弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

日本人になった祖先たち

2007-04-10 22:04:38 | 趣味・読書
篠田謙一著「日本人になった祖先たち」(NHKブックス)
日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス 1078)
篠田 謙一
日本放送出版協会

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人間は、細胞の核の中に23組(46本)の染色体を持っています。両親から各組1本づつ1セットの染色体を受け継ぎます。大部分の染色体はペアの中で組み替えが起こり、両親の資質がシャッフルされて子どもに受け継がれます。この染色体の中にDNAが含まれています。
細胞中のミトコンドリアもDNAを持っていますが、ミトコンドリアDNAは母親からのみ子どもに受け継がれ、両親の資質のシャッフルが起こりません。

「日本人になった祖先たち」は、現代人及び化石人のミトコンドリアDNAの分析から、日本人のルーツを探ろうという本です。

ミトコンドリアDNAの種類はハプログループと呼ばれ、この本に描かれている図から人間のハプログループの数を数えると、80近くあるようです。そして、各グループの似かたの解析から、現人類はまずアフリカで生まれ、その後ヨーロッパ、アジア、アメリカに拡散したことがわかります。

そこで日本人のルーツです。
しかし、「中央アジアのある地域にはハプログループAのみが住み、上海付近にはハプログループBのみが住む、日本人は、Aが55%、Bが45%」というような状況であれば、日本人のルーツを簡単に説明することができますが、実際はそんなに単純ではありません。
どの地域も、多くのハプログループが多数存在し、それぞれの存在比率がちょっとずつ異なるだけなのです。
従って、本を読み進めても、簡単には日本人のルーツが頭に入ってきません。読み終わっても結局よくわからなかった、というのが正直な感想です。

ハプログループM7aは日本人に特有のグループです。同じM7仲間のM7Bは大陸の沿岸から中国南部地域、M7cは東南アジアの島嶼部に分布の中心があります。
日本国内でのM7aの存在比率を地域別に見ると、
沖縄-24%、九州-12%、東海-9%、東京・東北-6%、アイヌ-16%という比率になっています。沖縄が高く、アイヌがその次、そして九州から東北までは徐々に減少する傾向が明らかです。
この数字からの推定として、
「縄文人は沖縄をスタートして日本に分布し、北へと広がった。その後、渡来系の弥生人が縄文人と混血したが、沖縄人とアイヌ人は弥生人とそれほど混血しなかった。」
といわれているようです。
九州から東北までの地域について、縄文人時代のM7aの分布状況が現代まで受け継がれているということは、九州での縄文/弥生混血比率と、東北地方での縄文/弥生混血比率がそれほど異なっていなかったということになります。それもちょっと解せないですね。
縄文時代、日本人の人口分布は、西日本に2万人、東日本に20万人であったと推定されています。当時の主食であったドングリが、西日本にほとんどなかったのでしょうね。そしてその時代末期の九州に弥生人が渡来してきたとしたら、西日本の全人口に占める弥生人比率が、東日本のそれを上回るものと推定できるので、西日本の人のM7aは薄められて低くなるはずで、九州から東北にかけてのM7aの分布状況と合いません。

ミトコンドリアDNAは女系でしか遺伝しません。従って、ミトコンドリアDNAから民族の歴史を解析する際には、「民族移動に際して男性と女性が一緒に移動した」という前提が必要です。もし民族Aの男性のみが移動し、民族Bの女性と混血したとしても、その子孫にはBのミトコンドリアDNAしか受け継がれません。他国の男性兵士による侵略を受けた地域ではそのようなことが起こりえるでしょう。

ところで、染色体中のY染色体は、男系のみで受け継がれます。細胞中で、ペアとなるX染色体との間での組み替えも起こらず、男系のルーツを探る手段となるそうです。ただし、ミトコンドリアDNAが化石人骨から解析可能なのに対し、Y染色体は今のところ現代人の解析のみが可能です。Y染色体を用いた研究も進んでいます。
全世界的な人類の移動と拡散の歴史については、ミトコンドリアDNAとY染色体の調査結果は概ね合致するようです。
かつての「元」の版図において、チンギス・ハンその人のY染色体を受け継ぐ男性が人口の8%、1600万人存在するという研究もあるそうです。真偽の程はわかりませんが。
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小沢治三郎提督

