大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月25日 | 写詩・写歌・写俳

<601> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (14)

      [碑文]  おほらかにもろてのゆびをひらかせておほきほとけはあまたらしたり            會津八一

 「おほきほとけ」とは、東大寺大仏殿(金堂)の本尊毘盧舎那仏(盧舎那仏)のことで、天平勝宝四年(七五二年)聖武天皇の勅願によってつくられた「奈良の大仏さん」でお馴染みの坐像である。治承四年(一一八〇年)の平重衡による南都焼討ちと永禄十年(一五六七年)の松永久秀による兵火の二度に及ぶ焼失の難に遭ったが、その都度復興を遂げ、現在の大仏さんは元禄四年(一六九一年)に復元され、大仏殿も宝永五年(一七〇八年)に再建されたものである。

  元のものより像も建物も一回り小さく四分の三ほどであると言われるが、基盤周囲七〇メートル、座高一四.七メートルの銅像は世界に誇る見上げるほどの「おほきほとけ」でどっしりとして訪れる者を迎えてくれる感動の存在で、ともに国宝である。

 會津八一は明治、大正、昭和の人で、書家、美術史家、大学教授と幅広く活躍し、奈良大和をこよなく愛した歌人として名高く、奈良大和における多くの歌を遺したことで知られる。この碑文の歌もその一つで、歌集『南京新唱』に所収されている。三十一文字すべてが平仮名書きであるのが八一の歌の特徴で、碑文には書家としての面目躍如たるところがうかがえる。

              

 この歌について、碑文の説明書きは「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます」とその歌の意を解説しているが、これは、総国分寺である東大寺の主要経典である華厳経に言われる毘盧舎那仏(盧舎那仏)が「宇宙の中心にあって智慧と慈悲の光明を遍く照らす」という意を言うもので、真言密教における大日如来の「遍照」に等しく、結句の「あまたらしたり」によって、毘盧舎那仏(盧舎那仏)の仏心がよく言い表されていることがわかる。

 また、この歌は、『万葉集』巻二の147番の「天の原振り放(さ)け見れば大君の御壽(みいのち)は長く天足らしたり」という倭姫王の歌を意識して詠んだ歌であると言われ、「天足らしたり」が八一の歌の「あまたらしたり」と同様の意であって、歌の働きになっていることが指摘されている。

  つまり、この歌は天智天皇の崩御に際し、天皇が重篤であったとき、皇后の倭姫王が詠んだ一首で、「大君(天智天皇)の御命は永久に天いっぱいに満ち満ちている」と、崩御しても大君は神であって、天に満ちてすべてのものを統べて行かれるという意が込められ、神である大君の御命と毘盧舎那仏(盧舎那仏)の遍く照らす光明の一致がこの結句の「あまたらしたり」によって見られるというわけである。そして、加えるところ、これは『古事記』の神話、天照大御神に通じるもので、遍く照らす太陽神にその起源を見るものであって、神仏融合の日本的信仰が見えるというのである。

  これは仏教の基本的理念を述べている『般若心経』にも通じ、言えることで、このことについてはこのブログの「<262>金環日食」並びに「Amebaブログ「大和花手帖」花と言葉27」に触れているので参照願いたい。毘盧舎那仏(盧舎那仏)の大仏さんが大きな仏像である所以はこのためで、信仰における必然性がそこには見て取れる。

 この碑文の歌は、明治四十一年(一九〇八年)、八一が初めて奈良を訪れ、大修理が行なわれていた最中だったので、高い足場の上から拝観したと言われ、目線が大仏さんの「あまたらしたり」という位置からのもので、「もろてのゆびをひらかせて」という描写もそこにおいて得たものであったろうと思われる。これは、宇宙飛行士が宇宙から地球を見て神を感じ、地球上で戦火を交えている人間のやっていることなどまことに馬鹿げているように見える立ち位置の目線であって、何か憐みをもって人間世界を見ているような大仏さんが思われて来たのではなかったか。八一にはこれも仏縁であったに違いない。

 歌碑は南大門を潜って大仏殿に向かう広い石畳の道の西側、木立の中に建てられているが、この碑を眺めながら、普段煩瑣な濁世に追われ、忘れがちである仏の心を、ときには仏像に接して、自分の心に入れて行くことも大切ではないかとふと思えたことではあった。 写真は左から歌碑、大仏さん、大仏殿。     春はまた 仏ごころに 添へる花

