弁理士の日々

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半藤一利「昭和史1926->1945」

2010-02-14 14:12:26 | 歴史・社会
昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)
半藤 一利
平凡社

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昨年の6月に発行された本です。本屋の店頭に並んでいるのを見て買っておいたのですが、上巻のみやっと読みました。
厚い本(上巻だけで540ページ)なので後回しにしていたのですが、読んでみたらとても読みやすい本でした。

540ページあるとはいえ、1926年から1945年までの日本史を半藤一利氏が語るのですから、詳細に追っていったらとても足りないはずです。この時期の日本史を半藤氏は、メリハリを付け、概略のみをすっと流して語る部分、微細部分まで語る部分と語り分けています。そのような構成であるため、分厚いけれども読みやすく、一方で540ページしかないのに必要と思われる部分は詳細に理解することができる、という構造になっています。

あとがきによると、この本は、戦後生まれ3人を含む4人の聴衆を前に、日本史講座として半藤氏が語った内容なのだそうです。「授業はときに張り扇の講談調、ときに落語の人情噺調と、生徒たちを飽きさせないようせいぜい努めたつもりであるが」とあり、そのような講義をまとめた本ですから、上記のような特徴を持つ本に仕上がったということのようです。

話は、日露戦争が終わった後の日本と中国の状況から始まります。
《張作霖爆殺事件》
詳細に語られる最初の事件は張作霖爆殺事件です。
時の総理大臣は田中義一氏。陸軍出身です。事件後、昭和天皇と陸軍との板挟みになり、首相は天皇から叱責を受け、総辞職をした後、すぐに亡くなってしまいます。
このことから昭和天皇は、結論として、
「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」と、戦後の昭和天皇独白録に語りました。
これがのちに日本があらぬ方向へ動き出す結果をもたらすのです。
《統帥権干犯》
「陸軍が張作霖爆殺事件で昭和4年に「沈黙の天皇」をつくりあげ、昭和をあらぬ方向へ動かしてゆくのと同時に、海軍も翌年のロンドン軍縮条約による統帥権干犯問題をきっかけに、まことに不思議なくらい頑なな、強い海軍ができあがっていく。つまり昭和はじめのこれら二つの事件によって、昭和がどういうふうに動いていくか、その方向が決まってしまったともいえるのではないでしょうか。」
《満州事変》
「君側の奸」「石原完爾」「柳条湖事件と満州事変勃発」「新聞が突然、関東軍擁護にまわる」などが記されます。
満州国が建国された後、本来は大元帥命令なくして戦争を始めた重罪人である、本庄軍司令官は侍従武官長として天皇の側近となり男爵となります。石原完爾はまもなく参謀本部作戦部長となり出世の道を歩みました。
「昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります。」
《(第一次)上海事変》
満州事変に対して国際社会から厳しい目が注がれる中、陸軍は上海で事件を起こし、これが事変に拡大します。このとき、上海派遣軍の司令官である白川義則大将に昭和天皇は、「国際協定を守ること」「上海から十九路軍を撃退したら決して長追いしないこと」を命じます。白川大将はこれを守り、上海から中国軍を追っ払うと同時に停戦命令を出します。参謀本部は驚いて追撃命令を出しますが、白川大将はこれを聞かず、上海事変を収めてしまいます。
盧溝橋事件後の(第二次)上海事変とこれに続く南京事件の惨状を考えると、隔世の感があります。
《五一五事件、満州国建国、国際連盟脱退》
国際連盟脱退の際の松岡洋右全権大使は、自分では「外交の失敗」と認識していたのに日本では英雄のように扱われ、日本は排外主義的な「攘夷」思想に後押しされた国民的熱狂が始まりました。
「一番大事なのは、この後から世界の情報の肝腎な部分が入ってこなくなったことです。」「この後、孤立化した日本はいよいよ軍部が支配する国となり、国民的熱狂に押されながら、戦争への道を突き進むことになるのです。」
《陸軍「統制派」と「皇道派」》
昭和7年、永田鉄山が参謀本部第二部長(情報)に、小畑敏四郎が参謀本部第三部長(運輸通信)となり、参謀本部で二人は席を並べます。しかし小畑と永田は性格的には水と油で、ぶつかり合うことが多くなります。その後、この二人に派閥として従う子分たちの間も喧嘩となり、「統制派(永田派)」と「皇道派(小畑派)」の分派が始まりました。
この派閥抗争、一度は喧嘩両成敗になりますが、陸軍大臣が替わって永田鉄山が軍務局長として復帰すると、陸軍は「統制派」のもとで一枚岩となります。
《天皇機関説問題と国体明徴の政府声明》
これ以後、まず枢密院議長の一木喜徳郎氏が襲撃され、とたんに牧野伸顕内大臣は辞表を出そうとし、元老西園寺公望も政治に嫌気がさし、天皇側近の穏健自由主義者たちはどんどん腰砕けになります。残る鈴木貫太郎侍従長、斉藤実は頑張り、高橋是清蔵相も予算面で軍部にたてつきますが、彼らは皆二・二六事件で狙われることになります。
《二・二六事件》
この本の中で、二・二六事件については詳細です。半藤氏も思い入れがあるのでしょう。天皇が事件勃発を聞いたのは午前五時半。“鈴木貫太郎襲撃 → 鈴木貫太郎のたか夫人が宮中の甘露寺受長(おさなが)侍従に電話 → 天皇に報告”というルートで、実はたか夫人は、天皇の子どもの頃の乳母でした。このルートによる情報が、二・二六事件に対する天皇のスタンスを形成したのではないか、というのが半藤氏の推理です。
午前6時過ぎ、本庄繁侍従武官長が天皇に拝謁すると、この日は朝から大元帥の軍服に身を固めて出てきます。天皇はこの事件を「内政問題ではなく軍事問題、軍の統帥の問題である」と考えたに違いない、と半藤氏は考えます。
そして湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長、木戸幸一内大臣秘書官庁の3人は、「岡田首相はやられたが暫定内閣は置かない」と決めます。これにより、事件の起きた数時間後にはすでに決起の「失敗」が決定していました。
二・二六決起部隊は、宮城占拠を目的としていました。ところが、宮城へ向かう近衛歩兵連隊の中橋基明中尉率いる中隊が、途中に高橋是清邸があることから、「ついでに大蔵大臣もやってこい」ということで襲撃し、高橋是清を惨殺します。その後に中橋中隊は宮城に入りますが、それまで宮城を守っていた大高少尉は中橋中尉を危険視しており、中橋中尉に「すぐ出ていってもらいたい」と要求するのです。中橋中尉は大高少尉を射殺することもできたでしょうがそれをせず、宮城占拠は失敗しました。
《広田内閣が残したもの》
「(二・二六事件)以後の日本はテロの脅しがテコになって、ほとんどの体制が軍の思うままに動いていくことになるのです。またここで皇道派が完璧につぶれます。」
「(事件後の)広田(弘毅)内閣がやったことは全部、とんでもないことばかりです。」

