弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

1971年ニクソンショックの舞台裏

2006-10-16 00:14:47 | 歴史・社会
現在、日経新聞の私の履歴書では、元大蔵省の行天豊雄氏の連載です。10月13日、14日の記事は、1971年のニクソンショック(ドルショック)が話題でした。

最近何かの記事で、あるできごとの後に行政が市場を閉鎖せず、それがために日本の国富が大幅に損なわれた、というのを読みました。高級官僚の大失態とのニュアンスです。多分、ニクソンショックの直後に東京外国為替市場を閉鎖しなかったことを指していたと思います。

1971年当時、行天氏は銀行局の課長補佐を務め、財務官室長を命じられました。
財務官は、柏木雄介氏が顧問に退き、細見宅氏が就いていました。

71年の8月15日、日本時間で16日朝、米国大使館のダイク財務担当官から「日本時間午前10時にニクソン大統領が重要なスピーチをする予定だ」と連絡が入ります。「金とドルの交換停止」という発表でした。

以下、行天氏の記事です。
「16日夜開いた省内の緊急幹部会議は、『東京外国為替市場は閉鎖せず』と決めた。柏木さんの鶴の一声だった。鳩山威一郎次官は『閉鎖して様子を見たらどうか』と首をかしげつつも、議論して勝てる自信はない。『そこまでいうなら』と折れたのだろう。同期だった鳩山さんと柏木さんの関係は微妙だった。
 柏木さんには『東京市場を閉めないことで、米国を助けている』という意識があったようだ。米国はドルを金から切り離すものの、ドルの価値を速やかに安定させ、固定し直すことを望んでいるのだろう。日本が1ドル=360円の平価でドルを買い支えれば、米国はありがたいと思っているはずだ---。
 米国は大幅なドル体制の変更を考えていない、との判断が柏木さんにはあったのではないか。結果としてみれば、ドル切り下げを狙ったニクソン政権の意図を読み違えていたことになる。
 事務方には日本の為替管理は鉄壁だという自信もあった。だが大蔵省の役人も所詮素人だ。考えの及ばなかった抜け道がたくさんあって、そこを通じて大量のドルが日本に流れ込み、ドル売りの嵐になった。
 1971年のニクソンショックの後、欧州は軒並み外国為替市場を閉鎖した。ひとり開け続けた東京市場ではドル売りが殺到した。
 日曜の8月22日、水田三喜男蔵相をはじめ大蔵省幹部が三田公邸に極秘に集まった。・・市場を開け続けるべきか。方針は定まらなかった。・・・8月28日、政府はついに1ドル=360円の固定相場でのドル買いをやめた。2週間近くでドル買い介入額は約40億ドルに達していた。」

12月のスミソニアン合意で、1ドル=308円へと切り下げられます。
さらに変動相場制に移行したのは、1973年2月14日のことです。

日本政府高官が米国政府の意向を読み違えたこと、同期であった次官と顧問との微妙な関係、など、生々しい舞台裏が伝わってきます。顧問であった柏木さんにどんな権限があったか分かりませんが(多分権限はなかったのでしょう)、「外国為替は自分が一番の専門家だ」という自負があったのでしょうね。実は実態を読み違えていたのですが。

ユリウス・カエサルの言葉
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」(塩野七生著「ローマ人の物語」文庫本8巻前書き)
を思い出します。

あの当時も現在も、高級官僚の「自分は誰よりも一番よく知っている」という自信過剰を脱ぎ去ることにより、状況はずいぶん改善されると思います。
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