goo blog サービス終了のお知らせ 

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年06月15日 | 創作

<3800> 写俳二百句(140) 入 梅

            入梅や大和国中雲の蓋    国中(くんなか)

        

  梅雨入りやそこいら中が雨に濡れ

 昨日十四日、関東地方に遅れて、近畿地方も中国、東海、北陸とともに遅い梅雨入りとなり、奈良盆地の大和国中は厚い雨雲の蓋に塞がれ、いよいよ鬱陶しい季節である。

  梅雨入りや雨に華やぐものもあり

  梅雨来たる雨を頼りにするものも

 長雨は鬱陶しいが、アジサイのように雨に華やぎを増す花もあれば、アマガエルやカタツムリのように雨を好み、雨を歓迎するものもいる。田植えどきのこの時期は早苗の田が広がり、四季の中で雨が一番頼みにされる季節である。 写真は厚い雲に覆われた大和平野の水田地帯。田植えを終えたばかりの田んぼが広がる(左後方は金剛葛城の山並。右の塔は法起寺三重塔)。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年06月11日 | 創作

 

<3796> 写俳二百句(139) ウメ

                               梅みのる天神さんのゐます国

 ウメと言えば、一つに「東風吹かばにほひをこせよ梅に花主なしとて春な忘れそ」の菅原道真が想像される。道真は神童の誉れ高く、学問に秀で、政治にも能力を発揮して右大臣にまで昇進した。が、地位を脅かされる立場にあった左大臣藤原時平の讒訴によって太宰府に左遷された。道真はウメをこよなく愛していたと言われ、太宰府に赴くに当たって「東風吹かば」のこの歌を詠んだ。

 道真は太宰権帥として太宰府に幽閉されるごとくあって、二年後その地で亡くなった。享年五十九歳。道真の死後、都では異変が起こり、まず、讒訴した時平(三十九歳)が亡くなり、左遷の宣旨を出した醍醐天皇と皇太子も相次いでこの世を去り、当時の人々は道真の霊の祟りであるとしてこれを恐れ、京都・北野の地に祠を建てて道真の霊を祀った。これが北野天満宮(京都市上京区)の始まりと言われ、道真は怨霊の神として祀り上げられることになった。

             

 当時は専ら怨霊鎮めの意をもってあったが、学問に秀でた道真だったため後世の人々は学問の神として崇めるようになった。昨今では受験生の参拝者が多く見られるパワースポット的な神社に至っている。天満宮では道真が愛好したウメに因んで、神紋に梅花紋を用い、境内には多くのウメの木が植えられている。

 北野天満宮と太宰府天満宮を総本社に天満天神社は全国津々浦々に、小さな祠を含めれば、数えきれない数に及ぶところ、神になった道真は「天神さん」の愛称で親しまれ、怨霊を超えて広く崇められるようになって今に至っているという次第である。

 この怨霊神の精神(思想)は道真に始まったわけではなく、『古事記』の神話にして既に見える。天界を追われた荒ぶる神、須佐之男命がまさに怨霊神の初源で、須佐之男命を祀る京都・八坂神社の真夏の祭礼、祇園祭りがそれをよく物語っている。

 祭りは命の霊によって起きるとされる祟りの禍(災害)がなく、平穏に過ごせることを祈願して民衆(町衆)の主催により行われるもので、命の霊を慰める鎮魂の意によっている。ほかにも日本の歴史上には大小雑多な怨霊の話が数多あり、このような死者の霊魂に関わる思想は災害の多い自然環境の国柄と相まって日本の精神文化の一端として捉えることが出来る。

 稔るウメの実を見ながら、「東風吹かば」の道真が思われ、怨霊神における日本の精神文化にまで思いが及んだ。冒頭の句にはこの意を込めたつもりである。なお、太宰府天満宮の拝殿前庭に見られる飛梅は道真を慕って京から飛んで来たという謂われにあるが、いつの時代にか道真フアンがそういう話の設定により持ち来たったのであろうと想像される。そう解釈してもこの飛梅の景観は麗しい。

  梅の実や日本カルチャー天神さん

 蛇足かも知れないが、ウメの実には堅い核があり、核の中には有毒物質が含まれているので「梅を食うとも核食うな、中に天神寝てござる」という諺がある。ここにも道真の天神さんが見えるわけであるが、天神は核の中で未来に希望を持って存在する種子に重なる。有毒で手出しの出来ないようになっているのはその種子を守るためであろう。 写真は枝木で熟し始めたウメの実。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年06月09日 | 創作

<3794> 写俳二百句(138) 茅 花

             茅花咲くあなたこひたる青春期

                

 茅花(つばな)はチガヤ(茅)の花。チガヤは万葉の昔から歌などに読まれ、よく知られるイネ科の植物で、草丈は60センチ前後。日当たりのよい草原などに群生し、5月から6月ごろ一斉に白い花穂を出し、花穂が風に靡き輝く姿は印象的である。

 季語はどうも季節を先取りするところがあり、茅花は春であるが、花穂がほうけて白く輝くのは春が過ぎたころ。私の印象による気分においては初夏に属する。という次第で、且つて「風一過茅花輝きまた一過」という句を得たことがあった。

   また、私にとって茅花は青春時代を思い出させるところがあり、懐かしい。往復二時間ほど、自転車を漕いで通った高校時代の三年間の日々。茅花の季節は新学期まもない時期。憧れと不安の心模様に茅花は輝き、私には励まされるところがあった。

    銀輪の眼に茅花輝けり


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年06月07日 | 創作

<3792> 写俳二百句(137) ハナムグリ

           花潜花に汝の逞しさ

          

 クリの花が咲いた。花粉を運んでくれる虫たちを誘うフェロモンのような役目の香を放つ豊かな尾状花序のミルク色の小花の花群。蜜源植物で知られるクリの木。樹冠いっぱい溢れんばかり。その香に誘われてやって来るミツバチなどの虫たち。そんな虫たちの中に鉄の兜に鎧を纏ったような花には不似合いに見えるハナムグリがいる。

 体長1.5センチほど。長く伸び出し乱立する白い雄しべを掻き分けるように、その鉄兜のような頭をその林の中に突っ込み、厳ついバネのような肢で踏ん張って、林の奥へ奥へと進んで行く。そして、蜜の馳走に与る。その間にハナムグリは雄しべの葯に触れ、鎧兜や肢の細かな毛に花粉をつけ、雌しべへと運ぶ。まことにうまい仕組みに出来ている。

   花潜汝の生涯花潜り

 ハナムグリは花に似合わない姿の持主だが、クリの花にはありがたい存在。この有効な互いの機能の持ちつ持たれつの関係性、どちらが先に歩み寄ったのか。否、どちらが先などということではなく、阿吽の呼吸ということなのだろう。ハナムグリの逞しさは、自らにではなく、迎え入れてくれる花への逞しさであり、頼り甲斐の逞しさである。 写真はクリの花に向かうハナムグリ。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月30日 | 創作

<3784> 作歌ノート  雑纂 回顧

                宴会果てひとり家路に向かふとき定家の一首月影よりぞ    宴会(うたげ)

 酒も飲めず、話もまずく、唄などもうたう気になれず、どうも、宴会というやつは好きになれない。けれども、付き合いとあれば、仕方なく出る。そんな宴会が果てて家路に向かうとき、何と言ったらいいか、解放感がある。その解放感の中で、不思議にいつも現れ出て来るのが王朝末期中世の歌人藤原定家である。

 定家はなぜか「私も飲めなかった。宴席ではいつも片隅でひとりちびりちびりやっていた」と私に話しかけて来る。処世に長けた連中の傍らにあって、「いつも孤独であった」と。私はそんな定家を想起し、「歌に没入する姿も、後に後鳥羽院と袂を分かつに至ったこともよくわかる」と応え返すのであった。

 世渡り下手であることと歌に没入する姿とは気脈の通じるところがある。世渡り下手であるという資質ゆえに、後の世までも歌詠みの名手としてその名を残すことが出来たのではないか。その資質は処世においてマイナスであったかも知れないが、歌人としての人生にはプラスに働いた。

                                                         

 日記『明月記』の治承四年(一一八〇年)、十九歳、九月の条の「紅旗征戎ハ吾ガ事二非ズ」の記事には、実生活における強がりとも思えるようなところなきにしもあらず。で、その感も拭い切れないが、この言い据えた決意のような文言には、若い定家の歌に対する思い入れ、意欲のようなものが感じられ、時代背景とともに、彼の評価に繋がっている。しかし、これは定家の資質を言うものにほかならず、私は歌人定家を思い巡らすとき、いつもこの十九歳のときの日記の記述に思いが巡る。

 晴れもせず、曇りも果てぬ朧な今宵。ことのほかの月ではある。宴席は末座が常であった。その宴席の後の解放感も手伝って気分は上々。少し遠回りをしてこの月の情緒を味わいながら帰ろう。そう決めて脇道に逸れたとき、ふと、次の一首が思い浮かんだ。

  大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月                                         藤原定家

 冴え渡る秋の月もよいけれど、朧に霞む春の月もまた秋の月に劣らない。「梅のにほひにかすみつつ」「くもりもはてぬ」と、眺める春の夜の月は、定家とともにあって、魅了した。写真はイメージで、少し朧な印象の春の月。

  春の月宴会の後の帰る道おぼろなりしが我が歩の頭上       宴会(うたげ)

  朧夜のおぼろの月のおぼろなる一睡の夢ほどの温もり