①「軍部大臣現役武官制」これ以後、陸軍や海軍が「ノー」といえば大臣ができないから内閣が組織できない、つまり軍の思うままになります。
②日本とドイツが「防共協定」を結ぶ。
③陸軍の統制派と海軍の軍令部が相談し、これからの国策の基準を「北守南進」と決めます。
《盧溝橋事件》
事件は、盧溝橋付近で天津駐屯の第一旅団第一連隊第三大隊が演習をしている折、同じように夜間演習をしている中国軍側から数発の実弾が撃ち込まれたことから始まります。
第一旅団長:河辺正三少将 → インパール作戦時の牟田口司令官の上官
第一連隊長:牟田口廉也大佐 → インパール作戦の立案実行者。
第三大隊長:一木清直少佐 → ガダルカナルに上陸して全滅する一木支隊の司令官になる人。
《南京虐殺はあったが・・・》
盧溝橋事件は(第二次)上海事変へと拡大します。ここで苦戦を極めた日本軍は、上海鎮圧では休戦せず、さらに南京へと進撃します。
半藤氏はここで、石川達三が南京事件終了後の南京を取材して書いた小説「生きてゐる兵隊」と、日本陸軍省が密かにつくった「秘密文書第四○四号」について言及しています。私も「生きている兵隊 (中公文庫)」を読みました。また、上記「秘密文書第四○四号」は、このブログの加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(3)で紹介された「陸軍次官通牒」の出典のようです。

以下次号
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