大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月20日 | 写詩・写歌・写俳

<596> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (13)

     [碑文]        二十代は愛で 

                             三十代は努力で

                           四十代は我慢で

                           五十代は諦めで 

                             六十代は信頼で

                             七十代は感謝で 

                             八十代は一心同体で

                           そして それからは 

                             空気のような

                             ふれ愛で                                    岸田博明

 詩とみてよいか。登山者や参拝者への呼びかけか、この一文は、大阪奈良府県境の金剛山(一一二五メートル)の山頂、葛木神社の参道脇に聳える夫婦杉の傍らに「夫婦」(めおと)と題し、花崗岩の石碑に刻まれている。金剛山をこよなく愛している人だろう。岸田博明奉納額とある。

                                          

  私には知るよしもない人物で、歴史も感じられない実に今日的な碑であるが、夫婦杉との関わりで採りあげる気になった。一昨日は「奈良七重七堂伽藍八重桜」や「今日九重ににほひぬるかな」の七、八、九という数字、昨日は「三枝」(さきくさ)の三に関わったことにもよるが、三は親子、二は夫婦ということで、今日は夫婦ペアの二にこだわってこの碑を選んだ次第である。

 夫婦というのは、男女、所謂、凸と凹による和合の象徴で、『古事記』の国生みの神話は、男女二神、伊邪那岐命と伊邪那美命の「吾が身の成り余れる處をもちて、汝が身の成り合はざる處にさし塞ぎて、国を生み成さむ」という結婚の和合をもって列島日本の国をつくり成した。というわけで和合の意味が高らかに述べられている。(このブログ<503>「男綱・女綱に思う」参照)。

  これは一でも駄目だし、三でも不和を生じる。杉は癒合しやすいところのある樹木で、一木ごとに成長していたものが、大きくなって癒合合着し、一つの根から二本の幹が立ち上がるものが結構存在し、この姿が夫婦に見えるというので夫婦杉と呼ばれる次第で、この例は全国各地に見られ、中でも屋久島の夫婦杉は名高く、幹の太い方が樹齢二千年、細い方が千五百年と言われ、根元の合体ではなく、手を繋ぐように枝が癒合する珍しい形の杉になっていると言われる。

  大和にも十津川村の玉置神社、宇陀市の宇太水分神社、室生龍穴神社等に夫婦杉が見られる。ほかにもまだあろう。金剛山の夫婦杉も夫婦でどっしりと根を張り二つの幹を天空高くに伸ばしている。碑文には、この夫婦杉にあやかるところを来訪する登山者と共有したいという気持ちがうかがえる。果たして、夫婦杉は、人間に換算すると何歳くらいになるのだろう。堂々偉風の姿からは信頼の六十代くらいかと思われる。このような杉は畏敬の念をもって見られ、いつの間にか注連縄が巡らされ、神格化される。

     幾星霜 如何に迎へし 春ならむ


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月19日 | 万葉の花

<595> 万葉の花 (84) さきくさ (三枝)=ミツマタ (三椏) または イカリソウ (錨草)

        さきくさの 幸くある春 みなの春   

     前略 夕星の 夕(ゆうべ)になれば いざ寝よと 手を携はり 父母も 上は勿(な)下り 三枝の 中にを寝むと 愛しく 其が語らへば 後略                                                                                          巻 五  ( 9 0 4 )   山 上 憶  良

  春さればまづ三枝の幸(さき)くあらば後にも逢はむ莫(な)恋ひそ吾妹(わぎも)         巻 十 (1895) 柿本人麻呂歌集

 集中に三枝(さきくさ)と名のつく植物が見られるのは、冒頭にあげた憶良が我が子の死に際して詠んだ悲歌、904番の長歌と春の相聞の項に見える人麻呂歌集の1895番の短歌一首の計二首である。

 憶良の長歌の方は、「夕べになって、さあ寝ようと、手を取り、お父さんもお母さんも、私の傍を離れないで、三枝のように、私は二人の真ん中に寝るんだと、可愛らしく言うので、云々」という意である。一方、人麻呂歌集の短歌の方は「春になるとまず咲く三枝のように幸せでいたならば、のちにも逢えるので、恋しく思わないでください。私の愛しい人よ」というほどの意である。

                                          

 この二首中の三枝はともに「さきくさ」と読むが、『古事記』の神武天皇の条に「山由理草の本の名は佐韋と云ひき」とあり、この「山由理草」は三つの枝を出して花をつける三枝のササユリであること、また、『倭名類聚鈔』には「飛騨国 大野郡 三枝 佐以久佐」とあるなど、三枝を「さゐくさ」と言い、「ゐ」が「き」に転じたものともされる。

 ならば、この三枝はササユリで解決かと言えば、それがなかなかそうはゆかないのが万葉植物の難しいところである。というのは、この二首の三枝を見ると、その意は枝もしくは葉、花が三つに分かれているということ。また、「春さればまづ三枝の幸(さき)くあらば」ということであるから、「幸(さき)」と「咲き」の言葉の技巧歌としてあり、春の到来と同時に花を咲かせる植物でなくてはならないという条件が生じるわけで、夏(六月ごろ)に花を咲かせるササユリではこの条件に合致せず、不合格ということになる。

  ここで思われるのが、率川神社(奈良市本子守町)の三枝祭(さいくさのまつり)である。三枝祭は百合祭とも称せられ、平安時代初期の『令義解』神祇令に、「夏の初めに行なわれる三枝祭は率川社のもので、三枝花をもって酒樽を飾るゆえに三枝という」とあり、『延喜式』には旧暦四月の初めの祭りとあるから、三枝が花期の遅いササユリでは具合の悪いことになるが、当時の三枝花がどんな花であったかは不明であるという。

  祭りの日が現在の六月十七日になったのは明治時代に至ってからで、この変更は、四月にササユリの花がないので、大和にササユリの花が見られる花期に合わせたからではないかと思われる。ここで重要なのは率川神社の祭神が媛蹈鞴五十鈴媛命(『古事記』の比賣多多良伊須氣余理比賣命)と媛の父母神である三神を祀っているということである。

  媛蹈鞴五十鈴媛命(比賣多多良伊須氣余理比賣命)は神武天皇の皇后で、前述した『古事記』の二人の出逢いの記事における佐韋が三枝のササユリであると言われるところから、この祭りにササユリは欠くことの出来ないもので、祭りの日の方が変更されたと見なせるわけである。

  そして、今一つ、三枝というのは、媛蹈鞴五十鈴媛命(比賣多多良伊須氣余理比賣命)を中心にして左右に父母神の親子三神を祀り、子守明神の異名をもってある率川神社の姿に重なるわけで、これは『万葉集』の憶良の長歌、904番の長歌の発想に等しいところがうかがえるところとなっている。つまり、率川神社の三枝祭の場合はササユリをして、三枝とする必然性があるわけであるが、『万葉集』の歌に見られる条件をしてこれを見れば、三枝にササユリを当てることにはいささか無理があることになる。

  ここで、冒頭にあげたニ首からうかがえる花の咲く時期と三枝という本体自体の姿に負うところの条件に合うものとしていろいろと考察がなされ、或るは、花にこだわる必要はないとして、春以外に花を咲かせるササユリを含め、ヤマゴボウ、ソバナ、ツリガネニンジン、オケラといった草花が候補として名を連ね、ヒノキやマツといった大きな樹木までもその候補として登場することになり、中には、どの種というのではなく、三つの枝を出す植物とみる見解も現われるといった具合で、決定的な該当植物が見当たらないというのが三枝(さきくさ)の悩ましさになっている次第である。

                             

  そんな中で、もっとも納得に近いのが、ジンチョウゲ科のミツマタ(三椏)であり、この説を唱える研究者が一番多いように思われる。だが、これにも問題がないわけではない。ミツマタはコウゾやガンピに並ぶ製紙の原料として知られるが、中国原産の落葉低木で、万葉当時我が国に渡来して目に出来ていたかどうか、ここに疑問になるわけで、これに十分な答えが出し得ないところが気になると言える。

  これに対し、メギ科のイカリソウ(錨草)とする見解もある。これは、幕末の紀州藩士で大和の山野の植物に詳しい畔田翠山の説によるもので、この説に傾斜する研究者も現われている。しかし、イカリソウは、これも決定的な説得力には欠け、今のところミツマタ説が最も有力視されている次第である。

  なお、大和におけるイカリソウは主に金剛・葛城山系に自生するが、強壮薬として人気を博した時代に採取が極められ、葛城山では絶滅危惧状態に陥り、保護対象の希少植物になっている。また、ミツマタは紀伊山地の山間に純林化しているところが見られるが、これは植えられたものが野生化し、その地に適合して増えたもので、大和に自生するものはないと言われる。