2007-04-08 17:42:11 | 歴史・社会
旧日本海軍の提督の中で、高い評価を受けている人に小沢治三郎提督がいます。
有名なのは、レイテ沖海戦で小沢艦隊として空母部隊を指揮し、囮の役割を演じたことでしょうか。

日本海軍、錨揚ゲ!」でも話題に上ります
太平洋戦争劈頭、日本軍がマレー上陸作戦を敢行する際、小沢提督は南遣艦隊司令長官として上陸部隊の護衛に当たります。シンガポールを根拠地にしたイギリス東洋艦隊が上陸作戦をどれほど妨害するかわからないという状況でコタバルに上陸しようとして、陸軍は大いに迷いますが、小沢さんが、「全艦艇が沈んでもいいから、私は責任を持って護衛する」と言い切り、陸軍は予定どおりに上陸作戦に踏み切ります。このときの陸軍の参謀には、小沢治三郎がとにかく神様に見えたとのことです。

小沢提督は、日本海軍の空母部隊の育ての親といわれていながら、太平洋戦争開戦時の航空艦隊司令長官は南雲忠一でした。小沢氏が南雲氏に代わって航空艦隊を指揮するのは敗戦濃色となってからです。
マリアナ沖海戦では、攻撃に向かった日本の艦載機はことごとく米軍の餌食となり、米軍から「マリアナの七面鳥狩り」といわれました。レイテ沖海戦では、上述のごとく残余の空母を率いて囮部隊となり、見事にハルゼー空母部隊をおびき寄せました。しかしこのとき、主力の栗田艦隊は、レイテ湾突入の直前に謎の反転を行い、戦機を失いました。

そして、1945年5月に、最後の連合艦隊司令長官に就任し、終戦を迎えます。

戦後、半藤一利氏が小沢氏にインタビューしても、海軍のことは一切話しませんでした。

太平洋戦争中の小沢提督については、もう一つ逸話があります。阿川・半藤対談に私も加わり、ぜひ披露したかったです。

小沢治三郎が海軍の名提督であれば、第二次大戦中の陸軍の名将官として今村均氏が挙げられます。
私は今村均著「今村均回顧録」(芙蓉書房)という本を持っており、その中に以下の話が出てきます。
昭和17年2月、今村中将はジャワ上陸作戦の司令官として、サイゴンで上陸作戦の準備をしています。すると海軍の輸送船団護衛艦隊司令官の原少将が、連合艦隊から割り当てられた護衛艦艇が不足すると訴えてきたのです。原少将は、どうか陸軍の上部から海軍上部に、艦隊増派を働きかけてくれと頼みます。
そこで、今村中将が総軍司令部に交渉しようとし、その前に、管轄違いですが小沢治三郎方面艦隊司令長官に意見を聞きに行きます。
すると小沢司令長官は、ジャワ上陸の護衛艦隊が自分の管轄ではないにもかかわらず、自分の艦隊から、ジャワ護衛艦隊に増援を出すのです。
 ---
小沢長官「今から総軍と交渉しそれから連合艦隊に電報するようでは、船団発進の時機までに時間的余裕はありますまい。ついては、当方面海上一般の情勢上、可能と考えますので、部下艦隊中から、原少将の麾下の戦力とほぼ同数の艦艇を引抜き、増援しましょう」
 この提督は、万一にも連合艦隊の不承認があったらいけないと思ってか、全くの独断により、こんな大きな兵力転用を断行しようとしている。
 ・・・
 小沢長官は、それでもなお私の軍の上を案じ、原少将の指揮に入れない大巡二隻を船団の後方に進航させ、それとなく警護することさえしてくれた。
(今村部隊のジャワ上陸時)バダビヤに近いバンタン湾付近の海戦で、わが駆逐艦が、敵巡洋艦二隻と交戦している最中、突如わが大巡二隻が駆けつけ、米巡洋艦ユーストン号(約1万トン)と同型の豪巡洋艦バース号(約7千トン)とに巨弾を浴びせ、夜中見事に撃沈し、このため軍の船団は四隻の沈没百名の戦死だけに限られ、上陸作戦は支障なく成功し得た。
 が、もし右の小沢海軍中将の独断協力がなかったとしたら、どんな大きな犠牲が生じたか、又上陸そのものが、可能だったかどうかも、わからなかっただろう。
 第十六軍主力方面の上陸作戦の成功は、全く小沢海軍長官の賜物だったので、私は今に、そのときの感激を忘れないでいる。
 ---

