<601> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (14)
[碑文] おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり 會津八一
「おほきほとけ」とは、東大寺大仏殿(金堂)の本尊毘盧舎那仏(盧舎那仏)のことで、天平勝宝四年(七五二年)聖武天皇の勅願によってつくられた「奈良の大仏さん」でお馴染みの坐像である。治承四年(一一八〇年)の平重衡による南都焼討ちと永禄十年(一五六七年)の松永久秀による兵火の二度に及ぶ焼失の難に遭ったが、その都度復興を遂げ、現在の大仏さんは元禄四年(一六九一年)に復元され、大仏殿も宝永五年(一七〇八年)に再建されたものである。
元のものより像も建物も一回り小さく四分の三ほどであると言われるが、基盤周囲七〇メートル、座高一四.七メートルの銅像は世界に誇る見上げるほどの「おほきほとけ」でどっしりとして訪れる者を迎えてくれる感動の存在で、ともに国宝である。
會津八一は明治、大正、昭和の人で、書家、美術史家、大学教授と幅広く活躍し、奈良大和をこよなく愛した歌人として名高く、奈良大和における多くの歌を遺したことで知られる。この碑文の歌もその一つで、歌集『南京新唱』に所収されている。三十一文字すべてが平仮名書きであるのが八一の歌の特徴で、碑文には書家としての面目躍如たるところがうかがえる。
この歌について、碑文の説明書きは「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます」とその歌の意を解説しているが、これは、総国分寺である東大寺の主要経典である華厳経に言われる毘盧舎那仏(盧舎那仏)が「宇宙の中心にあって智慧と慈悲の光明を遍く照らす」という意を言うもので、真言密教における大日如来の「遍照」に等しく、結句の「あまたらしたり」によって、毘盧舎那仏(盧舎那仏)の仏心がよく言い表されていることがわかる。
また、この歌は、『万葉集』巻二の147番の「天の原振り放(さ)け見れば大君の御壽(みいのち)は長く天足らしたり」という倭姫王の歌を意識して詠んだ歌であると言われ、「天足らしたり」が八一の歌の「あまたらしたり」と同様の意であって、歌の働きになっていることが指摘されている。
つまり、この歌は天智天皇の崩御に際し、天皇が重篤であったとき、皇后の倭姫王が詠んだ一首で、「大君(天智天皇)の御命は永久に天いっぱいに満ち満ちている」と、崩御しても大君は神であって、天に満ちてすべてのものを統べて行かれるという意が込められ、神である大君の御命と毘盧舎那仏(盧舎那仏)の遍く照らす光明の一致がこの結句の「あまたらしたり」によって見られるというわけである。そして、加えるところ、これは『古事記』の神話、天照大御神に通じるもので、遍く照らす太陽神にその起源を見るものであって、神仏融合の日本的信仰が見えるというのである。
これは仏教の基本的理念を述べている『般若心経』にも通じ、言えることで、このことについてはこのブログの「<262>金環日食」並びに「Amebaブログ「大和花手帖」花と言葉27」に触れているので参照願いたい。毘盧舎那仏(盧舎那仏)の大仏さんが大きな仏像である所以はこのためで、信仰における必然性がそこには見て取れる。
この碑文の歌は、明治四十一年(一九〇八年)、八一が初めて奈良を訪れ、大修理が行なわれていた最中だったので、高い足場の上から拝観したと言われ、目線が大仏さんの「あまたらしたり」という位置からのもので、「もろてのゆびをひらかせて」という描写もそこにおいて得たものであったろうと思われる。これは、宇宙飛行士が宇宙から地球を見て神を感じ、地球上で戦火を交えている人間のやっていることなどまことに馬鹿げているように見える立ち位置の目線であって、何か憐みをもって人間世界を見ているような大仏さんが思われて来たのではなかったか。八一にはこれも仏縁であったに違いない。
歌碑は南大門を潜って大仏殿に向かう広い石畳の道の西側、木立の中に建てられているが、この碑を眺めながら、普段煩瑣な濁世に追われ、忘れがちである仏の心を、ときには仏像に接して、自分の心に入れて行くことも大切ではないかとふと思えたことではあった。 写真は左から歌碑、大仏さん、大仏殿。 春はまた 仏ごころに 添へる花