大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年07月18日 | 写詩・写歌・写俳

<2750> 余聞、余話 「記憶と認識」

        真実は顳顬のうち胸のうち淋しきまでの深き青空

 私ごとであるが、先月父母の法事があって郷里に赴いた。「赴いた」とは妙な言い方かも知れないが、父母が亡くなって、兄が家を継ぎ、管理するようになって自由が利かなくなった。帰るというのは父母の家であって、兄の家へ「帰る」とは言い難い。だから父母が健在だったころのような自由な心持ちで郷里と行き来することがなくなった。というのが理由にある。

  この心理的状況が郷里の家に持たれるようになり、速いもので二十年以上になる。そして、この心境は郷里をも疎遠にすることになった。妙な気もするが、郷里の家に実家という言葉も私にはすっきり使えなくなった。これを称して敷居が高くなったというのであろうか。だが、玄関を入ると、父母が健在だったころと変わりない懐かしさのよなものが込み上げて来た。当然かも知れないが、いたるところに思い出が絡んで見えた。心の奥の琴線に触れるものが家の中のそこここにあったということになる。

 床の間には法要の祭壇が設えられ、法事の用意はすっかり整い、檀家寺の導師を待つばかりで、兄が導師を迎えに行っているという。仏前にお供えをし、客人の立場になった。母の二十三回忌と父の三十三回忌を合わせ、身内だけのささやかな法要だったが、つつがなく終わり、兄にすれば家の役目をこなしたということになる。まことにお疲れさまであった。

  法事ののち、導師とともに膳を囲んだのであるが、そのとき、何の拍子にか、兄が子供のころよく遊んだ近くの観音堂の仏像の話を持ち出した。前置きが長くなったが、このブログの今回のテーマはこの観音堂の仏像についての記憶と認識に関わる話である。

 観音堂は集落の一角にあり、南と西に土塀を廻らせた広庭があって、その広庭の北側に建物がある配置になっている。建物は祠のようなものではなく、結構間口の広い瓦葺きの平屋建てで、いつも入口の板戸が閉め切ってあった。最近のご時世では考えられないが、板戸に鉤は掛かっておらず、自由に出入りが出来た。子供たちは庭で遊ぶことがほとんどで、堂中にはあまり入らなかったが、ときに入って遊ぶこともあった。

  堂中はがらんどうで、これといったものはなく、お堂というよりもむしろ集会所の印象が強かった。板戸を閉めると、中は真っ暗になり、板戸の節穴から外光が射し込み、背後の壁だったか何だったか、逆さの風景が映ったのを微かながら覚えている。

 私にはそういう記憶の観音堂だったが、兄が何の拍子にか、この観音堂に仏像が安置されていたという話を切り出した。姉も兄に同調して「あった」という。私にはその記憶が全くなかったので、「なかった」と主張した。

  兄と私は四歳違いで、姉とは八歳の差がある。観音堂で遊んだのは小学生のころで、兄と一緒に遊びに行った覚えはなく、姉ともない。つまり、観音堂で遊んだ時期は三者三様で、微妙に時期が違っている。ので、別にどうということはないのであるが、「なかった」と「あった」の記憶とその認識の違いが意識された。

                                                         

  この観音堂については、随分昔のことであるが、郷里を同じくする田一枚を隔てて我が家の斜め向かいに生家がある作家柴田錬三郎が週刊文春の連載企画の中の「わがヰタ・セクスアリス」という短編に、悪ガキだった少年時代のエピソードに触れ、当時すでに子供たちの遊び場になっていた観音堂を描写している。兄から観音堂の仏像の話が出て、このことを思い出したが、記事の記憶があやふやでは話にならないので、その場では切り出せなかった。

  それで、法事から帰り、週刊文春の記事は確か切り取って保管してあると思い、溜め置いている資料を探してみたところ物置にしている二階の部屋の本棚のクリアーブックに仕舞われていた。掲載年月日ははっきりしないが、資料の並びから父が亡くなった昭和六十二年(一九八七年)ころと思われる。この観音堂の件には次のように書かれ、ペンで傍線が引いてあった。

  先般、私は、故郷へ墓参に帰ったが、家から裏山の墓地へ行く途中に、村民たちが、観音堂と称する小さな建物が、まだ、古びたなりに、残っているのを見かけて、なつかしかった。 観音堂と称したが、建物の中に、観世音菩薩像が、祀られてあった次第ではなかった。須弥壇など、なかった。いや、明治年間には、それは存在していたかも知れぬが、私が小学生の頃は、消え失せて、子供たちの集会所になっていた。

  これが観音堂の件の一文である。柴田錬三郎は私の母と同年代で、小学生のころと言えば、昭和初期ということになる、この一文に従えば、私たちが記憶を辿って話題にした観音堂の観世音菩薩と思しき仏像は、昭和初期、すでに観音堂にその姿はなかったということになる。兄たちの記憶によれば、戦後まもない時期、仏像は見られ、私の記憶からすれば、戦後も少し落ち着いて来たころ、つまり、私が小学生のころになって、また、消え失せたということになる。

  そこで、その仏像がどんなものだったかについて、聞いてみたいと思っていたら、兄の言うには厨子の中に入れてあったという。これはかなりの記憶であり、認識である。で、年代が異なる三者三様の記憶による「あった」とする認識と「なかった」とする認識のことが思われるところとなった。三者の誰かがいい加減に言葉を創っているとは思えないので、この矛盾めく「あった」と「なかった」の問題は考えさせられるところとなった。と、同時に、現在はどのようになっているのかということも気になって来た。

  しかし、郷里を離れ、他郷に暮らして長い身に、これ以上調べる権利もなければ、義務もないので、こういうこともこの世にはあるというほどに思い、記憶と認識に問題を絞って考えた次第である。それにしても、「あった」という記憶と「なかった」という記憶の認識を比較してみると、「あった」とする記憶の方が「なかった」とする記憶より、その認識度において高いことが言える。「なかった」という認識においでは「見落としていたかも知れない」という記憶の曖昧さが残るからである。

  しかし、兄と私の記憶の相違、観音堂の仏像の有無は、柴田錬三郎の「わがヰタ・セクスアリス」の証言が出て来たことによってわからなくなったと私には思えて来た。仏像があったのであれば、近くのお年寄りか誰かが線香の一つも上げ、お供え物もしたろうと思う。言わば、如何なる小さな仏像にしても放っては置かないだろう。こう考えてみると、なかったとする方が妥当だと思えて来たりもする。

  で、思うに、観音さまが不在の観音堂が、長年無垢な子供たちの自由な遊び場になっていたと思えることも、微笑ましい光景と受け取れる。果たして今はどのようになっているのだろう。過疎化と少子高齢化の世の中の波が悩ましい昨今にあって、小学校も中学校も町中の学校に統合されて久しい瀬戸内の片田舎の現状を思うとき、観音堂に昔のような子供たちの声が聞かれなくなっているのではないかということも脳裡を過るのである。  写真は柴田錬三郎が週刊文春に連載していた「わがヰタ・セクスアリス」の中で、郷里の観音堂に触れた頁(左)とその一文のアップ(右)。