  写真上段は三枝(さきくさ)の有力候補のミツマタ(左)とイカリソウ(キバナイカリソウ)。 写真下段は三枝の候補に名を連ねる左からササユリ、ヤマゴボウ、ソバナ、ツリガネニンジン、オケラ、ヒノキ、マツ(クロマツ)等の草木の花と実。なお、ササユリの写真は一茎一花であるが、これはまだ若いからで、根が大きく成長すると三つの枝を出し、複数の花をつける。最近は盗掘やイノシシの被害に遭い、自然界ではそこまで成長するものがなかなか見られないのが現状である。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月18日 | 写詩・写歌・写俳

<594> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (12)

            [碑文1]        いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな                伊 勢 大 輔

    [碑文2]        奈良七重 七堂伽藍 八重ざくら                                               桃青 (松尾芭蕉)

  碑文1の歌碑は、奈良県庁の東側駐車場の南脇に建てられている。この場所は興福寺東円堂のあったところ、旧跡に当たり、傍らにはこの地に所縁のナラノヤエザクラが植えられており、歌碑はこの八重桜の逸話に基づくものである。碑文2の句碑は、芭蕉の名句の一つに数えられている寺院仏閣の多い奈良を詠んだもので、若草山の登山口、北ゲートの傍らに建てられている。

                                                              

                      (伊勢大輔の歌碑、長い説明が付せられている)            (芭蕉の句碑)

  この逸話というのは、『詞花集』に採られ、『小倉百人一首』にも選ばれたこの大輔の「奈良の都の八重桜」の歌がきっかけになって語られているもので、話は聖武天皇の奈良時代に遡る。話によれば、天皇が三蓋山(三笠山?)の奥へ行幸に出られたとき、谷間で八重咲きのサクラに出会い、美しかったので、光明皇后に詩をもって伝えられたところ、皇后がその八重桜を見たいと所望されたので、その桜を宮廷に移植させたという。

  ところが、次の孝謙天皇のころになって、権勢を誇る興福寺に移され、東円堂の前庭に植えられ、名桜としてその貴種を誇ったという。鎌倉時代中期の仏教説話集である『沙石集』等によると、都が京都に遷った後、寛弘五年(一〇〇八年)、一条天皇の皇后上東門院(中宮 彰子)の心を慰めんとして、御所にこの桜の移植の話が進められ、興福寺より運び出される間際になったとき、興福寺の僧徒たちが、この名桜を惜しんで拒み、結局、元の位置に戻されたという。

  この話を耳にした皇后上東門院は、僧徒たちの心持ちを汲んで、伊勢国予野庄(現在の伊賀市予野)を興福寺の寺領として与え、そこでサクラを育てさせ、名桜が花盛りの七日の間は宿直(とのい)して花を守る花守を遣わしたので、予野庄はこれより後、「花守の庄」と称せられ、庄の人々は桜を育て守ることに精を出したと言うことである。

  この歌は大輔の若かりしときの歌で、興福寺からこの八重桜の花枝が献上された際、皇后上東門院より歌を所望され、即興で詠んだと言われる。大輔は披露したこの歌によって歌人として認められるに至ったという。これが藤原定家等にも認められ、歌はのちのちまでも知られることになり、「奈良の都の八重桜」は奈良の名花として誇られるようになった次第である。

  その後、近代になって、植物の研究が進み、大正時代に入り、東大寺知足院の裏山に珍しい八重咲きのサクラが発見され、これを植物学者の三好学が古来より伝えられて来たこの逸話の主である「奈良の都の八重桜」に違いない貴重な桜と見た。これによって、知足院の八重桜は国の天然記念物に申請され、大正十二年(一九二四年)指定が決まり、ナラノヤエザクラと命名され、また、ナラヤエザクラとも呼ばれ、奈良県の県花に指定されるとともに奈良市の市の花にもなって現在に至るわけである。

  この「奈良の都の八重桜」は『徒然草』(吉田兼好・一三三〇年代)にも登場し、その名は途絶えなかったようで、大正時代の発見によって、その名桜自体も命を引き継いであったことが認識され、ロマンを掻きたてられたのであった。今、その知足院の個体は枯死し、ひこ生えが見えるとともに、枝を分けた分身が奈良市の各所で大きく育ち、その一つが歌碑の傍に立つナラノヤエザクラであると碑文の説明は伝えている。

                                  

  なお、思うに、この八重桜は寿命が短く、当初、聖武天皇が発見したとされるものと皇后上東門院が所望した「奈良の都の八重桜」とは別木であると考えた方が妥当であろうことが言える。『徒然草』には「八重桜は奈良のみにありけるを、この頃ぞ世に多くなりはべる」とあるので、このころからヤマザクラの変種である重弁のサトザクラが登場して来たのであろうが、従来言われて来た「奈良の都の八重桜」も健在だったことが以上の話からは受け取れる。

  因みに、小清水卓二(奈良女子大教授等歴任)は、ナラノヤエザクラの発芽実験を行ない、ナラノヤエザクラ3パーセント、ヤマザクラ17パーセント、オクヤマザクラ(ケヤマザクラ・カスミザクラ)80パーセントの結果を得たことにより、ナラノヤエザクラはオクヤマザクラの突然変異とみた。

  碑文1の説明が長くなってしまったので、碑文2の方は、碑文1との関わりの部分のみに絞って述べてみたいと思う。芭蕉は歴史をよく勉強しており、この句にもそれがうかがえる。もちろん、「奈良の都の八重桜」は芭蕉の時代もよく知られていたと思われ、芭蕉はこの句を作るに当たって、大輔の歌を大いに意識していたと思われるふしがある。

  芭蕉のこの句は、碑においては『泊船集』によって下五が「八重ざくら」になっているが、「奈良七重七堂伽藍八重桜」と漢字と漢数字のみで、平仮名を一切用いないで詠んだと思われる珍しい句である。その漢数字は大輔の歌の八、九に連携するもので、七、八という数字で奈良の特徴的な佇まいを捉えている。「奈良七重」は言うまでもなく、奈良時代が七代七十余年の帝都であったことを言っている。「七堂伽藍」は堂宇の数を言うものであるが、ここでは大きな寺院、つまり、奈良という地が誇る南都七大寺を言うものと解釈した方が奈良の特徴をよく捉えていると言える。

  また、この句が大輔の「奈良の都の八重桜」を意識下に置いて生れたものである点は、芭蕉の『猿蓑』にある「一里はみな花守の子孫かや」の句を見てもそれがわかる。この一里(ひとさと)とは皇后上東門院から「奈良の都の八重桜」に関わって興福寺が寺領に与かった伊勢国予野庄のことで、いつのころか、芭蕉はこの地を訪れたのであろう。この逸話をよく承知していた。

  これに対し、碑文2の句は奈良の地を踏んでの作ではなく、別人の句、もしくは題詠的な句であるとの見解もあるが、この句は歴史に造詣の深い芭蕉の句であると私には思われる。奈良ではなく江戸にいて作ったにしても漢数字を連ねて大輔の「奈良の都の八重桜」の歌に呼応した工夫はやはり芭蕉ならではで、作者は芭蕉ということで鑑賞者には納得がゆくのではなかろうか。因みに碑には「応需抱一書之」とある(今ははっきり読めないが)から、この句碑は江戸期文政年間の画家で俳人の酒井抱一の筆によることになる。

  なお、このナラノヤエザクラはほかの桜が散った後に咲き出す奈良では殿の桜として知られ、花は例年四月の下旬に見ごろを迎える。今年は開花が早いようであるが、遅咲きの桜である。花は蕾が淡紅色で、花は咲き盛りのときは純白になり、散るとき再び紅色を帯びる(下段三枚の写真)。八重桜にしては花が小さく可愛らしいのが何とも愛くるしい花である。  しんがりの 花よし 奈良の八重桜


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月17日 | 植物

<593> ワラビ採り

       わらびとは なるほど藁火 もえ出づる

 今日は奈良の若草山に登った。目的は歩くこと。そろそろ山の季節なので衰えた脚力を鍛える必要がある。で、今日は四時間ほど上下して足を鍛えた。鍛えたと言えば、格好よく聞こえるが、標高三〇〇メートルほどである。しかし、日ごろの行ないが祟り、疲れてしまった。

 山頂付近ではワラビが多く見られ、みんな採っていたので私も二十分ほど採った。ワラビ採りが目的の人は大きな買物袋にいっぱい採っている。ワラビはどうもシカが食べないようで、シカの群の目と鼻の先に生え出しているが、シカは見向きもしない。

                             

 だが、この時期になると、ワラビをめがけて人がやって来る。ワラビにはえぐみをもって、シカへの対処を万全にしているのであろうが、人間さまは知恵があって、えぐみの効用は通用しない。えぐみはひつこいが、人間さまは簡単に取り除いて食べる。

