大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年09月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1371> 安倍政権の五つの問題点 (5)

         得しもあり失ひしもありここに今 なほいくばくか歩む道程

 国民多数の反対を押し切って安保法案を成立させた安倍首相は自民党総裁の再選を受けて行なった記者会見において「一億総活躍社会」というスローガンを掲げて抱負を述べたが、あまりにも前向きなこの大風呂敷に私などはその言葉の裏に隠されている日本の危機、即ち、国内外の厳しい状況に思いが行ってしまうのである。

  私は「一億総活躍社会」という言葉を聞いて咄嗟に、昭和十三年(一九三八年)に出された国家総動員法を思い出した。この法は戦時にあって人的乃至は物的資源を国の方策に統制をもって従わせるべく運用させるもので、政府に権限を与え、国民にその義務を課すというものであった。つまり、第二次世界大戦を控えて出されたこの戦時法制を思い出したのである。

  思うに、当時は深刻な経済的状況、即ち、不況が日本を被い、内外ともに八方塞りの状態で、これを打開するには自らの力をもって海外に進出するしかないという機運が高まり、戦争に打って出る選択をした。で、第二次世界大戦の太平洋戦争に突入したのであった。これはそれ以前の日清、日露の戦いに勝利した実績と第一次世界大戦への参戦によって利を得たという裏付けによる読みと身の程知らずのうぬぼれがあったことを示すもので、結局、大戦は日本の敗戦で終わったのであった。

                         

  国家総動員法はこのような事情にあって出されたたもので、一億総活躍社会のお題目とは内容的に随分かけ離れてはいるが、似ているところがあるのである。それは国家総動員法も今回のこの安倍政権のスローガンも国の思わしくない状況が下敷きにあり、これを如何に打開するかというところに発している点である。言葉のニュアンスは違うが、国民に対して一つの連帯意識を持たせようとする全体主義的な思惑が見える。

  一億総活躍社会というようなスローガンを国が敢えて国民に呼びかけることもなかろうと思うが、これは国の状況に危機感があるからと言える。ここで思われるのが、第五の問題点の一つ、国並びに地方自治体の大借金のことがあげられる。総活躍とは聞こえがよいが、この言葉が響いて来ないのは、国の政策がみな国向きで、国民を締め付けるばかりの制度、政策がなされ、国民に信頼のおけるものがないからである。

  消費税の軽減税率の問題にしてもマイナンバー制にしても、それが言える。国民の期待がちらついている軽減税率で言えば、政府は何も考えていない。もし軽減税率を実行するのであれば、具体的な論議がなされているはずであるが、そんな論議はしていない。つまり、軽減税率など端からする気がなく、今に至っている。そして、今やっている補助金で茶を濁し有耶無耶にする。言わば、国民への目線に立つことなく、国は自分本意にことを進めている。で、国民の政治に対する不信はいよいよ募るということになる。

  会見で述べられた「介護離職ゼロ」などという気前のいい話は公務員には摘要出来ても一般社会において出来るものではない。それは今の核家族をベースにした夫婦共働きのような余裕のない社会の成り立ちと大借金に見舞われている国の現状、即ち、日本の社会における環境においてはこのスローガンと社会の成り立ちが同時に出来ない点の矛盾があるからである。

  こういう社会の問題一つを取って見てもわかるのであるが、そんなところには一向に頓着せず、税金を使い放題にする。そのよい例が、新国立競技場や東京五輪のエンブレム騒動である。政治家は五輪名目ならいくらでも予算を組めるくらいにたかを括っているのである。そうでなければあんなべらぼうな予算は立てられない。コンパクト五輪を謳いながら勝手気ままに税金を使う。こういう国の状況下に果して薔薇色の花が咲くとは到底思えない。この話は、五輪に経費がかかり過ぎることを助長する意味でほかの国にも迷惑な話なのである。これにもやはり自分本位の浅はかさが日本の国政に見て取れるわけである。

  少々余談になったが、これに加えて、格差の問題が横たわっている。格差には大きく言って、人と場所(地域)とがある。どちらも指摘されているが、この格差を放置すると、必ず社会の不安を導くことになる。事件や事故は個人的な要素の絡みに現われ、社会的要素は見え難いが、個人的要素は社会的要素に影響されることが大なり小なりあるもので、この関係性を疎かに見ることは出来ない。事件や事故というのはそういう性質のものであり、そういう事件や事故が重なると社会の問題として問われるのである。

  個人が集まって社会が形成されている以上、こうした事件や事故の捉え方は間違っていない。夏目漱石の『草枕』が指摘するごとく、住み難い世をいくらかでも住みよくすることが、社会の安定、即ち、国の安定に繋がる。個人と個人の繋がり、場所と場所の繋がりによって社会が作られているのであるから、ここに格差をなるべく生じないようにするのが社会の安定には一番の効用と言ってよいわけである。

  もう一点、私に懸念される安倍政権の方策がある。それは日本の行く末を外の国に託すというやり方である。株への投資を促進するという点もあげられるが、第一次産業を軽視し、食料の自給率を考えず、これを海外に委ねるということが進められていることである。衣食住が足りて社会は立ち行くが、食はことに大切なものである。それをよその国に委ねるという考えは他力本願であってよいことではない。自分の食いぶちくらいは自分で賄うことをしなければ、合いすまぬということが言える。中東のような砂漠の荒野に住む人々を思えばなおさらのことである。

  このように見て来ると、安倍政権の政策に覚束ないところが見え隠れすると言える。中でも懸念されるのは大赤字の国の財政状況である。この大赤字が諸悪の根源であることは先にも触れたが、これは獅子身中の虫と同じく、国に関わっている行政人並びに政治家自身が身を律し、政治に向かわなくては解決をみない問題としてある。しかし、これは一番難しく、これが出来なければ、遠からず、日本は破綻の憂き目を見ることになると言ってよい。  写真はイメージで、昇り来る朝日。  それぞれの人生にしてそれぞれの営みがある日輪の下              ~終わり~