1200人以上が死亡か…台風直撃のフィリピン
読売新聞 11月9日(土)21時49分配信
『猛烈な台風30号が8日、フィリピン中部を直撃した。
ロイター通信は9日、比赤十字関係者の話として、中部レイテ島タクロバンなどで1200人以上が死亡したとみられると伝えた。
比赤十字は、被災地に入った職員の情報から、タクロバンで1000人以上、隣接するサマル島で約200人が死亡したと推計している。』
被害に遭われたフィリピン・レイテ島、サマール島の皆様にお見舞い申し上げます。
レイテ島タクロバンと聞くと、私の頭のなかにはレイテ島の地図がすぐに浮かんできます。
先の太平洋戦争中、レイテ島は日米の激戦の場となりました。
レイテ島を巡る戦いは、大きく二つに分けられます。レイテ島における陸上戦と、レイテ湾突入を目指した日本連合艦隊と米艦隊とが激突したレイテ沖海戦です。
《レイテ島の戦い》
Invasion of Leyte, 20 October 1944
レイテ島の陸上戦については、大岡昇平著「レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)
、(中巻)、(下巻)に詳しいです。私はこの本を読んだ結果として、レイテ島の地理が頭の中に入ってしまいました。
1944年10月20日、米軍はレイテ島とサマール島に囲まれたレイテ湾に米軍と輸送部隊を集結し、タクロバン付近から上陸を開始しました。今回の台風がまさに上陸したのと同じ場所です。私が台風のニュースで反応したのがタクロバンという地名でした。
島内には日本守備隊が展開していたのですが、タクロバンから島北部のカリガラまではあっという間に米軍に制圧されました。ところがそのあとは、日米間の激烈な戦闘が展開されることになります。
レイテ島の中央部には南北に延びる山地があり、その山地の東側は米軍が制圧、西側は日本軍が支配する形でした。山地の北端付近にリモン峠という峠があり、そこが激戦の場所となりました。先に峠に布陣したのが日本軍であったため、米軍はこの峠を攻め落とすのに苦渋し、米兵からは「首折れ峠」と呼ばれたそうです。
当時、制空権についてはレイテ島の全域で米軍が制圧していましたが、制海権については、レイテ島の西側はまだ日本海軍のものでした(米潜水艦は跋扈していましたが)。日本軍は、島西岸のオルモックを拠点とし、ここに増派部隊を輸送しようと試みます。ところが、制空権は米軍に握られているので、大部分の部隊はオルモック到着前に米機や潜水艦に撃沈されることとなりました。
結局、米軍は山地の南側から島の西岸に達し、オルモックの日本軍も米軍の急襲を受けて別の西岸付近の山地に撤退することとなり、最後はこの山地内で撃滅されました。
この間の日本軍の壮絶な戦いぶりについては、大岡昇平氏の著書に詳細に記されています。本を読みながら、著者の大岡氏は、この島で戦死した多くの日本兵の声に突き動かされて、この本を執筆したに違いないと感じました。
《レイテ沖海戦》

レイテ湾に集結した米艦隊と輸送船部隊を急襲すべく、日本連合艦隊はレイテ湾突入作戦(捷一号作戦)を計画しました。そのときの戦いがレイテ沖海戦です。
レイテ沖海戦についていろいろな本を読みましたが、最も印象に残る著書は、半藤一利氏の「レイテ沖海戦 (PHP文庫)
」でした。
また最近では、百田尚樹著「永遠の0 (講談社文庫)
」でも記憶を新たにしました。また、実際にレイテ沖海戦で戦った零戦パイロットの体験記として、岩井 勉氏の「空母零戦隊 (文春文庫)
」を最近読み直しました。
結局、西村艦隊がスリガオ海峡を抜けて島の南側に進出しようとして米キンケイド艦隊に撃滅され、小沢囮艦隊は計画通り囮となってハルゼイ空母部隊を引きつけましたが、主力の栗田艦隊はレイテ湾を直前にして謎の反転を行ってレイテ湾突入の主目的は達しませんでした。
フィリピンを襲った台風のニュースに接し、遠くレイテを巡る戦いを想起する日となったのでした。
読売新聞 11月9日(土)21時49分配信
『猛烈な台風30号が8日、フィリピン中部を直撃した。
ロイター通信は9日、比赤十字関係者の話として、中部レイテ島タクロバンなどで1200人以上が死亡したとみられると伝えた。
比赤十字は、被災地に入った職員の情報から、タクロバンで1000人以上、隣接するサマル島で約200人が死亡したと推計している。』
被害に遭われたフィリピン・レイテ島、サマール島の皆様にお見舞い申し上げます。
レイテ島タクロバンと聞くと、私の頭のなかにはレイテ島の地図がすぐに浮かんできます。
先の太平洋戦争中、レイテ島は日米の激戦の場となりました。
レイテ島を巡る戦いは、大きく二つに分けられます。レイテ島における陸上戦と、レイテ湾突入を目指した日本連合艦隊と米艦隊とが激突したレイテ沖海戦です。
《レイテ島の戦い》

レイテ島の陸上戦については、大岡昇平著「レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)
1944年10月20日、米軍はレイテ島とサマール島に囲まれたレイテ湾に米軍と輸送部隊を集結し、タクロバン付近から上陸を開始しました。今回の台風がまさに上陸したのと同じ場所です。私が台風のニュースで反応したのがタクロバンという地名でした。
島内には日本守備隊が展開していたのですが、タクロバンから島北部のカリガラまではあっという間に米軍に制圧されました。ところがそのあとは、日米間の激烈な戦闘が展開されることになります。
レイテ島の中央部には南北に延びる山地があり、その山地の東側は米軍が制圧、西側は日本軍が支配する形でした。山地の北端付近にリモン峠という峠があり、そこが激戦の場所となりました。先に峠に布陣したのが日本軍であったため、米軍はこの峠を攻め落とすのに苦渋し、米兵からは「首折れ峠」と呼ばれたそうです。
当時、制空権についてはレイテ島の全域で米軍が制圧していましたが、制海権については、レイテ島の西側はまだ日本海軍のものでした(米潜水艦は跋扈していましたが)。日本軍は、島西岸のオルモックを拠点とし、ここに増派部隊を輸送しようと試みます。ところが、制空権は米軍に握られているので、大部分の部隊はオルモック到着前に米機や潜水艦に撃沈されることとなりました。
結局、米軍は山地の南側から島の西岸に達し、オルモックの日本軍も米軍の急襲を受けて別の西岸付近の山地に撤退することとなり、最後はこの山地内で撃滅されました。
この間の日本軍の壮絶な戦いぶりについては、大岡昇平氏の著書に詳細に記されています。本を読みながら、著者の大岡氏は、この島で戦死した多くの日本兵の声に突き動かされて、この本を執筆したに違いないと感じました。
《レイテ沖海戦》

レイテ湾に集結した米艦隊と輸送船部隊を急襲すべく、日本連合艦隊はレイテ湾突入作戦(捷一号作戦)を計画しました。そのときの戦いがレイテ沖海戦です。
レイテ沖海戦についていろいろな本を読みましたが、最も印象に残る著書は、半藤一利氏の「レイテ沖海戦 (PHP文庫)
また最近では、百田尚樹著「永遠の0 (講談社文庫)
結局、西村艦隊がスリガオ海峡を抜けて島の南側に進出しようとして米キンケイド艦隊に撃滅され、小沢囮艦隊は計画通り囮となってハルゼイ空母部隊を引きつけましたが、主力の栗田艦隊はレイテ湾を直前にして謎の反転を行ってレイテ湾突入の主目的は達しませんでした。
フィリピンを襲った台風のニュースに接し、遠くレイテを巡る戦いを想起する日となったのでした。
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