弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

世田谷代官屋敷

2006-04-11 00:01:57 | 杉並世田谷散歩
休日には、パワーウォーキングを兼ねて自宅近郊を散歩することにしています。だいたい(東京都内)杉並区と世田谷区をテリトリーとし、ウォーキング時間は約1時間です。
歩くコースは「明治時代から存在していた道路」です。
杉並区と世田谷区は、武蔵野台地の一部であり、昔は雑木林と畑が広がり、所々に人家が散在していたような地形と思います。杉並区には神田川と善福寺川が流れ、世田谷区には北沢川と烏山川(現在は両川とも緑道)が流れていました。これらの川の両側は低地あるいは谷筋になっており、それ以外の地域は台地を形成しています。
そして、この雑木林や畑の中にあぜ道のような道路が形成されていたと思われます。杉並区も世田谷区も、区画整理がほとんどされていません。そのため、現代に至っても、その当時の道路がほぼそのままの位置で道路になっているのです。

明治時代の道路については、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」を使っています。環七よりも東側であれば、JapanKnowledgeの江戸明治東京重ね地図で確認することもできます。
世田谷区の区分地図を買うと白地図がついてくるので、この白地図に、明治時代から存在していた道路を赤鉛筆でなぞっておきます。そして、この赤鉛筆でマーキングした道路を順次ウォーキングで制覇していくのです。

世田谷区については、自宅(杉並区と世田谷区の境界付近)から歩いて1時間で廻ってこられる範囲はほぼ制覇を完了したので、最近は下高井戸から世田谷線に乗り、世田谷区の南に足を伸ばしています。

先日(4/8)は、世田谷線を上町駅で下車し、その南を東西に延びる道路(明治20年にも存在していた)を歩き始めました。すると突然、茅葺き屋根の家が現れました。世田谷にですよ。その家は、世田谷代官屋敷だったのです。江戸時代、世田谷には彦根井伊藩の所領があり、井伊家の代官がここに住んでいたのです。江戸中期に建造されたという茅葺き屋根の家がそのまま残されていました。よくぞ戦災や火災に遭わなかったものです。代官屋敷についてはこちらを見てください。

さらに東に向かって歩き、環七に近いとある路地に入ったら、そこに常磐塚という石碑が見つかりました。1535年というと室町から戦国時代ですね。世田谷城の七代城主吉良頼康が寵愛していた側室の常磐が、他の側室のねたみから讒言を受け、城主の命で殺害されたそうです(一説では自殺)。その後冤罪であることが分かり、常磐の墓があった場所に常磐塚が作られ、また常磐とその胎児は近くの駒留神社に祀られたそうです。讒言した12人の側室は処刑されます。むしろ、側室を13人も持つな、と言いたいですね。それらの話についてはこちらに詳しいです。

その世田谷城ですが、世田谷線上町駅の北方に世田谷城跡があります。これも、「この世田谷区になんでこんな史跡がそのまま残っているのか」と思うような不思議な史跡です。世田谷城は、南北朝時代(1331~91)中期に鎌倉府の支えとして足利一門の名族吉良治家による築城とされ、鎌倉府における吉良氏の地位は公方、関東管領に次ぐ第三位という高位を与えられていたそうです。その後、小田原の北条氏が関東に勢力を持っていた時代、吉良氏は北条氏と血縁を結びます。
現在の豪徳寺のあたりが城の中心だったようです。現在の世田谷城址は、豪徳寺の南に位置します。烏山川の谷筋が湾曲してその北に台地を形成し、砦として好適な地だったのでしょう。世田谷城についてはこちらを見てください。
八代氏朝の時代、豊臣氏が小田原の北条氏を倒したときに、この世田谷城も廃城になったようです。常磐の祟りでしょうか。
それから400年も経過するのに、よくぞ城の堀跡がそのまま残っていたものです。なお、世田谷城跡に成立した豪徳寺は、上記代官屋敷に出てくる井伊家の江戸菩提寺となりました。
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