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大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月10日 | 創作

<3764> 写俳二百句(130) 立夏の大和地方

             眩しくも仰ぐ五月や平和主義

            

 見るにつけ、聞くにつけ、このところ内外のニュースに暗いものがつき纏う。新型コロナウイルスに掻きまわされ、鬱陶しい日々を強いられ、地域によっては自然災害もあった。この二、三年。そして、現在。国外で言えば、ロシアのウクライナへの軍事侵攻が始まって二ヵ月が過ぎ、もっぱらその理不尽な侵攻によるウクライナの悲惨なニュースが連日である。侵攻は、なお止む兆しはなく、悲劇の拡大を強いるかに見える。

 五月は日本国憲法の制定された記念日の月。戦後に出来た不戦を誓う平和憲法であるが、その不戦の意志も弱るようなロシアのウクライナへの軍事侵攻である。情けないことに、こういう理不尽極まりない暴挙に平和憲法の不戦の誓いは危くも揺らぐ雰囲気。だが、揺らいでも、憲法の理念は大切。であれば、憲法の意志は通さなくてはならない。という思いにより、冒頭の句を得た。

   旅に出ず窓より五月晴の庭

 国内に目を転ずれば、知床の観光船の事故のニュースが連日である。二十六人を乗せて沈没した船は海底深くで見つかったが、なお、見つからない乗船者十二人の捜索が続き、沈没船の調査も行われている。その報によると、沈没の原因は杜撰な業者の運営が大きく関わっているようで、人災の趣が強く感じられる。

 また、山梨県道志村における女児の行方不明に新たな展開が報じられ、人体の骨の一部や靴などの遺物が見つかったということで、女児との関係性も含め、その鑑定が急がれている。この二ユースも再び騒がれるに及び、今になって何故という不可解さ。警察には解明してもらいたいものである。そんなこんなで、コロナ禍にもあり、自重している老齢の身。で、上の句。

   立夏過ぐ概ね平和奈良大和

 これらのニュースを思うに、ウクライナの戦況も、観光船の沈没事故の状況も、はたまた女児の行方不明の件も、人の関わる状況において起き、一旦起きると取り返しのつかないことになることを物語っている。そんなことを意識しながら住まいする奈良盆地の大和平野を見渡していると、この句が浮かんで来た。

 概ね平和とは、意識無意識を問わず、日ごろからそれぞれの責任において気を遣い、努力しているからに違いないとそんな風にも思えてくる。言ってみれば、上の句は安堵の意識から生まれたもの。平穏な日常、これが何よりということ。 写真は青垣の山並に囲まれた初夏の大和平野の一景。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月08日 | 創作

<3762> 作歌ノート  雑纂 回顧

              山のごとありて売らるるカーネーション誰にも母のある意の証

 五月の第二日曜日は母の日である。この日が近づくと花売場には色とりどりのカーネーションが並ぶ。その花の赤やピンクなどの彩りを見ていると、母の存在が誰の上にもあることが思われる。そして、六月の第三日曜日は父の日である。父の日には黄色いバラの花が贈られる。母と同様、誰においても父は存在する。父と母がいるからこの世に自分は存在している。犬や猫にも父や母がいて、それゆえにその犬や猫がいるわけである。山のごとくに売られているカーネーションを見ながらふとそんなことを思った。

 イエス・キリストは処女マリヤから生まれた神の子とされている。しかし、これは想像、つまり、精神世界のことであり、宗教上の想いにほかならない。『新約聖書』の「マタイによる福音書」にはイエスの系譜が長々と述べられているが、神の子の言いからすれば、矛盾を孕んでいると言わざるを得ない。この世にある人にはみな父と母がいる。その父と母は男と女である。この事実は何人たりとも曲げ得ない。

   そして、遙か昔からこうして生き継ぎ、生き継ぎして今にあり、自分という存在がある。思うに、これは凄いことである。系譜を十代遡れば、その間に父と母が何人いることになるか。その中の一人でも欠けていたら私という身命の存在はない。そういうことで言えば、命を引き継ぎ、今ここに生を得ている私という存在は凄い存在だということになる。

                                                                  

 カーネーションは南ヨーロッパ原産のナデシコ科の多年草で、花はローマ時代花冠に用いられ、その名は神の花冠という意味で、神話に因むと一説は伝えている。ヨーロッパでは今日でもボタン穴に差して飾る花として尊ばれている。

 この花冠の花カーネーションが母の日に結びついたのは、一九〇七年、アメリカにおいてクリスチャンのアンナ・ジェービスという少女が母の命日に白いカーネーションの花束を持って教会を訪れ、参列していた人々にその花を贈ったのがきっかけになったと言われる。それ以来、母が健在の人は赤いカーネーション、亡くなっている人は白いカーネーションを胸に飾る習慣が生まれたという。

 後にアメリカで「やさしいあなたの母に捧げる祝日」として母の日が設けられ、世界に発信して広まった。カーネーションはその祝日とともに母の日のプレゼントに添えられる花として欠かせないものになった。穢れなく慈しみ深い母という存在にカーネーションはよく似合う花で、世界的に人気を博し、いつの間にか切り花の王者として君臨するようになった。

 カーネーションの花言葉は「傷心」で、アンナ・ジェービスの逸話にぴったりだが、この文章を書きながら私も今年、五十三歳にして母を亡くしたことに思いが巡った。母は享年八十五歳。まずまずの人生だったのではなかったか。 写真はイメージで、赤いカーネーション(左)と黄色のバラ(右)。

