大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2017年08月28日 | 写詩・写歌・写俳

<2068> 余聞、余話 「ハグロトンボとカワガラス」

           詩はどこに生まれるのだろう

        それは詩人のこころの中

        詩は何を素材に生まれるのだろう

        それは万物

            殊に生きとし生けるもの

        詩は何を目的に作られるのだろう

        それは幸せを指向する意思の顕現

              その意思を貫き散りばめてゆくこと

        詩はどこに行き着くのだろう

        それは数ある動揺する心情のもと

        かけがえのない命の扉の中

        詩はつまり何なのだろう

        それは詩人の良心の発露

        あるは無明の闇に灯すほのかな灯火

              あるは混濁し悩むこころを癒す働き

              そしてひたすら詩人は願う

          その灯火の光が遍照せんことを

        悩めるこころの開放に働くことを

 溢れる緑に被われた盛夏の渓谷。そこで出会ったハグロトンボとカワガラス。長い年月水の流れに磨かれ稜のまるまった川石の上に止まるハグロトンボとカワガラスがいた。暫く動くことなく渓谷の自然の舞台で一景の景物になっていた。近くの岸の岩壁ではギボウシが薄紫色の花を咲かせ、舞台背景に加わっていた。私は吊り橋の特等席で一人その渓谷の夏編の自然の舞台に見入ったのであった。

  あれから一月余。夏も終わりに近づいている。私には酷暑の一月余であったが、渓流の流れの音は快く、溢れる緑の中で、その舞台は瑞々しくあったのを思い出す。ギボウシは花を終え、既に実をつけているだろう。果たしてハグロトンボやカワガラスはどうしているだろうか。私が吊り橋の観客席で見入ったあの渓谷の自然の舞台のハグロトンボもカワガラスも背景のギボウシも日常の日々を重ね、今もきっとつつがなくその姿を見せ、明日への夢を繋いでいるのに違いない。

               

 ハグロトンボとカワガラスは二メートルと離れていない距離にあった。敏捷なカワガラスがハグロトンボを襲うには十分過ぎる距離に思え、最初はドラマが展開されるかも知れないと思えた。ハグロトンボもカワガラスもともに互いの姿が視野に入っていたはずで、ドラマの展開はもうすぐ始まる。確実にというのは、ハグロトンボとカワガラスの距離があまりにも近かったからである。だが、ハグロトンボもカワガラスも身構えて緊張している様子はなく、ただ羽を休めているといった姿に見えた。

  暫くの後、カワガラスは渓流の流れに逆行して上流へ一直線に飛んで行き、ハグロトンボもほどなく岩陰の草叢に姿を消した。ハグロトンボとカワガラスの間にドラマは起きなかったが、吊り橋の上の観客席から渓谷の自然の舞台に見入っていた私には一つの余韻が残った。ハグロトンボもカワガラスも岸辺の岩壁に花を咲かせるギボウシもそれは渓谷の日常の一齣であり、その一齣を私は目にしたということである。

 それから私はこの夏場の一月余、辟易の暑さを耐え凌ぎながら「大和の花」を閲することに情熱を傾け、これを日常として日々を過して来た。それはストイックで、孤独な作業に違いなく、ときには、貴重な時間を割くほどの作業だろうかと自問も起きて来るといった自己否定のような心持ちにも陥った。だが、その都度、孤独を感じているときこそ仕事は前に進んでいるのだと言い聞かせ、これを励ましのエールに作業を続けて来た。

 こうして、私の真夏の日々、つまり、日常は過ぎ、今に至っているわけである。そして、あの渓谷の自然の舞台に見られたハグロトンボとカワガラスの一景が私の日常の思いの状況と重なり、夏の終わりが近づき、思い出されたのである。ハグロトンボとカワガラスは敵対関係でもなければ、弱者と強者の間がらでもなく、ただあの渓谷の自然の舞台のありのままの風景の一員として互いに生き、舞台の点景、即ち景物となって一つの世界に与していたということである。

  多分、あれ以後も日常の日々にハグロトンボとカワガラスの間にドラマは生じず、互いにその舞台における点景に終始して来たに違いない。主役にならなくても、生きてその舞台の点景になっているということだけでも生の意味はあると私には思える。それは全てのものによって成り立っているこの舞台(世界)があると言えるからである。

  つまり、これは川石にドラマもなく羽を休めるハグロトンボやカワガラスのみのことではない。この自然の舞台における景物からして思えば、万物全てに存在の意義がある。主役が成り立つためには脇役が必要であり、脇役も舞台(世界)の全体においては点景の存在がなくては十分な働きに及べず、舞台(世界)は成り立ち得ず、殺風景を余儀なくさせることになる。何の役にも立っていないような存在でも、万物全てにその存在価値はあって、舞台(世界)に貢献している。言わば、全体によって舞台は盛り上げられるのである。

 こうした万物の存在において日常の日々は重ねられ、時を未来へと移してゆくのが、言わば、この世である。主役になり得ないハグロトンボもカワガラスも心細い身の私にしても詰まらないものであるということは決してない。生きものは生きていること自体に意味があり、価値がある。日常の日々が晴れやかなのは好ましかろう。だが、落ち込んで沈んでいる心も、自然の舞台(世界)の中にあって、自分ではわからないところで輝きを得ているかも知れないのである。これは弱くとも生きているということが強さを証明しているという理屈と同じなのである。

  「願わくは、ハグロトンボにもカワガラスにも日常の日々を重ねて至る未来が快く開かれんことを」と、2017年の夏の終わりに際し思うことではある。 写真は川石に止まるハグロトンボとカワガラス(左)と岸の岩場で花を咲かせるギボウシ(右)。ともに天川村の山上川の渓谷。