ただでさえ陸軍と海軍は犬猿の仲といわれている中で、小沢長官は、自分の管轄範囲外について、陸軍の一中将の申出に基づき、自分の部下艦隊を増援に出しているのです。
海軍の小沢治三郎と陸軍の今村均のこの邂逅、阿川弘之/半藤一利「日本海軍、錨揚ゲ!」で取り上げて欲しかった話題です。
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ミッドウェー海戦

2007-04-07 08:59:38 | 歴史・社会
日本海軍、錨揚ゲ!」に刺激され、日本海軍ネタをアップします。

太平洋戦争劈頭に真珠湾攻撃で大勝利を収めた日本海軍は、しばらくの間は当たるところ敵無しの強さを見せます。その勢力が一挙に逆転したのが、昭和17年6月のミッドウェー海戦です。
日本がミッドウェー島攻略を目指して空母4隻(赤城、加賀、蒼竜、飛竜)を出動させ、これに対して米海軍が空母3隻(エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン)で迎え撃ち、日本は空母4隻すべてが撃沈され、米国はヨークタウン1隻を失った、という結果で終わりました。

決戦の日の朝、戦闘海域に到着した日本機動部隊(空母部隊)は、まず索敵機を発進させ、ついでミッドウェー島爆撃隊を発進させます。米国の空母部隊が近海にいるかどうか、全く不明のままです。しかし日本空母では、第2次攻撃隊が、米空母との決戦に備えて対鑑爆弾や魚雷を装着して準備しています。
そのとき、ミッドウェー爆撃隊を指揮する朝永丈市飛行長から「第二次攻撃の要ありと認む」という報告通信が入り、南雲司令官は第2次攻撃隊に陸用爆弾に変更する命令を発します。
遅れて発進した索敵機「利根4号機」から敵艦隊発見の報告が届いたのはその後です。しばらくして「空母らしきものを伴う」と報告してきます。
飛竜に乗艦していた山口多聞司令官は、「陸用爆弾のままでも発進しよう」と進言しますが、南雲長官は、対鑑爆弾への再転換を命令します。
そして転換を完了した第2次攻撃隊が発進する直前、米空母の急降下爆撃隊に急襲され、3鑑はあっというまに大破、4鑑目の飛竜も攻撃を受け、4鑑とも撃沈されます。
俗に「運命の5分間」と呼ばれています。

日本がこのように大敗した直接の原因は、驕慢にあります。呉の床屋でも「今度はミッドウェーですね」と知られるぐらいに秘密が守られず、さらに日本海軍の暗号が米軍に解読されていることに全く気付きませんでした。そして、「ミッドウェー海域に米機動部隊は出動しているはずがない」という思いこみもあります。

しかし、それにしても、ここまで一方的に敗北するに至ったのは、偶然の積み重ねによるのではないかと思っていました。
・決戦の日の朝、日本機動部隊が2段索敵を行っていたら
・利根4号機の発進が遅れなかったら
・後方に控える連合艦隊旗艦大和は、米空母が近海にいることを敵信傍受から掴んでいましたが、南雲部隊に伝えませんでした。もしこの情報が南雲部隊に伝わっていたら
・南雲長官が朝永飛行長からの通信を採用せず、第2次攻撃隊を対鑑爆弾のままで待機していたら
・敵空母発見の報告に接し、山口司令官の進言を入れて陸用爆弾のまま発進していたら
・エンタープライズとヨークタウンから別々に発進した急降下爆撃隊が、同時に日本空母上空に到着するという幸運がなかったら

以上の「歴史上のイフ」のうちひとつでも実現していたら、海戦の結果は、「日本も米国も空母2隻ずつを喪失して引き分け」ぐらいに終わったのではないかと。


先日報告した「日本海軍、錨揚ゲ!」で半藤一利氏が面白い話を披露しています。
半藤氏と海軍好きの者が何人か集まって、ミッドウェー海戦の図上演習をやったことがあるそうです。ちゃんと軍令部の図上演習規則に則って、日本側、米側、審判が別々の部屋に籠もり、お昼から夜中まで12時間かけてやったそうです。
日本はアメリカの空母をなかなか見つけられないのに、日本空母はすぐに見つかってしまうそうです。
そして結果は、アメリカの空母2隻撃沈、日本空母は1隻撃沈、1隻大破でした。
私の「当たり前であればこんな結果ではなかったか」という予測とよく合致していました。

