弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

加藤友三郎

2007-04-14 22:08:34 | 歴史・社会
半藤一利著「日本海軍の興亡」(PHP文庫)から、加藤友三郎について拾ってみます。
日本海軍の興亡―戦いに生きた男たちのドラマ (PHP文庫)
半藤 一利
PHP研究所

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日本海軍、錨揚ゲ!」であまり取り上げられていなかったからということで、ここに記すことにしたのですが、結局は半藤氏の著作を参照することになりました。

大正3年から10年にかけて、日本海軍は八八艦隊という大艦隊の建造に邁進します。英国製の戦艦金剛から始まり、姉妹艦の榛名、霧島、比叡の3艦は国産化します。さらに大型化した戦艦長門と陸奥が建造されます。
この八八艦隊の実現に注力したのが海相の加藤友三郎でした。
しかし大正9年の世界大恐慌以降、八八艦隊の費用は国家予算の30%を超えるまでになりました。加藤海相はこの事実に気付きます。

大正10年、アメリカはワシントン軍縮会議の開催を呼びかけます。加藤友三郎はこの軍縮会議に代表として参画し、米、英、日の主力艦、航空母艦保有トン数比率を5・5・3とする提案を受諾するのです。それまで、日本海軍は「対米7割」と言っていたものを、6割で我慢することを意味します。また八八艦隊計画を葬り去ることを意味していました。

このとき、ワシントンの宿舎で加藤海相が海軍省に宛てた伝言が有名です。筆記したのは堀悌吉中佐でした。
「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。……平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。
……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。
国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」

この思想がその後の日本海軍に受け継がれれば、太平洋戦争の勃発には到らなかったろうと推定できます。

加藤友三郎は、大正11年(1922年)に総理大臣になりますが、大正12年、首相在任中に大腸癌でこの世を去ります。

その後の日本海軍はどうなったか。

加藤首相兼海相の時代から、海軍軍令部を中心とした巻き返しが始まります。加藤寛治、末次信正などが中心となり、反軍縮の動きを進めます。加藤友三郎の流れをくむ国際協調派を条約派とよび、加藤・末次らの派閥を艦隊派と呼ぶようです。

この衝突は、昭和5年(1930年)に開かれたロンドン軍縮会議で火を噴きます。海軍省(財部海相、山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長)は軍縮条約妥結の方向でまとめますが、加藤寛治軍令部長は末次信正次長に焚きつけられて反対に回ります。
そしてここで、野党の政友会も絡んで突如「統帥権干犯問題」が発生するのです。「統帥大権は天皇と軍令部の専権であり、国防兵力量の決定は統帥事項である。内閣が軍令部の同意を得ずに軍縮を決定するのは統帥権干犯である」という論理です。犬養毅と鳩山一郎が国会で火をつけました。
この問題によって海軍は真っ二つに割れ、ロンドン軍縮条約は締結されるものの、そのあとに条約派の軍人が軒並み粛正されます。山梨勝之進、谷口尚真、左近司政三、寺島健、堀悌吉らです。

これにより、加藤友三郎が日本海軍にまいた種は、見事に捨て去られ、その後の日独伊三国軍事同盟、日米開戦へと転がり落ちていくことになります。

戦前における統帥権干犯事件での態度があるので、私は鳩山一郎について低い評価をしています。
コメント (16)
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