大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年03月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1548> 妥協と適応

         不束にあり不束に生きてゐる 果して難儀なこの世にありて

 棚田の畦の草花たちの姿に共生ということが思われたが、この草花たちの共生における融和の反面に競合のせめぎ合いがあるのは当然で、例えば、一つの草花が強い繁殖力によって他の草花を圧して退けるということがあり得ることも考えられる。しかし、棚田の畦の環境はそれをよしとして許すに至ることはほとんどなく、多くを受け入れ、いろんな草花たちが彩をもって存在している。こうして、棚田の畦に生える草花たち自身もその環境の一端に組み入れられ、穏やかな棚田の風景を形成しているのである。

 話が突然変わるが、ここでジンメルの『愛の断想、日々の断想』(清水幾太郎訳)における「この世に処する最高の術は妥協することなしに適応することである」という言葉にある妥協と適応について触れ、棚田の畦の環境に合わせ、考えてみたいと思う。所謂、妥協というのは自分の意に反して他を受け入れるやり方で、最も顕著な表現で言えば、面従腹背という言葉が思い起こされる。妥協の度合いは千差万別で自己本意に出来ている私たちの誰もが多少は持ち合わせているもので、その場その場を妥協によって処する処世術をもって日ごろにあることは否めない。

          

 適応は対するものごとに自分が応じて適え得ることで、自分の思いを曲げてまでも応じて適えるということもあり得る。で、妥協の産物たることもある。だが、ジンメルはこの妥協なく、適応することが出来れば言うことはないと言っている。このようであれば、私たちの思いにもやもやはなくなる。つまり、ジンメルの言葉はそのように妥協なく適応出来ることが人生を処して行くにベストな方法だと言っているわけである。

 つまり、このように生きて行くものが接する場において適応するになるべく妥協なくやって行ければよいわけであるが、これはなかなか難しい。その難しいところを棚田の畦の草花たちはクリアして多くの中でそれぞれが居場所を得て営みを展開しているのである。多分、妥協すべきところは妥協しながらということであろう。そこでその草花たちの営みを受け入れている環境の大切さが思われて来る次第である。

  例えば、職場というところを想像してみればわかる。人間関係に依怙贔屓はつきものであるが、仕事の場においては仕事の出来不出来による評価が重要で、私的な依怙贔屓が充満しているような職場の環境下では、優秀な人材は去って行き、ゆえに人材は育たず、仕事に支障を来たすという破目に陥ることに繋がる。

  もっと大きく、深刻な例で言えば、現在、ヨーロッパで起きているテロの問題があげられる。テロの要因にこの環境の影響が根本のところにはある。自分や自分の仲間以外は排除するような差別化がなされている環境下においては、不満や反発が起きやすく、それが高じれば、最悪のテロというのも起きることになる。これは互いを認めないそういう環境がヨーロッパの素地にある社会状況から来ていると考えられるということである。

  この社会状況は棚田の畦の草花たちの共生の姿とは全く逆な環境下に生じていることに気づかねばならないが、当事者にあってはなかなか理解されない。この根本にある環境をただして行かない限り、臨床的な対応だけでテロを根絶することは出来ない。私に言わせれば、テロの解決には棚田の畦の環境並びにその環境下に寄り集まって共生している草花たちの営みの姿に教わることが大切だと言える。

 思うに、棚田の畦に草花たちが競合しながらも共生し、融合し合って成り立っているのは、棚田の畦の依怙贔屓のない自然の理の元にある環境がそうさせているにほかならないと言えるわけで、公平なる環境を作り得るかどうかに私たちの社会生活はかかっていると言えるのである。これは妥協と適応によってなる人間社会を考える上に重要なことであるといってよく、これには棚田の畦の環境が棚田の持ち主、即ち、農家の管理にかかっているのと同じで、政治の力が必要欠くべからざるところである。

 つまり、ここでは環境づくりの大切なことが指摘出来る。ジンメルの理想にはほど遠くとも、納得される環境の下で、この環境に適合出来ることが私たちの幸せの一歩であると私には思われるのである。 写真は棚田の姿(左)と棚田の畦に居場所を得て花を咲かせるタンポポ。