弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

日本海軍、錨揚ゲ!

2007-04-03 21:34:13 | 趣味・読書
阿川弘之/半藤一利著「日本海軍、錨揚ゲ!」
日本海軍、錨揚ゲ! (PHP文庫)
阿川 弘之,半藤 一利
PHP研究所

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菊村到「硫黄島」を読んだ流れで、アマゾンで購入して読んでみました。

阿川弘之氏は、東大文学部を繰り上げ卒業して海軍予備学生から海軍を経験しています。半藤一利氏は、終戦後に東大文学部を卒業し、文藝春秋の編集長などを歴任しています。
お二人の共通点は、「日本海軍が好き」という点のようです。そしてこの本は、2日間合計10時間にわたって、日本海軍に関するお二人の蘊蓄を傾け合った対談の結果なのです。

半藤氏は、旧日本海軍の多くの提督や兵士に直接会って話を聞いています。提督では、嶋田繁太郎、井上成美、栗田健男、田中頼三、小沢治三郎の各氏です。あと高木惣吉氏。
ミッドウェー海戦で米空母ヨークタウンを撃沈した潜水艦の艦長である田辺弥八氏。

海軍の提督もウソをつく、という話題で、比較的嘘が多かったのは栗田さんだと、半藤氏が言っています。
栗田氏は、レイテ沖海戦の栗田艦隊を指揮した人です。レイテ湾突入の直前に反転して帰ってきてしまい、「謎の反転」と言われています。栗田氏は半藤氏に対し、「レイテ沖海戦時に、小沢艦隊(指揮官:小沢治三郎)からの『敵艦上機と交戦中』の電報は、空母瑞鶴の通信機の故障で受け取らなかった」と証言します。その後、伊藤正徳氏が一緒の席で、伊藤氏が栗田氏に「君はこの青年に嘘ついているんじゃないか?」と聞くと、「いや」「結局、俺、ものすごく疲れてたんだ」と。

半藤氏が小沢治三郎氏に面談しても、海軍のことは一切しゃべらなかったそうです。レイテ沖海戦の話をしても知らん顔している。最後にポツンと「まじめにやったのは西村君だけだ」。それでおしまい。レイテ沖海戦で西村艦隊だけがレイテ湾に向けて突っ込んだわけですが、この海戦については、半藤氏の「レイテ沖海戦」(PHP文庫)が一番よくわかります。

日露戦争の日本海海戦。
バルチック艦隊が対馬海峡に向かって姿を現す前、一体対馬海峡を通るのかはたまた津軽海峡か宗谷海峡か、日本の連合艦隊では疑心暗鬼でした。司馬遼太郎氏が「坂の上の雲」を書いた頃は知られていなかった事実として、連合艦隊はあやうく津軽海峡へ転進する直前であったというのがあります。NHK「そのとき歴史が動いた」でも紹介されていたと思いますが、「密封命令」というのが出されていて、その密封命令によると「5月25日(海戦の2日前)には津軽へ転進せよ」と書かれていたのです。
軍令部が3部だけ作成した「極秘明治378年海戦史」という書物があり、その中に上記事実が記されていました。軍令部と海軍大学校が保管していた2部は終戦時に焼いちゃったのですが、宮中に保管されていたものが戦後防衛庁に移され、半藤氏はそれを実際に閲覧したそうです。

対馬海峡に向かうバルチック艦隊を発見し、連合艦隊が出撃します。そのときに秋山真之参謀が発した有名な電報「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃沈滅せんとす。・・・・本日天気晴朗なれども波高し。」について。
最後の一文について、通説では、「天気が良いから遠くから砲撃照準できる。波が高いから、舷側の低いロシア鑑の照準は定まらないが、舷側の高い日本鑑の照準ら定まるから有利。」と解釈されています。
ここで半藤説が登場します。「当時日本海軍が極秘に準備していた連繋水雷が残念ながら使えない天気だ」という意味があるというのです。鈴木貫太郎が指揮する第4駆逐隊がロシア艦隊の進路上に連繋水雷をまくはずだったのが、波が高すぎるので残念ながら使えない」という意味もあるとのことです。

日本海海戦での連合艦隊の180度一斉回頭、正式には八点回頭というそうですが、一般には東郷司令長官が「右手をあげて左方に一振り」ですが、連合艦隊参謀長であった加藤友三郎氏の回想録では「私が言ったんです」とあるそうです。
加藤友三郎氏は、ワシントン軍縮会議では日本首席全権委員を務め、後に総理大臣を務めているときに病で亡くなります。加藤氏については、この本でもっと取り上げて欲しかった人です。

いやあ、楽しい対談ですね。私も、この対談の末席に連なって、わずかながら持っている蘊蓄を披露したいという衝動に駆られました。このブログでなら好き勝手にできますので、ちょっと試みてみましょう。次回以降に。
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