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大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月23日 | 創作

<3777> 写俳二百句(134) オオヨシキリ見参

                 葭切の見参葭原よりの声

                           

 大和平野のやや西に当たる馬見丘陵公園。この公園に縁取られるように溜池が二つ並んでいる。その一方の下池に付随する湾戸のアシ原に今夏もオオヨシキリがやって来て仰々しい声で囀り始めた。一面に生えるアシは冬になると、立ち枯れ、冬の間にその立ち枯れを半分残して刈り取るのが恒例になっていて、夏の初めになると刈られた側半分は再生した緑の若葉が瑞々しく萌え立ち、刈られず残された穂群の枯れ色と対照をなして見える。こうした風景の湾戸のアシ原にオオヨシキリは来る。そして、枯れたアシの穂先にとまってその見参を仰々しく告げる。

  鳴き始む今年も見参行々子

 毎年、交互に半分を刈り残すのは刈った枯れアシの量が多くなり処置に困るので調節のためというのを聞いたことがある。オオヨシキリにはこうしたアシ原の管理によって半分残される枯れアシが住み心地としてよいようで、毎年やって来る。このアシ原にはほかにも珍しいヒクイナなどの野鳥も生息しているようで、この刈り取りの方法は野鳥たちにとって都合よく、歓迎されているように見受けられる。

    行々子何はともあれ仰々し

   まだ、オオヨシキリの巣は見ていないが、このアシ原で子育てをしているに違いない。今年もほぼ同時期の見参で、その独特の鳴き声は四方八方、遠く池の対岸まで聞こえる。なお、ヨシキリ(葭切)の名はヨシ(アシ)の髄を裂いて中の虫を捕る意か、ヨシを切り裂くほどの激しい声で囀るからか。それとも、ヨシの間に丈夫な巣を作るのにヨシの葉や茎を見事に切るからか、漢名は剖葦で、葭切の意に通う。で、日本では剖葦もヨシキリという。由来として正しいのは何れの説か。

  八方に聞く耳のあり行々子

   ヨシキリ(葭切)は行々子(ぎょうぎょうし)という異名で呼ばれるが、これは囀る声が「ギョギョシ、ギョギョシ」と聞こえ、この独特の声が近世の俳人たちの注目の的になり、一時流行ったらしく、その当時、よく句に詠まれた。ヨシキリは当時から親しまれた夏の渡り鳥だったようで、ほかにも葭雀、葭原雀、麦熟らしなどの名で呼ばれ、地方名も多いが、その中で、行々子の異名が殊に持て囃されたということであろう。では、江戸時代に作られた行々子の句を二例。

       行々子大河はしんと流れけり                                          小林一茶

       能なしのねむたしわれを行々子                                          松尾芭蕉

   写真は今年もアシ原に来て囀り始めたオオヨシキリの行々子。姿は八月ごろまで見られるが、囀るのは六月末まで。では、今一句。

    葭原の天下一途に行々子

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月22日 | 創作

<3776> 写俳二百句(133) スイカズラの花

            曇天下匂ふ道々すひかづら

                  

 スイカズラ(忍冬)は全国の山野に自生するスイカズラ科のつる性常緑木本で、ほかの草木などに絡んで這い上る。葉が冬にも枯れず耐え忍んで青々としているところから忍冬(にんどう)。これは漢名による名で、和名においてはこの忍冬をスイカズラと読ませ、忍冬の名もよく知られている。スイカズラの名は、花に甘い蜜があり、吸う意。薬用植物で、葉に出来物の毒を吸い取る作用がある意。また、冬を耐え忍ぶシヌヒカツラ(忍蔓)の意などその由来には諸説ある。

 花期は五月から六月ごろで、対生する卵形の葉の腋に芳香のある二つの花を並べてつける。花は細長い筒状で、開花すると唇状に開き、上唇は大きく二裂し、下唇は裂けず、みな反り返り、雄しべも雌しべも花の外に長く伸び出してつく。咲き始めの花は白く、咲き終わるころになると黄色になり、同じつるに黄色と白色の二色の花がつくのでキンギンカ(金銀花)の別名(漢名)でも呼ばれる。

 花の咲き始めから咲き盛るころは曇天無風の日でもよく匂い、その芳香は道を歩いていても匂って来て、「スイカズラだな」と目を向けさせるところがある。実は球形で、秋に黒く熟す。

 スイカズラは古代エジプトの装飾文様「忍冬文」で知られ、その紋様は日本にも伝来し、正倉院御物や法隆寺の玉虫厨子の透かし彫り金具などに見ることが出来る。このようにスイカズラには誇らかな歴史が刻まれてあり、親しみの持てる植物である。

 反面、スイカズラは北アメリカやヨーロッパでは観賞用に導入したものが、野生化し、旺盛な繁殖力によって、雑木化し、繁茂し過ぎて、嫌われる存在になっているところがある。東西における文化の違いであろうか、評価が分かれるから、世の中はわからないものである。とにかく、今の時期、山野の道を歩くと、このスイカズラの花に出会う。 写真はともに道端の草地で他物に絡み花を咲かせるスイカズラ(大和郡山市)。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月17日 | 創作

<3771> 写俳二百句(132) 柿の花

           萼の傘まこと左様に柿の花

                  

 柿の花は五月中下旬、走り梅雨のころ咲き始め、季語は仲夏。淡黄色で、出揃った瑞々しい若葉の葉腋にやや下向きにつき、その葉に隠れ紛れるように咲くので目立たない。柿の木の仲間は雌雄別株または同株で、花冠は雌雄とも鐘形乃至広鐘形。分厚く、直径1センチから1.5センチほどの大きさ。先が四つに裂け、裂片が反り返る形になる。実になる雌花の方が雄花よりやや大きく、果期にも残る大きな四つの萼片が傘のように開いて花を守る形につき、印象的である。因みに雄花の萼は小さい。

