<594> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (12)
[碑文1] いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな 伊 勢 大 輔
[碑文2] 奈良七重 七堂伽藍 八重ざくら 桃青 (松尾芭蕉)
碑文1の歌碑は、奈良県庁の東側駐車場の南脇に建てられている。この場所は興福寺東円堂のあったところ、旧跡に当たり、傍らにはこの地に所縁のナラノヤエザクラが植えられており、歌碑はこの八重桜の逸話に基づくものである。碑文2の句碑は、芭蕉の名句の一つに数えられている寺院仏閣の多い奈良を詠んだもので、若草山の登山口、北ゲートの傍らに建てられている。
(伊勢大輔の歌碑、長い説明が付せられている) (芭蕉の句碑)
この逸話というのは、『詞花集』に採られ、『小倉百人一首』にも選ばれたこの大輔の「奈良の都の八重桜」の歌がきっかけになって語られているもので、話は聖武天皇の奈良時代に遡る。話によれば、天皇が三蓋山(三笠山?)の奥へ行幸に出られたとき、谷間で八重咲きのサクラに出会い、美しかったので、光明皇后に詩をもって伝えられたところ、皇后がその八重桜を見たいと所望されたので、その桜を宮廷に移植させたという。
ところが、次の孝謙天皇のころになって、権勢を誇る興福寺に移され、東円堂の前庭に植えられ、名桜としてその貴種を誇ったという。鎌倉時代中期の仏教説話集である『沙石集』等によると、都が京都に遷った後、寛弘五年(一〇〇八年)、一条天皇の皇后上東門院(中宮 彰子)の心を慰めんとして、御所にこの桜の移植の話が進められ、興福寺より運び出される間際になったとき、興福寺の僧徒たちが、この名桜を惜しんで拒み、結局、元の位置に戻されたという。
この話を耳にした皇后上東門院は、僧徒たちの心持ちを汲んで、伊勢国予野庄(現在の伊賀市予野)を興福寺の寺領として与え、そこでサクラを育てさせ、名桜が花盛りの七日の間は宿直(とのい)して花を守る花守を遣わしたので、予野庄はこれより後、「花守の庄」と称せられ、庄の人々は桜を育て守ることに精を出したと言うことである。
この歌は大輔の若かりしときの歌で、興福寺からこの八重桜の花枝が献上された際、皇后上東門院より歌を所望され、即興で詠んだと言われる。大輔は披露したこの歌によって歌人として認められるに至ったという。これが藤原定家等にも認められ、歌はのちのちまでも知られることになり、「奈良の都の八重桜」は奈良の名花として誇られるようになった次第である。
その後、近代になって、植物の研究が進み、大正時代に入り、東大寺知足院の裏山に珍しい八重咲きのサクラが発見され、これを植物学者の三好学が古来より伝えられて来たこの逸話の主である「奈良の都の八重桜」に違いない貴重な桜と見た。これによって、知足院の八重桜は国の天然記念物に申請され、大正十二年(一九二四年)指定が決まり、ナラノヤエザクラと命名され、また、ナラヤエザクラとも呼ばれ、奈良県の県花に指定されるとともに奈良市の市の花にもなって現在に至るわけである。
この「奈良の都の八重桜」は『徒然草』(吉田兼好・一三三〇年代)にも登場し、その名は途絶えなかったようで、大正時代の発見によって、その名桜自体も命を引き継いであったことが認識され、ロマンを掻きたてられたのであった。今、その知足院の個体は枯死し、ひこ生えが見えるとともに、枝を分けた分身が奈良市の各所で大きく育ち、その一つが歌碑の傍に立つナラノヤエザクラであると碑文の説明は伝えている。
なお、思うに、この八重桜は寿命が短く、当初、聖武天皇が発見したとされるものと皇后上東門院が所望した「奈良の都の八重桜」とは別木であると考えた方が妥当であろうことが言える。『徒然草』には「八重桜は奈良のみにありけるを、この頃ぞ世に多くなりはべる」とあるので、このころからヤマザクラの変種である重弁のサトザクラが登場して来たのであろうが、従来言われて来た「奈良の都の八重桜」も健在だったことが以上の話からは受け取れる。
因みに、小清水卓二(奈良女子大教授等歴任)は、ナラノヤエザクラの発芽実験を行ない、ナラノヤエザクラ3パーセント、ヤマザクラ17パーセント、オクヤマザクラ(ケヤマザクラ・カスミザクラ)80パーセントの結果を得たことにより、ナラノヤエザクラはオクヤマザクラの突然変異とみた。
碑文1の説明が長くなってしまったので、碑文2の方は、碑文1との関わりの部分のみに絞って述べてみたいと思う。芭蕉は歴史をよく勉強しており、この句にもそれがうかがえる。もちろん、「奈良の都の八重桜」は芭蕉の時代もよく知られていたと思われ、芭蕉はこの句を作るに当たって、大輔の歌を大いに意識していたと思われるふしがある。
芭蕉のこの句は、碑においては『泊船集』によって下五が「八重ざくら」になっているが、「奈良七重七堂伽藍八重桜」と漢字と漢数字のみで、平仮名を一切用いないで詠んだと思われる珍しい句である。その漢数字は大輔の歌の八、九に連携するもので、七、八という数字で奈良の特徴的な佇まいを捉えている。「奈良七重」は言うまでもなく、奈良時代が七代七十余年の帝都であったことを言っている。「七堂伽藍」は堂宇の数を言うものであるが、ここでは大きな寺院、つまり、奈良という地が誇る南都七大寺を言うものと解釈した方が奈良の特徴をよく捉えていると言える。
また、この句が大輔の「奈良の都の八重桜」を意識下に置いて生れたものである点は、芭蕉の『猿蓑』にある「一里はみな花守の子孫かや」の句を見てもそれがわかる。この一里(ひとさと)とは皇后上東門院から「奈良の都の八重桜」に関わって興福寺が寺領に与かった伊勢国予野庄のことで、いつのころか、芭蕉はこの地を訪れたのであろう。この逸話をよく承知していた。
これに対し、碑文2の句は奈良の地を踏んでの作ではなく、別人の句、もしくは題詠的な句であるとの見解もあるが、この句は歴史に造詣の深い芭蕉の句であると私には思われる。奈良ではなく江戸にいて作ったにしても漢数字を連ねて大輔の「奈良の都の八重桜」の歌に呼応した工夫はやはり芭蕉ならではで、作者は芭蕉ということで鑑賞者には納得がゆくのではなかろうか。因みに碑には「応需抱一書之」とある(今ははっきり読めないが)から、この句碑は江戸期文政年間の画家で俳人の酒井抱一の筆によることになる。
なお、このナラノヤエザクラはほかの桜が散った後に咲き出す奈良では殿の桜として知られ、花は例年四月の下旬に見ごろを迎える。今年は開花が早いようであるが、遅咲きの桜である。花は蕾が淡紅色で、花は咲き盛りのときは純白になり、散るとき再び紅色を帯びる(下段三枚の写真)。八重桜にしては花が小さく可愛らしいのが何とも愛くるしい花である。 しんがりの 花よし 奈良の八重桜