半藤氏は、ミッドウェー海戦の米機動部隊司令官であったスプルーアンスにも会っています。ミッドウェー海戦について聞いたら、もう終始、あの海戦はアメリカにとって「幸運でしかなかった」と言っていたそうです。

《2段索敵について》
ミッドウェー海戦当時、敵艦隊を発見するのは、索敵機の乗員の目だけが頼りでした。従って、夜が明けないと敵を発見できません。夜が明けたあと、敵味方どちらが先に敵を発見するかが勝負です。
2段索敵とは、夜が明ける前に第1次の索敵機を発進させ、夜が明けるとともに第2次の索敵機を発進させるという方法です。第1次索敵機は夜が明けたときに既に遠くまで飛んでいるので、そこから先の敵を早期に発見することができます。
ミッドウェー海戦で日本機動部隊は、索敵機として運用する飛行機の数をけちり、1段索敵しかやりませんでした。そして実際に米空母を発見する利根4号機は、発進が遅れたのです。
《利根4号機》
巡洋艦利根のカタパルトから発進した水上偵察機の4号機ということです。
もっとも敵機動部隊は、利根4号機より先に発進した筑摩1号機によって発見されるべきであった、という説もあるようです。

飛行長の友永大尉は、被弾した機に乗って再度出撃し、空母ヨークタウン雷撃中にさらに被弾し、最後はヨークタウンの艦尾に体当たりして果てました。
友永大尉の忘れ形見の戦後について、豊田穣著「撃墜」に短編が載っています。
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いよいよ4月中旬に「はやぶさ」地球へ帰還開始!

2007-04-05 23:19:58 | サイエンス・パソコン
惑星間探査機「はやぶさ」について、このブログで1月30日に状況をアップしました。
そのときの予想では、この春に地球に向けた旅を開始することになっており、はやぶさウォッチャーを自認する私としては、その後の状況報告を心待ちにしていました。

Jaxaのページに報告が上がりました。

いよいよ4月中旬に「はやぶさ」地球へ帰還開始!

  提供 JAXA
「2005年11月、小惑星イトカワに着陸した探査機「はやぶさ」は、2007年1月に、探査機内の試料採取容器を帰還カプセル内に搬送、収納し、カプセルの蓋閉め、密封作業(ラッチとシール)を実施しました。
2月からイオンエンジンの運転のための新たな姿勢制御方式を試験し、3月下旬から徐々にイオンエンジンの運転を試みています。
4月中旬よりいよいよ地球への帰還へ向けた本格的な巡航運転を開始する予定です。
「はやぶさ」の運用は、依然厳しい状況ですが、2010年6月の地球帰還へ向け、最大限の努力を図ってまいります。」

また、「はやぶさ」の現状についてでより詳しい説明がされています。

姿勢制御装置と化学エンジンが故障している中で、主推進エンジンであるイオンエンジンを作動させる際の姿勢制御機能を新たに確立したのですね。その方策にめどが立ったということで、4月中旬の出発が決まったようです。

地球まで3年間の長旅ですが、地球に到達するための燃料であるキセノンガスを、30kg保有しています。地球まで20kgで帰って来れるそうです。イオンエンジンの特徴なのでしょうが、これっぽっちの燃料で帰ってこれるとは驚きです。

地球への無事帰還を祈っています。
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日本海軍、錨揚ゲ!

2007-04-03 21:34:13 | 趣味・読書
阿川弘之/半藤一利著「日本海軍、錨揚ゲ!」
日本海軍、錨揚ゲ! (PHP文庫)
阿川 弘之,半藤 一利
PHP研究所

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菊村到「硫黄島」を読んだ流れで、アマゾンで購入して読んでみました。

阿川弘之氏は、東大文学部を繰り上げ卒業して海軍予備学生から海軍を経験しています。半藤一利氏は、終戦後に東大文学部を卒業し、文藝春秋の編集長などを歴任しています。
お二人の共通点は、「日本海軍が好き」という点のようです。そしてこの本は、2日間合計10時間にわたって、日本海軍に関するお二人の蘊蓄を傾け合った対談の結果なのです。

半藤氏は、旧日本海軍の多くの提督や兵士に直接会って話を聞いています。提督では、嶋田繁太郎、井上成美、栗田健男、田中頼三、小沢治三郎の各氏です。あと高木惣吉氏。
ミッドウェー海戦で米空母ヨークタウンを撃沈した潜水艦の艦長である田辺弥八氏。

