弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

小沢治三郎提督

2007-04-08 17:42:11 | 歴史・社会
旧日本海軍の提督の中で、高い評価を受けている人に小沢治三郎提督がいます。
有名なのは、レイテ沖海戦で小沢艦隊として空母部隊を指揮し、囮の役割を演じたことでしょうか。

日本海軍、錨揚ゲ!」でも話題に上ります
太平洋戦争劈頭、日本軍がマレー上陸作戦を敢行する際、小沢提督は南遣艦隊司令長官として上陸部隊の護衛に当たります。シンガポールを根拠地にしたイギリス東洋艦隊が上陸作戦をどれほど妨害するかわからないという状況でコタバルに上陸しようとして、陸軍は大いに迷いますが、小沢さんが、「全艦艇が沈んでもいいから、私は責任を持って護衛する」と言い切り、陸軍は予定どおりに上陸作戦に踏み切ります。このときの陸軍の参謀には、小沢治三郎がとにかく神様に見えたとのことです。

小沢提督は、日本海軍の空母部隊の育ての親といわれていながら、太平洋戦争開戦時の航空艦隊司令長官は南雲忠一でした。小沢氏が南雲氏に代わって航空艦隊を指揮するのは敗戦濃色となってからです。
マリアナ沖海戦では、攻撃に向かった日本の艦載機はことごとく米軍の餌食となり、米軍から「マリアナの七面鳥狩り」といわれました。レイテ沖海戦では、上述のごとく残余の空母を率いて囮部隊となり、見事にハルゼー空母部隊をおびき寄せました。しかしこのとき、主力の栗田艦隊は、レイテ湾突入の直前に謎の反転を行い、戦機を失いました。

そして、1945年5月に、最後の連合艦隊司令長官に就任し、終戦を迎えます。

戦後、半藤一利氏が小沢氏にインタビューしても、海軍のことは一切話しませんでした。

太平洋戦争中の小沢提督については、もう一つ逸話があります。阿川・半藤対談に私も加わり、ぜひ披露したかったです。

小沢治三郎が海軍の名提督であれば、第二次大戦中の陸軍の名将官として今村均氏が挙げられます。
私は今村均著「今村均回顧録」(芙蓉書房)という本を持っており、その中に以下の話が出てきます。
昭和17年2月、今村中将はジャワ上陸作戦の司令官として、サイゴンで上陸作戦の準備をしています。すると海軍の輸送船団護衛艦隊司令官の原少将が、連合艦隊から割り当てられた護衛艦艇が不足すると訴えてきたのです。原少将は、どうか陸軍の上部から海軍上部に、艦隊増派を働きかけてくれと頼みます。
そこで、今村中将が総軍司令部に交渉しようとし、その前に、管轄違いですが小沢治三郎方面艦隊司令長官に意見を聞きに行きます。
すると小沢司令長官は、ジャワ上陸の護衛艦隊が自分の管轄ではないにもかかわらず、自分の艦隊から、ジャワ護衛艦隊に増援を出すのです。
 ---
小沢長官「今から総軍と交渉しそれから連合艦隊に電報するようでは、船団発進の時機までに時間的余裕はありますまい。ついては、当方面海上一般の情勢上、可能と考えますので、部下艦隊中から、原少将の麾下の戦力とほぼ同数の艦艇を引抜き、増援しましょう」
 この提督は、万一にも連合艦隊の不承認があったらいけないと思ってか、全くの独断により、こんな大きな兵力転用を断行しようとしている。
 ・・・
 小沢長官は、それでもなお私の軍の上を案じ、原少将の指揮に入れない大巡二隻を船団の後方に進航させ、それとなく警護することさえしてくれた。
(今村部隊のジャワ上陸時)バダビヤに近いバンタン湾付近の海戦で、わが駆逐艦が、敵巡洋艦二隻と交戦している最中、突如わが大巡二隻が駆けつけ、米巡洋艦ユーストン号(約1万トン)と同型の豪巡洋艦バース号(約7千トン)とに巨弾を浴びせ、夜中見事に撃沈し、このため軍の船団は四隻の沈没百名の戦死だけに限られ、上陸作戦は支障なく成功し得た。
 が、もし右の小沢海軍中将の独断協力がなかったとしたら、どんな大きな犠牲が生じたか、又上陸そのものが、可能だったかどうかも、わからなかっただろう。
 第十六軍主力方面の上陸作戦の成功は、全く小沢海軍長官の賜物だったので、私は今に、そのときの感激を忘れないでいる。
 ---

ただでさえ陸軍と海軍は犬猿の仲といわれている中で、小沢長官は、自分の管轄範囲外について、陸軍の一中将の申出に基づき、自分の部下艦隊を増援に出しているのです。
海軍の小沢治三郎と陸軍の今村均のこの邂逅、阿川弘之/半藤一利「日本海軍、錨揚ゲ!」で取り上げて欲しかった話題です。
コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする