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大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年07月08日 | 創作

<3823> 写俳二百句(146) 逆立ちするトンボ

           蜻蛉よく逆立ちしてるなぜだらう

        

 池の縁や湿地ではよくトンボを見かける。大形のヤンマの類から小形に属するアカトンボの類まで。この間からヤンマの仲間のウチワヤンマが枯れたアシの茎の先を居場所にしているのを池の端で見かけた。余ほど居心地がよいようで、ほかのシオカラトンボやチョウトンボいその場所を譲ろうとする気配がなく、鉢合わせするようなことがあると追っ払う。

 そして、その枯れアシの先に大方は水面に対し水平にして止まる。ところが、ときに逆立ちするように尻尾を天に向けて止まることがある。この傾向はアカトンボにも見られるが、なぜあのような態勢になるのだろう。思うに居心地、もしくは警戒心によるか。 写真は枯れたアシの茎に止まるウチワヤンマ。水平タイプ(左)と逆立ちタイプ(右)。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年07月01日 | 創作

<3816> 写俳二百句(144) 炎暑の庭

            妻は留守炎暑の庭は耐へてゐる

                  

 梅雨明け以来連日の猛暑。今日より七月だが、午前五時前に日の出を見た奈良盆地の大和地方では朝から照りつけている。いつもはラジオがつけっ放しになっているが、ラジオ愛好家の妻が留守で、静かである。掃除機をかけて庭を眺めると、連日の暑さに耐えている様子が見られる。これも生の一端。

 我が家の庭は半分を花壇、残りの半分を菜園のようにして、夏はトマト、ナス、ピーマン、オクラなどを植え、これからが収穫期である。これらはみな日照りに強いが、このところの強烈な照りつけには耐え忍んでいるといった様子である。

 「ナスには水をたっぷりやって」、「トマトにはやらないで」と妻からの指示。アジサイの花期が終わって繁る葉っぱが暑苦しさを助長して来たので、はみ出し分を切り揃えたのであったが、いい加減に切らないでとクギを指される始末。どうしても花の後がむさ苦しくなる。その上の猛暑。潤いがなくなって、絶え絶えに見え、以心伝心、気分にも障ってくる。

 妻の留守。静かは静かながら何か落ち着かない。この連日の暑さは自分の身にも及ぶところ。今朝も早くに救急車の音を連続して聞いた。自分の身にも及ぶかも知れない。いよいよその季節の到来。と記しているときもまた、救急車のピーポーの音。 写真は強い日差しを受ける庭の一角(左)と庭のトマト畑(右)。


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2022年06月27日 | 創作

<3812> 作歌ノート  雑纂 回顧 

              青春が求めし精神鉛筆で付せし傍線部分の活字        精神(こころ)

     心よりいず、願わくば再び心に至らんことを。

     これこそそうだ、見つかった。歓喜。 

                 『ベートーヴエ ン音楽ノート』(小松雄一郎訳)

 これらの短い言葉はベートーヴエ ンの心の持ちよう、生活態度から発せられた言葉であり、その言葉には何か脈絡が感じられる。もちろん、これらの言葉は、ベートーヴエ ンだからこそ説得力を持つものであることは誰もが認めるところだろう。私はこの音楽ノートをいつ読んだか、定かに覚えていないが、青春時代の賜物であったような気がする。音楽ノートの珠玉の言葉に出会うと、言葉の力は心(魂)の力だと感じる。そして、記憶に残しておきたい言葉や文章の部分に鉛筆で傍線を引き、忘れまいとした遠い昔があったことを思い起こす。その傍線を辿ってまた読み返してみると、青春時代の感銘が心の奥から蘇って来る。

                    

  藤村の『破戒』『新生』『夜明け前』感銘の二字青春にあり

  絶望の二字懐かしき屋根裏に居場所ありけり金糸雀の唄

  抒情詩にこもりゐたりし青春期屋根裏部屋の金糸雀の唄

 島崎藤村の『破戒』、『新生』、『夜明け前』。二十歳前後のころ、夢中になって読み、心を揺さぶられた。少し青臭さの見える「絶望」の二字はこれも若さの心持ちと言えよう。「唄を忘れた金糸雀は 後ろの山に棄てましょか いえ いえ それはなりませぬ」。この何かやるせないような気持ちにさせる歌詞には心に響くものがある。母屋の屋根裏部屋は私にとってまさに青春時代の城であり、居場所であった。私はこのころから短歌にあこがれ、もっぱら石川啄木であった。

 この三首も冒頭の一首と同じく青春時代を振り返って詠んだものであるが、そのころは受験勉強もままならず、不安に付き纏われ、ときには青臭い絶望の思いも抱いたのであった。しかし、向学心に燃え、心の不安定はあったけれど、憧れも人一倍であったようで、何とか乗り切れた。そんな不安と憧れの入りまじった青春時代は、私にとって純粋さの時代でもあった。

 言葉ではなかなか言い表せないが、感性の瑞々しさと純粋さ、幼さと言ってもよいだろう、そういう時代に読んだ書物の感銘は格別で忘れある。誰かが言っているように、本はなるべく若いうちに沢山読んでおくべきである、と、いまさらながら思うことではある。  写真は岩波文庫本『ベートーヴェン音楽ノート』(右)と傍線部分(左)。

 


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2022年06月21日 | 創作

<3806> 写俳二百句(142) 雨 月

           雨月の身努力しかなし努力せよ

                     

 コロナ禍の影響で財政に逼迫を来した法隆寺が世間一般にその資金を募るクラウドファンディングの実施を試み、発表した。その後、わずか半日で目標額の2000万円に達し、話題になっている。この試みは来月29日まで続けられるという。

 つくり、生み出した価値あるものは保持し継続して行かねばならない。そして、それにはそれなりの知恵と努力が必要で、世界最古の木造建築物で知られ、貴重な仏像なども保存されている世界遺産の法隆寺も創建以来ずっとそれなりの知恵と努力に支えられ、今にあるということが出来る。そして、これからも、ということであろう。

 写真は雨月の法隆寺。眼前の風景を守るには知恵と努力の継続がなくてはならない。


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2022年06月18日 | 創作

<3802> 写俳二百句(141) ヘビイチゴ

              蛇苺葉っぱ見る癖いつからか

           

 自選による池田澄子100句の「自句自解」の中に「蛇苺いつも葉っぱを見忘れる」という句が見える。この句を目にしたときはっとした。というのは、私のヘビイチゴに対する見方が花や実もさることながら葉を必ず見るという癖があるからで、この句によってこの無意識とも思える癖に気づかされたからである。ということで、冒頭に掲げた句が生まれたという次第である。

 では、この癖は何故、そして、いつごろからかとなるが、思うにそれは山野の草木の花に魅せられ、出かけて写真を撮るようになってからである。草木にはよく似た紛らわしいものがあって間違いやすい。で、観察をより正確にしなければならず、葉にも目を向けるようになったことによる。もちろんヘビイチゴだけではないが、ヘビイチゴでは葉を見ることが癖のごとく普通になった。

 なお、ヘビイチゴと名のつくものには、ほかにもヤブヘビイチゴ、ヒメヘビイチゴ、オヘビイチゴが一般によく知られる。加えて、ヘビイチゴによく似て紛らわしいものにキジムシロとミツバツチグリがある。ヘビイチゴとヤブヘビイチゴはヘビイチゴ属の仲間であるが、ヒメヘビイチゴとオヘビイチゴはキジムシロ属で、キジムシロやミツバツチグリの仲間である。ということは、その名に「ヘビイチゴ」とあるが、ヒメヘビイチゴとオヘビイチゴはヘビイチゴとは別種であるということになる。

 これらはみな黄色の花と赤い実をつけ、花や実だけでは見分けがつき難い。そこで違いのある葉や花に付随する萼なども加えて見分けるということになる。そして、ここにはヘビイチゴの認識において悩ましい問題が生じて来る。文芸の分野では許容されるが、植物研究における観察の立場では許容出来ないという差異が生じることである。

   因みに自解では「一度、摘んでみたいと思いながら実行できていない蛇苺。草叢に赤い実はよく目立つから見ない年はないと言ってよさそう。可愛いなあといつも思って通り過ぎる。ある日ふと、葉っぱを意識したことがなかったこと気付いた。人間の注意力はこんな程度らしい。殆どのモノやコトに気付いていないことにさへ気が付いていないのである。そのことを一句に留めるために、蛇苺の葉に代表になってもらったわけだ」と述べられている。

   これは自分が普段如何に注意深さに欠け、物事を意識にかけず見過ごしているかをヘビイチゴの葉っぱをもって句の中に忍ばせているということになる。何か哲学的で、この自解を読んだとき、「ものを認識するには自己の方になにかがなければならぬ。なにかがあるから、むこう側のなにかが分かるのである」という梅原猛の『古典の発見』の言葉が思い出されたのであった。

   「なにか」は注意深く見過ごさずにものごとに対し、意識するということの積み重ねによって得ることが出来る。感性だって同じことだろう。ということなどが思い巡らされたのであった。 写真は左から花期のヘビイチゴ、オヘビイチゴ、キジムシロ、ミツバツチグリ。みな春の花で、花だけでは見分けが難しい。しかし、花に葉を加えて見比べると案外簡単に見分けられる。自解の句にヘビイチゴの葉を持ち出しているところは、ヘビイチゴにこういう紛らわしく悩ましい問題のあることを本人は熟知していたのだと思われる。