弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

半藤一利「昭和史1926->1945」(2)

2010-02-17 00:44:58 | 歴史・社会
前回に続き、半藤一利著「昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)」の2回目です。

日華事変(日中戦争)の続きです。
《泥沼化していった戦争》
昭和12年暮れの南京陥落後、日本軍はさらに奥地まで進撃します。
このとき、日本陸軍の参謀次長は早期の戦争終結を望みますが、肝腎の近衛文麿総理大臣が逆に強気です。
そして翌1月16日、近衛さんは「国民政府を対手(あいて)にせず」との声明を発してしまうのです。これで日中戦争を終わらせることは不可能となり、次の段階として、その中国を後方から援助しているアメリカ・イギリス相手の戦争になるわけです。

ここまで、だいぶ長々と本の内容を紹介してきたので、ここからははしょります。

《イギリス・アメリカとの敵対》
昭和14年4月、中国で「天津事件」が起きると、日本はイギリスに対して強硬に敵対します。その後とうとう、アメリカが日本に敵対する姿勢を明確にします。
《日独伊三国軍事同盟》
昭和15年9月、日独伊三国同盟の締結です。
かつて海軍の米内光政大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長が身体を張って阻止した三国同盟でした。それがこのとき、近衛文麿首相のもと、及川古志郎海軍大臣は三国同盟締結を認めてしまうのです。
9月15日の海軍首脳会議で
及川海軍大臣「もし海軍があくまで三国同盟に反対すれば、近衛内閣は総辞職のほかはなく、海軍としては、内閣崩壊の責任は取れないから、この際は同盟条約にご賛成願いたい」
伏見宮軍令部総長「ここまできたら仕方ないね」
大角岑生軍事参議官「軍事参議官としては賛成である」
山本五十六連合艦隊司令長官「私は大臣の統制に絶対に服従するものであるが、この条約が成立すればアメリカと衝突する危険が増大する。条約を結べば英米勢力圏の資材を失うことになるが、その不足を補うためにどういう計画変更をやられたか、この点を聞かせていただきたい。」
この発言を豊田次官は完全に無視し、「いろいろご意見もありましょうが、おおかたのご意見が賛成という次第ですから」

三国同盟締結と北部仏印進駐を経て、山本五十六が浜田熊雄に語って
「じつに言語道断だ。・・・自分の考えでは、アメリカと戦争をするということは、ほとんど世界を相手にするつもりでなければだめだ。しかしここまできた以上は、最善を尽くして奮闘せざるを得ない。そしておれは戦艦長門の艦上で討ち死にするだろう。その間に、東京あたりは三度ぐらい丸焼けにされて、非常なみじめな目に遭うだろう。」

海軍第一委員会と石川信吾大佐については、NHK「日本海軍 400時間の証言」にも書きました。

《太平洋戦争開戦前夜》
開戦前の日米交渉に臨むため、昭和15年末、駐米日本大使に海軍大将野村吉三郎が選ばれます。
ところで、野村吉三郎は昭和14年に外務大臣に就任していました。そしてこのとき、野村さんは外務省の大改革を行ったのです。英米協調派の谷正之を次官に据え、米英強硬派を外へ転出させようとしました。親ドイツの元凶である駐独大使大島浩と駐伊大使白鳥敏夫を日本に呼び戻します。これが外務省エリートたちのものすごい反撥を招きました。このように、外務省にとって目の敵の野村さんが駐米大使になったことから、外務省はサボタージュでもってこれを迎え、日米交渉はスムーズに行かなかった、と半藤氏は語ります。
野村大使とコーデル・ハル国務長官の最初の会談で、「日米諒解案」が提案され、4月に最終案がまとまりました。これを受け取った日本政府は狂喜します。松岡洋右外務大臣はモスクワ旅行中であり、外相兼任の近衛首相は大歓迎します。しかし残念なことに、近衛首相は「松岡外相が帰ってくるまで待って意見を聞こう」と言い出したのです。帰国した松岡外相はこの案を一蹴し、日米諒解案はすっ飛んでしまいました。

そしてドイツが突然、ソ連に侵攻します。

昭和16年7月の第1回御前会議では、南進の方針をかかげ、「本目的達成のため対英米戦を辞せず」と決定します。
この頃、アメリカは本の外交暗号の解読に成功していました。従って御前会議の決定は、すでにアメリカに筒抜けだったのです。
そして7月28日、日本は南部仏印進駐を開始すると、その途端、8月1日にアメリカは石油の対日輸出の全面禁止を通告しました。「えっ、まさかそこまでやってくるとは」と海軍の何人かは言ったそうです。
日米諒解案なんて吹っ飛ぶと同時に、野村とハルの地道な交渉もこの瞬間に吹っ飛びます。