  父母に父母その父母に父母のその系譜その先端に今なる我ら

  父母未生祖父母未生のそのはるか昔がありて我が身命はある

  父に父母母に父母あるその系譜いまここにしてありける我も


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月04日 | 創作

<3758> 写俳二百句(129) 桐の花

               桐の花少子高齢化の日本

                     

 桐の花の季節。花は初夏の季語である。ここでいう桐は中国原産とされるゴマノハグサ科の落葉高木で、成長が早く、高さ10メートル、幹の直径90センチほどになる。樹皮が緑色を帯びる青桐に対し、白桐と呼ばれ、よく知られる普通の桐である。花は今の時期が盛りで、葉に先駆け、芳香のある淡紫色の筒状唇形の花を円錐状に多数つける。

 大きい葉は花後に開出し、枯れて散る姿が古歌や俳句によく詠まれ、葉の方は秋の季語になっている。材は白く、木目が美しいうえ、耐湿、耐寒性に富み、軟らかく軽いので箪笥などの高級家具や琴などの楽器に重宝されている。昔は女子が誕生すると桐を植え、嫁入りのときそれで箪笥を作り、持たせる習わしがあった。

   この話は婚姻に人生を託していた大家族の家付き婚の時代を物語るが、少子高齢化の今の時代には、遠い昔話になってしまった感。しかし、桐の花は今も時を違わず、初夏のこの時期になると樹冠一杯に淡紫色のその花を見せる。

 なお、桐紋は日本を代表する高貴な紋章として知られ、「五七の桐」は皇室紋の一つで、パスポートの地紋にも使われている。一般には「五三の桐」が汎用され、豊臣秀吉が用いた五三の桐の「太閤紋」はよく知られる。 写真は花盛りの桐。では、今一句。

   桐の花仰ぐ目線の高さかな


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年05月03日 | 創作

<3757> 作歌ノート 瞑目の軌跡(十五)

               恋モセヨ論モ尽クセヨ太陽ノ五月ワタクシタチハミナ青二才       太陽(ひ)

                           

                         「五月晴の日に」

                           私たち天の下なる青二才

         何をやってもかまわない。

         五月の太陽その下で、

         どんなにやってもかまわない

         愛恋悲恋かまわない。

         実って結構

         破れて結構

         かまわない

         大の大人がなどとは言わぬ

         論陣張ってもかまわない

         稚拙結構

         老獪結構

         厳格結構

         優柔結構

         やりなさい

         どんなにやっても青二才

         どんなに言っても青二才

         さあどこまでもやりなさい

         ただ迷惑は困るので

         そこのところは心得て

         しっかり考えやりなさい

         自由に何でもやりなさい

         一人で結構

         仲間で結構

         海山結構

         内外結構

         都会も結構

         田舎も結構

         やりなさい

         仕事も結構

         遊びも結構

         やりなさい

         結構結構

         結構尽くしで

                          大いに結構

         やりなさい

         どんなにやっても青二才

         どんなに言っても青二才

         私たちみな青二才

         天の下なる青二才

               五月の太陽ワッハッハ

 私たちは如何にあってもこの陽光の下にして生を得て展開している存在である。そして、この陽光と自らの生を考えるとき、生あるものは何処にあってもみな青二才であると思えてくる。  今日三日は憲法記念日。 写真はイメージで、頭上に輝く太陽。

 


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2022年04月29日 | 創作

<3753> 余聞 余話 「池中棒杭風景譚」

   池の面棒杭一つ立ってゐる日々刻々の時に慰撫され

     立ち尽くしゐたる棒杭ただ黙し黙しながらにありあるその意

    朽ち欠けの棒杭一つ抗ふや抗はざるや水面の姿

    棒杭は如何なるゆゑに立ちゐるや水面の孤影黙して已まず

    四季の色映す水面に立ち尽くす棒杭に春夏秋冬の楽

    翡翠を留まらせ華やぎたることも棒杭の役得かも知れぬ

    鴨の群去りたる春の池の面棒杭変はらず孤影を映し

    棒杭は一途に立てるかくは見ゆ一途が役目なるを思はせ

    池の面今日も棒杭立ちゐたる周りの景に関はりながら

    もしかして神の依り代かも知れぬまさに棒杭よりの想念

    棒杭は池の点景常ながら意識に触れて見ゆる存在

             

 池の中に立っている棒杭。よく見かける。ときには朽ちかけて、その経緯を語るかのように見える棒杭もある。何故か、不思議にもその棒杭を見ていると色んなことが思い起こされて来る。四季などによって辺りの風景が変わっても、その風景に沿い従って移ろい、調和してゆく。しかし、その姿は微動も見せず、池の中に立っている。「一途」とか「一徹」とか「辛抱」とか、そういう言葉の実感がその姿には見て取れるところがある。

棒杭の元を質せば、何かの目的によって立てられた仕様のものであろうことは容易に察せられる。そして、今もその仕様の役目を果たしているのかも知れない。きっとそうに違いない。しかし、その姿は忘れ去られた無用の存在にして立っているようなところもある。という次第で、池の中に立つ棒杭には何となく切ないようなものが絡み、意識されて来る。そして、思いは尽きず、神をも想像させる。 写真は翡翠を止まらせた棒杭(左)と水面の波形の中に立つ朽ちかけの棒杭(右)。