  ワラビには始末の悪い相手であるが、採られても直ぐに芽を出す強さが備わっていて、なくなることはない。だから、ワラビは毎年姿を見せる。左の写真は若草山の草原に生え出したワラビ。葉が出ているのは採る者の目を逃れたものたちである。右は私が収穫したワラビ。丈が短いのは毎日誰かが採りに来るからで、長く伸びる時間的な余裕がないからである。

 これにはこのところ雨のないことも影響しているように思える。雨が降れば採りに来る者がないからワラビはその間に大きくなれる。立ち入り禁止の柵の中には長く伸び出し、すでに葉を形づくっているものも見られた。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月16日 | 万葉の花

<592> 万葉の花 (83) はねず (翼酢、波祢受、唐棣花)= ニワウメ (庭梅)

      移ろふは 定めそこはかと ゆきし春

      思はじと言ひてしものをはねず色の移ろひやすき吾が心かも                       巻 四 (657)  大伴坂上郎女

    夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち零(ふ)らば移ろひなむか                 巻 八  (1485) 大伴家持

      山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ                        巻十一 (2786) 詠人未詳

        唐棣花色の移ろひやすき心あれば年をぞ来経(きふ)る事は絶えずて               巻十二 (3074) 詠人未詳

 はねずの見える歌は集中に四首、ここに抽出したのがその四首で、四首を読むに、657番、2786番、3074番の三首ははねず色という色名で詠まれ、2786番の歌に「はねず色の赤裳の姿」とあるによって、その色は赤色系であることがわかる。

 このはねず色については、『日本書紀』の天武天皇十四年(六八六年)七月の記事に「服の色を定む」として、「浄位より已上は、並に朱花を着る」と記され、朱花には「此をば波泥孺(はねず)と云ふ」と注し、はねずの花が朱色系の色であることが示されている。

 ただ、この色ははねずの花の色に因むもので、はねずの花が染料に用いられたわけではない。これにはベニバナの花とクチナシの実で染めた黄丹の色が近く、朱色系と言っても、淡紅色に黄白色が重ねられたような色で、これは皇太子が用いる衣の色に似るところから、以後は禁裏でも普通には禁じられ、用いられなくなったという。

 また、657番、1485番、3074番の三首は「移ろひ」という言葉に結びつけて詠まれ、四首すべてがはねずの花に関わる歌であるのがわかる。原文は四首のうち三首が万葉仮名の当て字によって表記されているが、家持の1485番の歌の詞書と3074番の歌に「唐棣花」と漢名が用いられているので、この「唐棣花」が手がかりとしてあり、中国の最古の詩集『詩經』等古書を辿れば、唐棣は薁李とあり、薁李は郁李で、ニワウメの漢名が郁李であるため、はねずはニワウメとなり、これが定説になっている次第である。

 ニワウメはバラ科の落葉小低木で、高さは二メートル弱、よく枝を分け、春、葉に先がけて淡紅色または白色の五弁花を枝ごとに並べて咲かせる。果実は直径一センチほどの球形で、夏ごろ、光沢のある赤色に熟し、食べられる。中国原産で、古い時代に渡来し、最初は薬用に供せられていたようで、その後、花が観賞されるようになり、庭木としても用いられ、ニワウメ(庭梅)の名で呼ばれるようになった。はねずの語源については不明である。

                         

 ここで気になるのは、1485番の「夏まけて咲きたるはねず」とある家持の歌で、「夏まけて」をどのように解釈するかであるが、「夏を待ちうけて」という意とするならば、「はねず」は初夏に咲く花ということで、サクラと同じ時期に花を咲かせるニワウメには微妙に花期が食い違うことになる。

 そこで、「夏まけて咲きたるはねず」を「実の赤く熟す夏が待たれるように、はねずが花を咲かせる」という風に解釈出来ないかということが思われる次第である。花もさることながら、果実も食用並びに薬用とした当時を考えると、こういう解釈も成り立つと言えるが、無理があるだろうか。

 なお、はねず色は移ろひに掛かる枕詞として用いられているが、ツユクサの花で染めるつきくさ染めとは違い、はねず色に染められた色が褪せやすく移ろいやすいということではなく、はねずの花が移ろいやすいことをいうもので、1485番の歌がそれを物語っている。写真はニワウメ。