<3268>「大和の花」の終わりに当たって
世の定めとは言はるるにその定め始めがあれば終はりのある身
大和(奈良県)の地に草木の花を求めて約二十年。その間に撮影した野生を中心にした草木の花の写真に短文を添えて続けて来た「大和の花」の連載は千種を越え、写真が尽きる状態に至ったことにより、1145番のタチバナ(橘)をもって終わりにしたいと思う。撮影したもので抜け落ちている花があるかも知れないが、目ぼしい花は掲載し得たと思われるので、ここに終止符を打つことにした。今後、新しく撮り得たもの、あるいは抜け落ちていたものについては「追記」したいと思う。
紹介の花は、大和(奈良県)のほぼ全域に及ぶ河川、池沼の水辺から岸辺、道端の草叢、野辺の草原、棚田の畦、丘陵地、高原、山間地、山足、林縁、渓谷、低山、深山、山岳の高所、岩崖地に隈なく出向き、出会って来た四季の花々である。多少植栽の草木も含まれるが、ほとんどが野生のもので、印象の強弱はあるものの大概の花に撮影時のことが思い出される。
草木の花や実は時のものであるから、撮影の花は既に失われ、現存するものではないが、種を引き継ぎ、代を変えて今も花を咲かせている。そうした花は、時の流れの中にあって二つの意味を持って咲いているということが思われる。一つは、例えば『万葉集』に登場を見る花々で、撮影出来た花。これらの花は少なくとも万葉時代から現在に至るまで種を継いで来た花であること。この軌跡は、私たちの生と同じ意味をもつものであることを示している。
今一つは現存する植生の花の未来に向かって咲く意味を掬い取るという点にあること。明日はどのように展開するか、生あるものにとって、これは不明である。明日失われ、絶滅するかも知れない存在としてあるかも知れないということ。この点を考えると、現存の花の写真の記録は大切なものとなり得る。殊に絶滅が危惧される草木の花に重きを置いて撮影に当たったことは、植生の環境を考える上に必要で、これは地球環境にも関わり、私たちの生活にも通じるということで、大切であると思える。
これに今一つ加えるとしたら、外来種の草木が見参し、増える傾向にあることを現存の花は示していることである。外来種の帰化は大半が人に起因し、それは文化の流れに沿う意味において語ることが出来、私たちの暮らしと一致して花が見られるという点において一種の文化の流れのバロメーターを意味していることになり、その写真による記録は必要と思われる。
約二十年間、時を得て咲く花を山野に求めて歩くに当たって思われたのは、都会では人間が主体であるが、山に入ると草木が主体になり、私たち人間は客人になるということであった。そして、草木に囲まれながら、人間が如何に植物の恩恵を受けて、その生を叶えているかということに思いがいった。
花はものを言わないけれども、表情は見せる。そして、私たちにはわからないが、意志を持っているということが思われたことではあった。そして、撮影に当たりながら共生と多様性について考えさせられたことである。それにしても、千種以上の花に出会えたことは、花が時のものであることを思うに、これは縁の何ものでもないと思えて来る次第である。
なお、「大和の花」の記載に当たっては、主に山渓ハンディ図鑑のシリーズ『樹に咲く花』、『野に咲く花』、『山に咲く花』、全国農村教育協会編『帰化植物写真図鑑』、柏書房『花と樹の事典』、それに、奈良県編『奈良県野生生物目録』、『大切にしたい奈良県の野生動植物』、森本範正著『奈良県樹木分布誌』等を参考にさせていただいた。
葉や花など草木の形状等については観察者の主観と生育環境による個体による異なりもあるので、正確を期すことが出来ていないこと。似通って紛らわしいものについては、図鑑により独自の判断で判別等に当たった。また、分類には新旧があって一貫性に欠けるところがあると思われるが、主に山渓ハンディ図鑑によったことをお断りする次第である。 写真は山野で出会った花の一部。上段左からタチツボスミレ、ジュンサイ、フクジュソウ。下段左からヤマツツジ、ゴゼンタチバナ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます