<3764> 写俳二百句(130) 立夏の大和地方
眩しくも仰ぐ五月や平和主義
見るにつけ、聞くにつけ、このところ内外のニュースに暗いものがつき纏う。新型コロナウイルスに掻きまわされ、鬱陶しい日々を強いられ、地域によっては自然災害もあった。この二、三年。そして、現在。国外で言えば、ロシアのウクライナへの軍事侵攻が始まって二ヵ月が過ぎ、もっぱらその理不尽な侵攻によるウクライナの悲惨なニュースが連日である。侵攻は、なお止む兆しはなく、悲劇の拡大を強いるかに見える。
五月は日本国憲法の制定された記念日の月。戦後に出来た不戦を誓う平和憲法であるが、その不戦の意志も弱るようなロシアのウクライナへの軍事侵攻である。情けないことに、こういう理不尽極まりない暴挙に平和憲法の不戦の誓いは危くも揺らぐ雰囲気。だが、揺らいでも、憲法の理念は大切。であれば、憲法の意志は通さなくてはならない。という思いにより、冒頭の句を得た。
旅に出ず窓より五月晴の庭
国内に目を転ずれば、知床の観光船の事故のニュースが連日である。二十六人を乗せて沈没した船は海底深くで見つかったが、なお、見つからない乗船者十二人の捜索が続き、沈没船の調査も行われている。その報によると、沈没の原因は杜撰な業者の運営が大きく関わっているようで、人災の趣が強く感じられる。
また、山梨県道志村における女児の行方不明に新たな展開が報じられ、人体の骨の一部や靴などの遺物が見つかったということで、女児との関係性も含め、その鑑定が急がれている。この二ユースも再び騒がれるに及び、今になって何故という不可解さ。警察には解明してもらいたいものである。そんなこんなで、コロナ禍にもあり、自重している老齢の身。で、上の句。
立夏過ぐ概ね平和奈良大和
これらのニュースを思うに、ウクライナの戦況も、観光船の沈没事故の状況も、はたまた女児の行方不明の件も、人の関わる状況において起き、一旦起きると取り返しのつかないことになることを物語っている。そんなことを意識しながら住まいする奈良盆地の大和平野を見渡していると、この句が浮かんで来た。
概ね平和とは、意識無意識を問わず、日ごろからそれぞれの責任において気を遣い、努力しているからに違いないとそんな風にも思えてくる。言ってみれば、上の句は安堵の意識から生まれたもの。平穏な日常、これが何よりということ。 写真は青垣の山並に囲まれた初夏の大和平野の一景。