大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年11月12日 | 創作

<3226>  作歌ノート  ジャーナル思考 (五)

                群をなし近づくものの砂ぼこり恐怖を言へば馬上の心理                          心理(こころ)

 「赤信号みんなで渡れば怖くない」。これは実に恐ろしい光景である。一人の真実も多数の誤認の前にうなだれなくてはならない。多数の声によってその誤認は幅を利かせ、真実が飲み込まれてゆく。私たちは過去にそのような光景を見て来なかったか。無念、馬上の人よ。迎合されて行くものの声の数に押されて、行く末を曲げてしまうその嘆きよ。

  大勢の人の流れに逆行のそれゆゑに目よ見えて来るもの

  多にあらば正と言へるか否否否 否と言ふべくひろげし腕                                多 (た) 

 多数に巻き込まれて流されるものは、多数の勢いに押されて多数の背後を見ることが出来ない。それは、往々にして大変恐ろしいことに繋がる。例えば、海音寺潮五郎の言葉が思われる。氏は『武将列伝』の勝海舟の項で、「開国主義者や幕府の捕吏を暗殺すると、世間も喝采し、攘夷志士の中でもいい顔になれたのだ。こまった時代であった。ある一つの思想が一辺倒的に勢いを得てくると必ずこういうことになる」と述べている。

                               

 これは幕末維新の世の中の趨勢を言っているものであるが、現代においても、ニュアンスは少し違うものの、そういう兆しの事例が見て取れる。ヘイトスピーチがそれに当たる。多数に寄りかかる安心とその安心をよりどころにした勢いによって、社会全体がものの見えなくなって来る心理的状況を言うものである。

   付和雷同という言葉がある。自分の考えに基づかず、むやみに他人の意見に同調してゆくこと。「あの人もやったではないか」とか「あの状況下では仕方なかった」とか。後の言い訳に必ず出て来る。例えば、戦争への道。それへの深入り。この言い訳けの理屈こそが道を誤らせて来た。

   悲しいかな。声を大にしても、少数では多数の誤りを正すことは難しい。しかし、それでも、少数の中には声を大にするものがいるし、いなければならないと思う。少数の声を蔑んではいけない。馬上の人よ、ただ一人であっても、またの歌を諾うべし。雨の日があれば、晴の日もある。雨の日に晴の日を思うことも。ならば、一辺倒にも思いを巡らせることが出来るであろう。 写真は文庫本、海音寺潮五郎の『部者王列伝』のシリーズ。

  凡百の我にしてなほ思はしむ 一辺倒は危ふしとこそ

   「赤信号みんなで渡れば怖くない」 とは言へどそは危くぞある

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年11月12日 | 創作

<3225>  写俳百句  (11)  コウヤボウキとナワシログミの花

                 何の花冬の日差しに冬の花

                      

 矢田丘陵の山足で、コウヤボウキの花を撮っていたら、三人の老女が通りがかり、その一人傍に来て、何の花かと訊いた。二人は関心がなかったとみえ、ちょっと立ち止まっただけで、歩き去った。興味を持ったらしい老女は花を見ながら説明を求めて来た。という次第で、和名の由来とかを話した。

 コウヤボウキは高野箒で、その名は高野山の僧侶が小低木であるこのコウヤボウキの細くしなやかな枝を束ねて箒にしたことに因むということ。また、『万葉集』にタマバハキ(玉箒)の古名で見え、大伴家持の歌でよく知られ、正倉院御物にも実物が保存されていることなど。

 話のついでに花のついた一枝を折り取って、「多分、そんなにもたないでしょうが」と言葉を添えて手渡すと、老女は礼を述べて友達を追って行った。私は日差しが雲に遮られるタイミングを待って、暫くコウヤボウキの花に対峙した。

 一方、ナワシログミは、山野の至るところに生え、グミの仲間では群を抜いて多く、よく見かけるが、他の草木に紛れ、雑木然として見え、花や実がついても見過ごされることが多く、あまり関心を持たれないところがある。私がよく足を運ぶ馬見丘陵公園の自然林にも見られるが、その花に立ち止まる来園者はほとんどいない。

 この間は、その花にカメラを向けていたら、夫婦らしい中年の男女が近づき、「かわいらしい花ね。何の花ですか」と女性の方が訊いて来た。ナワシログミであることと、グミの仲間で、苗代をつくる初夏のころ実が熟れるのでこの名があるとをつけ加えた。実は食べられるけれど、よほど熟さないと渋いということ。また、実は野鳥の好物で、ヒヨドリなどが競って食べることなどを話した。

 二人は「かわいらしい」を連発しながら、スマホを取り出し、写真に収めて立ち去って行った。なお、コウヤボウキもナワシログミも、大和地方では晩秋から初冬のころが花の盛りで、季語からすれば秋ということになるが、立冬を過ぎて詠んだ実感により冬と見たことによりこの句を得た。 写真はコウヤボウキ(左)とナワシログミの花(右)。