海軍の提督もウソをつく、という話題で、比較的嘘が多かったのは栗田さんだと、半藤氏が言っています。
栗田氏は、レイテ沖海戦の栗田艦隊を指揮した人です。レイテ湾突入の直前に反転して帰ってきてしまい、「謎の反転」と言われています。栗田氏は半藤氏に対し、「レイテ沖海戦時に、小沢艦隊(指揮官:小沢治三郎)からの『敵艦上機と交戦中』の電報は、空母瑞鶴の通信機の故障で受け取らなかった」と証言します。その後、伊藤正徳氏が一緒の席で、伊藤氏が栗田氏に「君はこの青年に嘘ついているんじゃないか?」と聞くと、「いや」「結局、俺、ものすごく疲れてたんだ」と。

半藤氏が小沢治三郎氏に面談しても、海軍のことは一切しゃべらなかったそうです。レイテ沖海戦の話をしても知らん顔している。最後にポツンと「まじめにやったのは西村君だけだ」。それでおしまい。レイテ沖海戦で西村艦隊だけがレイテ湾に向けて突っ込んだわけですが、この海戦については、半藤氏の「レイテ沖海戦」(PHP文庫)が一番よくわかります。

日露戦争の日本海海戦。
バルチック艦隊が対馬海峡に向かって姿を現す前、一体対馬海峡を通るのかはたまた津軽海峡か宗谷海峡か、日本の連合艦隊では疑心暗鬼でした。司馬遼太郎氏が「坂の上の雲」を書いた頃は知られていなかった事実として、連合艦隊はあやうく津軽海峡へ転進する直前であったというのがあります。NHK「そのとき歴史が動いた」でも紹介されていたと思いますが、「密封命令」というのが出されていて、その密封命令によると「5月25日(海戦の2日前)には津軽へ転進せよ」と書かれていたのです。
軍令部が3部だけ作成した「極秘明治378年海戦史」という書物があり、その中に上記事実が記されていました。軍令部と海軍大学校が保管していた2部は終戦時に焼いちゃったのですが、宮中に保管されていたものが戦後防衛庁に移され、半藤氏はそれを実際に閲覧したそうです。

対馬海峡に向かうバルチック艦隊を発見し、連合艦隊が出撃します。そのときに秋山真之参謀が発した有名な電報「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃沈滅せんとす。・・・・本日天気晴朗なれども波高し。」について。
最後の一文について、通説では、「天気が良いから遠くから砲撃照準できる。波が高いから、舷側の低いロシア鑑の照準は定まらないが、舷側の高い日本鑑の照準ら定まるから有利。」と解釈されています。
ここで半藤説が登場します。「当時日本海軍が極秘に準備していた連繋水雷が残念ながら使えない天気だ」という意味があるというのです。鈴木貫太郎が指揮する第4駆逐隊がロシア艦隊の進路上に連繋水雷をまくはずだったのが、波が高すぎるので残念ながら使えない」という意味もあるとのことです。

日本海海戦での連合艦隊の180度一斉回頭、正式には八点回頭というそうですが、一般には東郷司令長官が「右手をあげて左方に一振り」ですが、連合艦隊参謀長であった加藤友三郎氏の回想録では「私が言ったんです」とあるそうです。
加藤友三郎氏は、ワシントン軍縮会議では日本首席全権委員を務め、後に総理大臣を務めているときに病で亡くなります。加藤氏については、この本でもっと取り上げて欲しかった人です。

いやあ、楽しい対談ですね。私も、この対談の末席に連なって、わずかながら持っている蘊蓄を披露したいという衝動に駆られました。このブログでなら好き勝手にできますので、ちょっと試みてみましょう。次回以降に。
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荒井裕樹「プロの論理力」

2007-04-01 20:45:53 | 趣味・読書
荒井裕樹著「プロの論理力」(祥伝社)
プロの論理力!―トップ弁護士に学ぶ、相手を納得させる技術
荒井 裕樹
祥伝社

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テレビ番組「情熱大陸」で荒井弁護士のことを知り、本屋でこの本を見つけたので買ってみました。発行は平成17年9月10日で、1年半も前の発行なのですね。本屋で平積みされていましたが、テレビ「情熱大陸」の影響でまた売れているのでしょう。

荒井弁護士が多くの困難な訴訟で勝訴を得ていることは間違いないので、その仕事のノウハウの一部でも理解することができれば、と、私のための業務ノウハウ吸収本として購入しました。