 


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2013年04月24日 | 万葉の花

<600> 万葉の花 (85) いちひ (伊智比) =イチイガシ (一位樫)

      くぬぎには あらず いちひの 初夏の花

愛子(いとこ) 吾背(なせ)の君 居り居りて 物にい行くとは  韓国の 虎とふ神を 生取りに 八頭取り持ち来 その皮を 畳に刺し 八重畳 平群の山に 四月と 五月との間に 薬猟(くすりがり) 仕ふる時に あしひきの この片山に 二つ立つ いちひが本に 梓弓 八つ手挟(たばさ)み ひめ鏑(かぶら) 八つ手挟み 鹿待つと 吾が居る時に さを鹿の 来立ち歎かく  頓(たちまち)に 吾は死ぬべし 大君に 吾は仕へむ わが角は 御笠のはやし わが耳は 御墨の坩 わが目らは 真澄の鏡 吾が爪は 御弓の弓弭(ゆはず) 吾が毛らは 御筆はやし 吾が皮は 御箱の皮に 吾が肉は 御鱠(みなます)はやし 吾が肝も 御鱠はやし 吾が胘は 御鹽(みしほ)のはやし 耆(お)いたる奴 わが身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申し賞(はや)さね 申し賞さね                                                                       巻十六 (3885) 乞食者                                                                                                  

 集中にいちひが登場するのはこの長歌一首のみである。「乞食者の詠二首」の詞書がある中の一首で、左注には「鹿の為に痛みを述べて作れる」とある。乞食者(ほかひびと)とは、各家の戸口に立って寿ぎの詞を唱え、食を乞う者のことで、この歌には死にゆくシカを登場させ、シカのいじらしさをもって聞く者の同情を買う仕掛けが見て取れる。と同時に、この話はこの家にとってもいいものであるというニュアンスをもって詠まれている歌で、シカの死が大君の役に立ち、世の中のためになるものであるということを強調し、乞食(ほかひ)の目的を果たそうという心持ちが現われているのが見て取れる。

 ここで平群の片山(生駒山系の一つの山)に立ついちひについてであるが、『和名類聚鈔』には「檪子 上音歴 伊知比 相似大於椎子者也」とあり、『新撰字鏡』にも檪の字をもって「一比乃木」としている。この檪はクヌギを指す字であるが、クヌギに橡を当てたことによって、檪をイチヒに当てたという。ここに檪に混同が生じるわけであるが、漢名を用いる場合、このような誤用はしばしば起きたことはほかにも例を見る。これはそのときどきのコミュニケーション不足による認識の及ばなかった結果であるが、ここにもそれがうかがえる。

 いちひはシイに似て、クヌギにはあらずとするところから、イチイガシが浮上して来た。ここにあげたイチイガシもクヌギもシイもこれらはみなブナ科の高木で、ほかにもよく似たものがあって、混同されやすいが、クヌギは落葉樹で、二次林的要素の樹木であって判別しやすい。イチイガシは常緑のカシ類で、常緑のシイ類とは種群を異にし、花どきには容易に判別出来る。ドングリの果実に渋みが少なく、ともに食用されていた時代があるので、その時代に近い万葉当時の人々には現代人よりこれらの樹木については詳しかったはずで、見分けはきっちりしていたと思われる。

                                                                

 このいちひは『古事記』の景行天皇の条に「竊(ひそ)かに赤檮もちて詐刀(こだち)に作り」とあり、『日本書紀』には、用明天皇二年に「舎人迹見赤檮、勝海連の彦人皇子の所より退くを伺ひて、刀を抜きて殺しつ」とあって、こちらの赤檮は人名であるが、ともに「いちひ」と読ませている。当時、赤檮と呼ばれていたのは現在のアカガシではなく、イチイガシの認識があったと言われる。また、天理市の北部に檪本(いちのもと)という地名が見えるが、檪(いちひ)のイチイガシが多く生えていたのではなかったかと想像される。

