大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年09月11日 | 写詩・写歌・写俳

<21>  塔
          人生は悲願と祈願

         塔はその象徴だ

         真っ直ぐに天を指し

         天に向かって立つ

         塔の精神性

         塔の縁者たる

         見上げるものたち

         私たちの意志に

         今日も相輪は見える

         とまどうことなかれ

         悲願と祈願を込めて

         見上げながら行こう 

                         
 人生とは悲願を抱き、祈願しつつ歩み行くものである。 人生の道は試練の襲いかかるのが通例であるが、そういうときは、 悲願を見失わず、祈願を込めて越え行くこと。それが求められる。そして、 越える先に彼岸の光明が見えて来ることを思い、 このことを信じて私たちはこの道を行く。
 塔は人生の悲願と祈願の現われであり、象徴であって、天の光明を指して行く私たちの意志を示すものにほかならない。 私たちにとって天は悲願の在処であり、この天を司るのが太陽神の日輪であることが察せられる。この天と私たちの間に塔はあり、その接点に塔の相輪はある。日輪はどこまでも輝き、 私たちは眩しくもその輝きにあこがれながら悲願を抱いて歩み行くのである。
 日輪はときに雲に隠れ、 私たちは自失に襲われるのであるが、 なお塔も相輪も天を指し、その意志を示す。 そして、この写真のように相輪に託した願いが叶えられて日輪を得たと思うようなこともある。しかし、それは幻影に過ぎず、真の日輪はなお高い位置にあって眩しく輝き、私たちを照らしているのである。
 これこそが人生の姿であり、 この世の様相であって、満身創痍、自失しているものも、 自分の思いを得て有頂天になっているものも、平平凡凡と過ごしているものも、すべてこの天の下に居をもって人生を歩んでいるということである。だから相輪に託す願いはすべてのものにあって意味を持つ。で、今日も相輪は天を指して見えるのである。 写真は日の出の際で、四〇〇ミリレンズを使用して撮影したものであるが、 どこの塔で、いつの時期に撮影したかはあえて言わずにおこう。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2011年09月11日 | 写詩・写歌・写俳

<20> ソ  バ
        蕎麦の花 咲きゐる 天地平和なり
  秋天の下、広々とした高原の畑で一面に咲くソバの花を見た。ソバは中央アジアが原産地と言われるタデ科の一年草で、日本にはいつごろどのように渡来したのか、縄文時代(約一五〇〇〇年前から三〇〇〇年前)後期の亀ヶ丘遺跡( 青森県)で花粉の痕跡が見られたことで知られる。ソバは痩せ地に適合し、縄文人は焼き畑に植えたのであろう。文献では 『続日本紀』(七二二年)に元正天皇が栽培を奨励したという記事があり、これが最も古い記述のようである。
  ソバは果実の胚乳をソバ粉にして食用にし、 現在のように麺状に細く伸ばして食べるようになったのは江戸時代からのようであるが、日本人のソバ好きは縄文時代からの長い付き合いによるものと言える。 ソバと言えば、信濃の更科風と出雲の出雲風が有名で、この二つが製法の基になっている。更科風が胚乳ばかりの白い純粋なソバであるのに対し、出雲風は殻をも混ぜ込んだ茶色がかった風味のあるもので、 更科風は最初に擂る一番粉、出雲風は次に擂る二番粉による。これが蕎麦粉の基で、今ではチャ葉を擂り込んだチャソバなども見られる。
    信濃には 月と仏と おらが蕎麦                           小林一茶
  信濃は一茶のこの句が伝えるように昔からソバの産地としてよく知られる。 一茶は生涯貧窮にしてあったが、 故郷の信濃をこよなく愛していたことがこの句によく現われている。「月」は自然をいうものであり、「仏」は先祖のことで、「蕎麦」は特産物である。つまり、一茶にはこれらすべてが誇れるものであった。この故郷へ寄せた一茶の句に接していると、貧窮ではあったが、 一茶の幸せな精神状況が彷彿として見えて来る。

                    
 日本人のソバ好きは大いに需要を拡大し、現在では全国各地に栽培地を広げ、大和でも小規模ながらよくその栽培風景を見かける。中でも桜井市笠は平成の畑地開発でソバを栽培し、今ではおくどの神さま、笠山荒神社に因む「荒神の里 笠そば」の名で売り出すほどになった。ソバ畑は大和高原の一角にあり、その中に立つと、 緑に白の絨毯を敷き詰めたように広がる畑が秋天とともに広々として見え、何か気分が晴れ晴れとし、心地よくなって来るのを覚える。では、今一句。   蕎麦の花 咲き満ちてここ神の里