9月2日の第2回御前会議の前。米英に対して戦争準備をすることが第一番に挙げられます。天皇は会議前、近衛首相、杉山参謀総長、永野軍令部長に対して内容を追求しますが、最後は納得して御前会議の開催を許可してしまいました。この間のいきさつは本を読んでください。

《開戦の詔勅》
日清、日露、第一次大戦それぞれの開戦の詔勅にはいずれも、「国際法、国際条規を守れ」との文言が入っています。それに対して今回の開戦の詔勅にはその文言が入っていません。マレー半島上陸作戦において、どうしても中立国のタイ領土に侵入する必要があり、そこで国際法違反を最初から承知していたからです。「このことは後に、意識の上でまことに大きな問題を残すことになります。」

《日本の家屋は木と紙だ》
カーチス・ルメイ中将がマリアナ方面の指揮官に赴任すると、夜間低空飛行による焼夷弾攻撃を立案します。3月10日の東京大空襲が皮切りとなりました。著者の半藤氏もこの空襲で死にかけたといいます。日本政府は戦後、ルメイに勲章を授与したと最近知人から教わりましたが、この本にも「勲一等の勲章を差し上げました」と書かれています。

《原子爆弾とポツダム宣言の「黙殺」》
7月26日にポツダム宣言が発せられると、天皇は「これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。」と東郷外相に告げます。ところが日本政府はソ連仲介の以来の返事を待っているところだったので、とりあえずは無視しようということになりました。そして新聞にはできるだけ小さく発表しようとしましたが、新聞社は独自に解釈して戦意高揚をはかる強気の言葉を並べてしまいます。軍もいい気になって「完全無視」の声明を出すように政府をせっつき、仕方なく鈴木貫太郎首相は28日「ただ黙殺するだけ」と会見で述べてしまうのです。
日本への原爆投下はこの「黙殺」声明が原因といわれていますが、事実は、この前の24日にすでに投下命令が出されていたのです。
アメリカのトップのほとんどの指導者たちは、日本に原爆を投下することになんらためらいませんでした。ラルフ・バード海軍次官のみが、「どうしても投下するなら前もって日本に予告すべきである」と主張し、無警告投下が決定されると自ら職を離れました。

《ポツダム宣言受諾》
7月8日、天皇から木戸内大臣に「なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ」とのお言葉があり、鈴木首相はさっそく最高戦争指導会議を開こうとしますが、軍人たちは忙しいということで9月朝に延期することにします。そして9日の午前零時を過ぎた途端、ソ連が満州の国境線を突き破って侵入してきます。
9日朝からの最高戦争指導会議、突然の御前会議、その場で首相が天皇に聖断を仰いで終戦が決定したいきさつ、などが著書に詳細に記されています。
10日に中立国を通じて日本の受諾条件を通告すると、12日夜に連合軍側からの回答が伝わります。その中の"subject to"の解釈をめぐる騒動についても著書に記されています。14日朝の御前会議、再度首相から“聖断”を求められた天皇が語った言葉が掲げられています。

《降伏することの難しさ》
8月14日午後11時、日本のポツダム宣言受諾は中立国を通じて連合国に通達されました。しかしこれは「戦闘をやめる」との意思表示にすぎず、「降伏の調印」をするまでは戦争が終結したことになりません。そのことを日本政府は知らなかったらしいのです。ドイツの場合は降伏を申し出てから2日後に調印をしています。
降伏の調印がなされないことを利用したのがソ連です。ソ連はそのまま満州をぐんぐん攻めてきます。この戦いで日本は戦死8万人、一般民間人が18万人死亡しました。57万人がシベリアに抑留され、10万人以上がシベリアの土の下に眠っています。
日本がもっと真剣に考えるなら、直ちに満州に天皇の使者を送り、政府同士で戦闘停止の決め事をきちんとしなくてはいけなかった、というのが半藤氏の見解です。

東京湾に浮かんだ戦艦ミズーリ艦上で降伏文書の調印式が行われたのは9月2日です(戦艦ミズーリ訪問参照)。

結局は長い記事になってしまいました。以下次号
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 半藤一利「昭和史1926->1945」 | トップ | 半藤一利「昭和史1926->1945... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・社会」カテゴリの最新記事