大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年04月03日 | 写詩・写歌・写俳

<579> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (8)

       [碑文]      うち山や とざましらずの 花さかり                                                  宗房 (松尾芭蕉)

 天理市の石上神宮から山の辺の道を数分ほど歩くと、同市杣之内町の内山永久寺跡の池の堤に突き当たる。ここで古道は直角に左へ折れ、池に沿って続くが、この突き当たりの堤の上にこの地を訪れて詠んだ松尾芭蕉の句碑が建てられている。

  碑の説明によると、芭蕉が江戸へ下る前、まだ出生地の伊賀上野に住んで、宗房(むねふさ)と号していたころの作で、いつのころこの地を訪れたかは明らかでないが、寛文十年(一六七〇年)刊行の「大和順礼」(岡村正辰編)に収められているところから、これより以前の二十三、四歳までに詠まれたものであろうという。

  つまり、この句は俳人芭蕉の駈け出しのころの作ということになる。原句は「うち山や 外様しらずの 花盛」で、前書に「宇知山 山辺郡」とある。「うち山」は内山のことで、大和国宇知山永久寺を指す。内山は三方を山に囲まれた地形にあることをいうもので、ここに永久寺が建立され、往時は多数の堂宇を誇り、句の内容から境内にはサクラが多く見られたことが知れる。

  永久寺は、永久年間(一一一三年から一一一八年)に鳥羽天皇の勅願によって創建され、その後、石上神宮の神宮寺として、一時は東大寺や興福寺に匹敵するほどの勢力を見せたが、神仏分離令による廃仏毀釈の波を被り、明治時代になって廃寺となり、堂宇、建造物はことごとく取り払われてしまった。現在はわずかに浄土式回遊庭園の前池が農業用の溜池として残されているのみで、跡地には南北朝時代に一時御所を置いた後醍醐天皇の足跡を示す「後醍醐天皇萱御所跡」の石碑が一基草の茂る中に建てられているだけで、大伽藍の往時を偲ぶものは何もない。

                                                            

  池は大亀池と呼ばれ、芭蕉が訪れたときにはサクラが咲き盛り、回遊庭園の池には多くの堂宇とともに、サクラもその姿を映し、まさに極楽浄土の姿を見せていたのではなかろうか。その美しさをよそ者の芭蕉は聞き及んでいたかも知れないが、知らなかった。故に「外様しらずの」と言っているわけである。今は杣之内町木堂に因んで木堂池(きどういけ)と呼ばれ、五十年ほど前に木堂地区の青年たちによって植樹されたサクラが池の周辺に見られ、花どきの今の時期は池水に花の姿が映り込んでみごとな眺めである。芭蕉の時代もサクラの花で知られていたのであるが、今も青年たちの植樹のお陰で、山の辺の道きってのサクラの名所になっている。

  ところで、私たちは、昔を思い巡らせるとき、現在の姿をもって想像しがちで、間違いを引き起こしやすいが、ここで思われるのが、芭蕉の詠んだサクラと現在池畔に咲き誇っているサクラが異なる種類のサクラであるということ。現在のサクラはソメイヨシノで、このサクラは幕末のころ現出したもので、芭蕉の時代にはなかった。寿命は八十年ほどと短い。これに対し、芭蕉が出会ったサクラは万葉のころから知られたヤマザクラではなかったかと思われる。

 ヤマザクラの寿命は普通百二十年ほどと言われるので、当然のこと、芭蕉が目にしたサクラは現存せず、この句によって想像するほかない。ということで、この句は、当時のこの地の姿を物語る大切な証言の句であるということも出来る。左二枚の写真は芭蕉の句碑。碑陰によると、碑の文字は芭蕉直筆の「貝おほひ」から集字拡大したとある。

 右の写真は池面に映るサクラ。 よく見ていただければわかるが、池には一面にテグスが張り巡らされている。鵜(う)が来て放流している魚を漁るのを防ぐためだという。遠路サクラを撮影に訪れる人にはがっかりで、シャッターも切らずに引き上げて行く人も見られる小さなトラブルであるが、これも時代の様相ということであろう。  水面への ひとひらごとの さくらかな