 現代の大和の植生分布において考察してみると、シイ類では内陸性のツブラジイ(コジイ)が多く見られ、照葉樹林が残っている奈良市の春日山や桜井市の与喜山などの群落が名高く、初夏の花どきにはよく目につく。また、クヌギは照葉樹林が伐採された低山帯の二次林にコナラ(ナラ)などとともに群生することが多く、よく見かける。そして、今回の主役であるイチイガシは、カシ類のなかでは、前述したごとく、実に渋みが少なく、食べられることがほかのカシ類にない特徴とて注目され、大和では葛城市の葛木坐火雷神社(笛吹神社)や磯城郡田原本町の村屋坐弥冨都比売神社の社叢の群生が知られるところで、春日大社の境内地にも巨樹が散生し、貴重な植生としてあげられているのがうかがえるところとなっている。

 二〇〇八年版の『大切にしたい奈良県の野生動植物』が「葛木坐火雷神社の社叢は春日大社の社叢と奈良盆地を挟んで西南の対の位置にあり、盆地を取り巻く扇状地の代表的な照葉樹林として両社の社叢はともに重要である」と述べているように、この観察からは万葉当時のイチイガシの様子が想像される。ただ、『万葉集』に一首というのはさびしいと言わざるを得ない。なお、イチイガシの材は堅く、建材、器具、船の櫓材などにされて来た。 写真は左からイチイガシ、クヌギ、ツブラジイの花。みな雌雄同株で、樹冠が一変するほど大量の花をつける。

 


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2013年04月23日 | 祭り

<599> 當麻山口神社の御田植祭

        岳よりの 風やわらかな 春季祭

 二十三日、葛城市染野の當麻山口神社で、春季例祭の祈念祭と慰霊祭に合わせ、御田植祭が行なわれた。葛城市の伝統行事であるゴミを拾いながらニ上山に登る「岳登り」の帰りに立ち寄った子供たちも見物する中、牛の面を被った所作役が登場し、暴れ出すと子供たちは大喜びだった。その後、松葉(若松)を苗に見立てた田植えの所作が行なわれ、最後に餅撒きがあった。

                                                        

 大和にはおんだ祭りの御田植祭が極めて多いが、平野部での祭りで言えば、當麻山口神社の祭りは遅く、殿に近い。ここ二年ほど、集中的にこの御田植祭に顔を出し、八割方は拝見しているが、これまで見て来た結果から言えば、おんだ祭りの御田植祭には幾つかの共通点がある。

 一つには祈願祭であること、また、一つには五穀豊穣による子孫繁栄を願うこと、そんな中で、今日も話に出たが、昔は在所に神職もお坊さんもいて祭りでも葬儀でも在所の自力でやっていた。だが、今は神職もどこからか呼び寄せているのだろう。それも、お呼びがかかったときに神職をして、普段は会社勤めか何かをやっているのではないかという。

 そういうケースもあり得るご時世であるのは、神職にお願いする祭りの主催者である地元農家を中心とする氏子の方にも言えることで、農業だけではやって行けず、普段は勤めに出ているといった具合である。そして、加えるところ、祭りをやっている人々に高齢者が多いという共通点がある。

 祭りのような行事は、しきたりというものが重要で、老若が混じって、年寄りから若者にそのしきたりを引き継いで行かなくてはならないが、後継者不足の昨今の事情は厳しく、果たして祭りが継続されて行けるかどうかということが懸念として表面化して来ているところがうかがえる。

 変化や変質というのはいつの時代にも大なり小なりあるものであるが、西欧化、もしくはグローバル化による昨今の影響は甚だしく、これは技術の面だけでなく、ものの考え方、つまりは、精神というものにも大きく影響するところとなっている。そして、私たちの世代は少なからずこの変化に不安を覚えていると言ってよい。在所に結集の力がなくなり、個々がばらばらになってしまうというような点にもこのことは言える。言わば、この状況が、このおんだ祭りの御田植祭などの古来よりの祭りに現われているということである。

 今後の展望に思いを馳せても、例えば、営農を株式会社化するというようなことが言われている。これなどは一つの変革案ではあるが、その結果、所有する土地を仲立ちにしてある在所の結びつきなどはどのようになって行くのかというようなところが、なかなか定かでなく、そこには一種の不安が生じるということになる。つまり、おんだ祭りの御田植祭一つを見ていても、今の日本が岐路に立たされていることが思われて来るのである。 写真は牛役による御田植祭の所作。

 