 花が終わると、花冠は萼片を残して丸ごとぽろりと散り落ち、よく雨に濡れた地表に散り敷いているのを見かける。で、柿の花と言えば、散った花がよく詠まれる風であるが、ここは大きい萼片に守られて咲く雌花の印象。花の後には小さな実がつき、残存したその大きな萼片に包まれ、徐々に太り行き、秋の稔りに向かう。 写真は柿の花(左はカキノキ、右はマメガキ。ともに雌花)。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月14日 | 創作

<3768> 作歌ノート  雑纂 回顧 

             さやさやと神輿過ぎ行きさやさやと心のうちに鳴り止まぬかも

 五月の第三日曜日は京都・嵯峨の車折神社(くるまざきじんじゃ・京都市右京区嵯峨朝日町)の例祭三船祭りである。人々は嵐山の大堰川に船を浮かべ、王朝の雅を楽しむ。神輿を乗せた御座船を囲んで管弦を奏でる船やボートが行き交い、新緑と祭り気分に誘われて繰り出す人々で嵐山は岸辺も川面も人々で大変な賑わいになる。

 その人波の中に、ころ合いの午後、神社の神輿が現れ、大堰川の船着き場まで練り始めると祭りはいよいよ最高潮に達する。神輿は御座船に移され、岸を離れて御旅所の川上を目指す。そのころになると、川面では祭りの呼び物である扇流しが行われ、管弦の奏でられる中、神さまもこの日は人々とともに瑞々しい新緑を楽しむという趣向である。

                                    

 車折神社は王朝末期に活躍した清原頼業(きよはらよりなり)の学徳を顕彰して生まれた神社と言われる。三船祭りは白河天皇(平安時代)が行幸のとき、和歌、漢詩、奏楽の三船を出して船遊びを催した故事に因むもので、昭和天皇の即位があった昭和三年(一九二八年)にその大礼を記念して行われるようになった祭りである。嵐山では秋のもみぢ祭りと好対照な初夏の祭りとして定着し、多くの人々を呼んでいる。

神輿の方角からは人々のざわめきとともにさやさやと鈴の音にも似た微かな鳴りが聞こえて来る。それは眺める側にいる私の心の中で増幅され、鳴り止まぬ響きをもって初夏の風景に馴染む気分があった。

 目に入る人人人。みな善男善女。老いも若きも、恋人たちも、家族連れも、観光客も。新緑下、水はぬるみ、祭りの管弦は爽やかに麗しく華やぎ、川面に映えて見えた。この雰囲気に乗じて恋人たちは語らい、家族連れはなごやかに、観光客も祭りに紛れ、初夏の三船祭りはひねもす続いた。 写真はイメージで、新緑が映える水面。

  初夏の緑の下に現れてさやさやさやと神輿来るなり

  風薫る緑の五月神さまは善男善女をともなひて来る。

  船渡御の神輿が来ればことよき日祭りはまさに闌となる

  初夏の水面きらめく大堰川神のまにまに遊ぶ舟人

  舟人も岸に行き交ふ人もみな五月の風の中の彩

  晴れ渡る空と緑のことよき日ゆゑか人みな美しく見ゆ

  新緑の大堰川へと漕ぎ出せる神のまにまのこころごころよ

  管絃は水面を渡り行けるかな神の出でます日ながの祭

      誘はれて出で来し一日麗しく幸せ人となりて憩ひぬ         一日(ひとひ)

  何を秘め流す扇かもしかして恋に関はる思ひか知れず

  流されし扇に想ふ舟人の影こそまされ川淀にして

  聞けばまた思へば遥かなる一日初夏三船祭を言へば

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月12日 | 創作

<3766> 写俳二百句(131) 夏来たる

             庭隅の団子虫にも夏来たる

                        

 生きものたちは過ぎ行く時に統べられ、その時を共有しながら生きている。人間の私たちも、木々の梢を渡り行く鳥たちも、地を這っている庭隅の虫たちも、山野を彩る数々の草木だって、生を得て存在するものたちはみな無限の時の流れの中にあって、この時に影響されながら、この時の恩恵に与りつつ生きている。

 立夏を過ぎ、いよいよ夏の到来で、私たちにはそれが感じられるが、この時を共有している庭隅の鉢底から這い出して姿を見せるダンゴムシにとっても夏である。もちろんのこと、梢を渡り行く鳥たちにとっても、山野を彩る草木にとっても同じことが言える。

 これが生きものにおける基、総論たるところで、この総論より、他種に及ぶ生きものたちのそれぞれがあり、それぞれの風景がそれぞれに存在し、各論になって展開しているというのがこの世の世界である。例えば、私が眺めている庭のバラを、同じバラながら庭を訪れるアゲハチョウなどはどういう感覚で接しているか。それは自ずと異なるはずである。

 つまり、生きものの世界は、このように総論よりなり、各論に及んで展開しているということになる。そして、総論は揺るぎもあらず、各論は現実を孕んで、限りも見えず、それは万華鏡のような彩をもって展開していると受け止められる。ここにおいては千差万別という言葉で表現されたりする。言わば、ダンゴムシはダンゴムシなりに、この総論において各論に生きているということになる。 写真は危険を察し団子のように丸まって防御態勢を取るダンゴムシ(左)と這うダンゴムシ(右)。

   枝先の花はその花なりに咲きその佇まひにし揚羽は訪へり