一言でいうと、プロ向けの本ではなく、一般向けの啓蒙書となっています。
著者があとがきで「これからを担う若い世代に、『個人の力』で勝負するという気概を共有してもらう必要がある。そのために、もし、私のキャリアに注目する同世代や、より若い世代の方々が、本書を手に取り、私の思いに少しでも共感してもらえる可能性があるならば、私は、その可能性に賭けたいと思ったのだ。」書いているように、若い世代を読者対象としているのですね。

そのためか、仕事として交渉ごとを経験されている方々には、「この仕事をしている人間なら普通に体得しているはずのノウハウばかりではないか」と感じられるかもしれません。ごく普通に経験を積んだプロフェッショナルと比較して、「確かにこの点で1億円プレーヤーたり得る」というほどの差を感じることはできませんでした。
しかし、当たり前の中に真実が隠されているということもあり、著者が数々の勝訴を勝ち取った結果として1億円プレーヤーであることは事実なのですから、素直に彼の言葉を吟味してみることにします。

ところで著者は、東大法学部在学中に司法試験に合格した人です。
「大学の同期生で、私と同じように大学在籍時に司法試験に合格したような短期合格者で弁護士になった者の多くにとっては、業界で名の通った大手法律事務所に就職するのが当然の選択肢だった。少なくとも、東京永和のような比較的小さな法律事務所を『第一志望』にする人間は滅多にいない。」
「200人規模の大手法律事務所の場合、同期入社組は20人程度。その上位に入っていれば、数年後には米国のハーバードやコロンビアなど一流大学のロースクールに留学させてもらえる。そのまま順調に出世街道を進めば、10年後にはいわゆる『パートナー弁護士』の座が待っているわけだ。それが、大手法律事務所に就職した弁護士の典型的な『出世すごろく』である。」

荒井氏は、就職活動で訪問した東京永和で、升永弁護士が扱っていた裁判の準備書面に惹かれます。説得的な論理を構築して、従来の最高裁判決を覆して見せたのです。個人が持つ「論理力」と「野心」の相乗効果で、「個人の力」で勝負してやろうとかき立てられたのでした。

職務発明の相当の対価として高額判決が出ることに対し、「サラリーマンはリスクを取っていないことを考えると、発明の対価は高すぎる」という批判があります。これに対し荒井氏は、「上場企業の取締役がリスクを取ることで高額の報酬を得ているかというと、決してそんなことはない。完全な業績連動型の報酬にはなっていないからだ。」「したがって、リスクを取っていないことを根拠に発明対価を低く見積もるのは間違っている。」と主張します。
なるほど、このような主張は納得的ですね。

荒井氏は自分が手がけた事件から「50万円が相場の痴漢事件で、300万円を勝ち取った」事例を紹介しています。確かに交渉ごとのノウハウを含んでいますが、1億円プレーヤーが紹介するにはちょっとこすいやり口の事件でした。
若い一般の読者向けに話題を選択したと言うことでしょうか。

パチスロ機メーカーであるアルゼに課せられた税金についての訴訟では、アルゼの行為が「仮装隠蔽」であると認定された点に関し、そのような仮装隠蔽を行う「経済的動機がない」というロジックを展開したそうです。国はそのロジックに反論できず、アルゼの全面勝訴となりました。「経済的動機がない」という論理で、裁判官の納得が得られたということです。普通の人が考えつかない論理を創出し、その論理を聞いたらだれも反論できない、という仕事ですね。

荒井氏は、日頃からあらゆる分野について情報収集を怠らないそうです。

旺文社は、オランダの会社を経由して国内の関連会社にテレビ朝日株を保有させ、これを孫氏とマードック・グループに売却し、結果として日本の課税がゼロとなります。これが税金逃れとみなされ、130億円超の課税処分を受けました。
そこでこの関連会社が、単に税金逃れを目的にして設立されていたのではないと証明してイメージ悪化を避ける作戦を立てます。
荒井氏は、この会社をメディアミックス事業の中心に据えようとしたのではないか、と思いつきます。依頼者にいろいろ質問していくと、確かにそのような動きがあることがわかり、決して最初から税金目的でその会社を設立したわけではないことを示すことができました。
このようなアイデアが思いついたのは、荒井氏がメディア業界のことを勉強していたからです。

この本を執筆が今から1年半前、情熱大陸出演がつい先日です。
これから荒井弁護士がどのようなキャリアを積み上げていくのか、楽しみにしています。
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