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2013年04月22日 | 写詩・写歌・写俳

<598> 新緑の候

        男児とは 即ち大志 鯉幟

 大和は雨のち晴の爽やかな天気になり、新緑が美しい季節を感じさせる一日になった。サクラの時期は「霞みか雲か」といったイメージであるが、サクラが花を終え、新葉が出るころになると瑞々しい緑に被われて、青嵐にコイノボリが勢いよく泳ぐ風景がそこここに見られるようになる。

 今日はこの天気に誘われ、西大和の県立馬見丘陵公園をのぞいて、少し歩いた。ハナミズキと八重ヤマブキが満開で、ウオークする人や親子連れが思い思いに歩いていた。冬鳥は北国に帰って行ったか、公園内の池にカモなどの姿は見えなかった。

                             

 昨年は「鯉幟 男児生れし 証なり」の句を得て、少子化の問題に触れたが、今年は馬見丘陵公園に立ち寄った関係で、思うところがあった。コイノボリは男児の節句に因むもの。雛飾りは女児の節句につきものである。県立大和民俗公園では毎年雛人形を飾って節句の催し物をしている。馬見丘陵公園を歩いていてふとそのことを思い出した。

 この公園は大和平野の真ん中にある丘陵の一部につくられ、周囲が見渡せる広々とした眺めの素晴らしいところであるが、風がよく通るので、ここにコイノボリを揚げて、泳がせれば素晴らしい季節のお膳立てが出来る。親子連れや子供たちも多く訪れるので、喜んでもらえるのではなかろうか。民俗公園の方が雛人形なら、こちらはコイノボリというのも一考である。

 大和の真ん中に鯉のぼりを揚げて泳がせるというのは県域を元気づけるという意味においてもよいのではないかと思われる。ここで民間も加わえ、コイノボリ大会のイベントを開催してもおもしろいという気がする。凧揚げ大会は各地で行なわれているが、コイノボリ大会というのは聞いたことがないので、子供の日に合わせるなどして開催するのもよかろうと思われる。

 これは、アイディア次第であるが、県内だけでなく、全国的なイベントになるような遊び心を加味すればおもしろいものが出来るのではなかろうか。大和郡山市の金魚すくい大会は全国区のイベントに盛り上がっているいいアイディアであるが、コイノボリ大会も一つの案ではある。どうだろうか。写真は左から青空に泳ぐコイノボリ、新緑が映える公園内の池、花盛りの八重ヤマブキ。

 


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2013年04月21日 | 写詩・写歌・写俳

<597> 続・辞林想語

        鬱の日も晴れやかなる日も分け入って辞林想語の夢見に遊ぶ

 誰だったか思い出せないが、百科事典に遊ぶのが楽しみだというのを聞いたことがある。また、地名を拾い読む旅を推奨したのは確か歌人の塚本邦雄だった。著書に「地図を歩く」を副題にした『幻想紀行』という一冊があるはずである。ほかにも、知識を積んで知識によって旅をする御仁もいる。辞典類や地図を開いて幻想に耽ることは、私にも一つの楽しみとしてある。

                                      

  それは自由で、誰にも束縛されず、また、誰にも迷惑をかけず、厭な思いもさせることなく、気楽にやれるからである。疲れれば、辞典や地図を閉じれば済むことで、これはいつでも好きなときに出来る重宝な旅、遊びなのである。で、今回も漢和辞林を開いて、抽出した熟語をして、短歌を作るという所謂「辞林想語」の精神世界の幻想の旅を試みたのであった。(このブログの「<49>辞林想語」と「<393>地図の中の旅」を参照願えれば何よりである)。では、以下に上述の趣旨による「続・辞林想語」の歌を十首ほど。

       佞弁に弄ばれて愚かにも形づくられてゆける情勢 

   大方の家系において国殤のあらざるはなし戦後の日本

   坡陀をなし西日に染まる山々の陰影見ゆる晩夏の旅路   

   この世とは如流なりみな流れゆく姿にありて見ゆるその影 

   実歴ののちなほゆきて思ふこと思ひてここになほある姿

   哲学のさきがけとして屯蹇の思ひありしをニイチエに思ふ

   至り得て汝を癒すものならばひとりよがりの巴調一首も 

   重たくも憶識のうちに秘し閉づる人を拒みてありける扉 

   敷妙の袖に思ひの歌の数 ありて思ふに斟酌のこと

   危殆より脱せざるまま夢さめて夏柑一顆卓上に見き