竹でしかなくとも、ラストを美しく飾る、吉行由実の幸福さうな笑顔にこゝは心を差し出すべきではなからうか。さういふ、直截なところ本来の出来栄えはこの際さて措き、それでも映画とのそんな付き合ひ方を考へさせられもする一作である。

 それにつけても、小川欽也も現在進行形でかういふ魔法をよく使ふが、幾ら一昔前とはいへとても九十年代後半の代物には見えない古めかしさが、映画全体から醸し出される。個人的には好むところでもあれ、このある意味稀有な肌触りは、一体何から生じるものなのか。


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