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大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年01月05日 | 創作

<855> 箴 言

         また一つ齢(よはひ)を加へゐるところ過誤を撃つべき力欲(ほ)りつつ

 埴谷雄高は『死霊』の中で次のように言っている。「真暗な地底に蹲っているちっちゃな傴僂の魔物である地霊は秘密の宝物を守りながら、暗闇を覗きこもうとする地表の探索者たちの動作の子細を永劫におし黙った奇怪な顔つきで眺めあげているが、そこに眺められるものこそ過誤の万華鏡なのである」と。

  私たち耳目を持ち、見聞の内に思う身は、その耳目が万能でなく、その見聞がいかに不完全であるか、日々の端々において思い知らされ、その不完全から生じる過誤によって日夜悩むのである。この世の見聞すらかくのごとき私たちにとって、まして、地底の闇の存在はその本然の姿を見せないゆえ、それを覗き込むものの思いは過誤に寄ってあり、過誤を指摘されて已まない。しかし、地霊は私たちの過誤が真剣に生きることの証にほかならないことをよく承知しているので、奇怪な顔付きをしながらも、多少憐れみをもって眺め上げているのに違いない。

                      

  このような私たちの生ゆえにイエスの荊の冠などもあり、比喩をもって見られるのである。年を取り、齢を重ね、思うことの多い日々において、私たちに見え、されども見えざるところのもの。例えば、イエスの荊の冠。この冠を如何に見、如何に聞き、如何に認識するか。過誤にまみれながら、なおも行き、なおも思わねばならない身は、あるは知識に縋り、あるは理解力を頼みとする。ゆえに知識を加え、理解力を鍛えて行かなければならないが、それを思うにつけ、私たちの知識も理解力も過誤を撃つにはあまりにも微力であり、情けなく、惨憺としてあることを知る。しかし、悩みつつも怠らず、見、聞き、思う。そして、そこにこそ私たちが私たちとしてあることを思う。私はいま七十歳。 写真は冬雲(イメージ)。

    虚位虚名虚美虚詞虚飾虚華虚栄 虚虚虚虚虚虚の虚虚の彩

  全能にあらざるものの証明の人間まさに我の懐疑よ

  理解力及ばざるまま来し思ひ 青葉の香(かほり)この上もなく

    何処にか生(あ)れし冬雲 何処へか何処へか我が心の行方

  地にありて天に憧れゐるものの我ら即ち恋ふるものなり


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月26日 | 創作

<815> 幻想短歌 「若狭恋歌」 (2)     ~<814>よりの続き~

        まさるとも劣らぬものを名に負へる美しきかな白百合の花

  彼女はこのころから夫と同じ肺の病に罹り、学業半ばにして退学を余儀なくされた。その後、姉の嫁ぎ先の京都で療養につとめたが、父の危篤の報により故郷に帰った。間もなく父が亡くなると、その父を追うように彼女も病を悪化させ、「わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく」の歌などを『明星』に発表し、その一年後の春、二十九年の短い生涯を閉じたのであった。「髪ながき少女とうまれしろ百合に額(ぬか)を伏せつつ君をこそ思へ」(『恋衣』)と詠んだように、白百合の花に愛着を示した。では、彼女、山川登美子に寄せて詠んだ「若狭恋歌」一連の歌を披露したいと思う。  写真はイメージ。

                                                

  陽に漱ぐ若狭より来し君ゆゑに 心とはなる我が身なりけり

  宵山の人の流れの藍深き中に紛れて恋歌一首

  扇より零れし笑みを夏病の眼のうちに掬ひしは恋

  もみぢ葉の音楽堂へ続く道 往き往きて我が恋歌の道

  具象派も抽象派もみな君の目のやさしさに逢ひ伴はれゆく

  理不尽に君を誘ふ一行は自負の言葉を点睛に置く

  男ゆゑかくは歌はじ されど恋 されど恋歌 切なくぞある

  如月の月下を奔る馬の目の水晶宮をともに歩まむ

  旅を来しものの眼に映るもの 今宵の灯火は春を点せり

  一枚の切符を求む 行き先きは君の歌冠のふるさと若狭

  恋の子が恋に寄せたる恋の歌 おぼろ月夜の花の下道

  君の歌 光の中に見えしとき 心に点す若狭なりけり

  ひとひらの花に始まる繚乱を君に贈らむ 若狭恋歌

  恋ひ恋ひて恋に死すてふ恋のあり 花野の君の手枕の中

  記し置きし約束のメモ雨に濡れ 菖蒲の色に滲みつつあり  

  寄する恋 寄せては返す波に寄せ 思ひははるか夢路の若狭

  随身の一睡の夢 その夢の花にもの問ふ恋もあるかな

  清水へ祇園をよぎることなども されど今宵の君は美し

  アカシアの花咲くころのボ-ト祭 恋よまされと水辺の光

  愚かなる恋と言ひやるものもあれ さはれ言葉の中なる翼

  我が机上のそのわづかなるスペ-スに込めて生まれし恋歌一首      

  霧深き山に向かひて入りし鷺、鷺のすがたはすなはち君の

  おもふ身のこれやこの身の燃ゆるべく 篝が闇を焦がす火祭

  紫陽花の花に寄り寄る恋の言ひ 赤き雨傘一つ行かしむ

  ひとすぢの紅ひくはるかなる若狭 いまひとたびの歌も恋歌

  雪降らば閉ざさるる国ゆゑにして 若狭は春の陽を恋ふる国

  春が来て若狭の国を訪ふこころ 眺めのうちに君を置きて

  少女子のそこにありける君ゆゑに しぐるる海も鴫立つ磯も

  余呉の湖あたりか知らず夜の闇 ひとり向かへる若狭なりけり

  吹雪きしがこころ温めゐる恋の若狭なりけり恋しき若狭

  降り積もる雪になかばを埋めながら薄紅梅のほのかなる紅 

  遙かなる星の光に触れてゐる寒林の闇の中の目頭

  あの虹の色に加ふるものあらば 夢の移り香とこそ言はめ

  緋連雀 悲恋啄む夢にゐて 君の移り香かすかなるかも

  若狭とは 恋恋恋の 恋の果て 果て果て果ての白百合の花

  「遠敷郡」(をにゅうぐん)ああ麗しき語感かな 春を告げ来る遠敷明神

  一首得てもって加へて言ひやるに すなはち恋の若狭なりけり

  身は心を入れてありけり 我が身には心に永久の白百合の花

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年06月22日 | 創作

<659> 掌編 「花にまつわる十二の手紙」 (11) 合歓木 (ねむのき)     ~<658>よりの続き~

      合歓の花 薄暮どきのほのかなる 思ひのそれや 今に至れる

 もうすぐ祇園祭りですが、見物を兼ねて、一度会っていただけたらと思い、手紙を認めている次第です。あなたのことはお母上から多少うかがっています。「いい人がいたらお願いしますね」と言われたりしていますので、私の話をお聞きになったらびっくりして反対されるかも知れません。初婚のあなたを思うと、なおさらのことで、私の言っていることは無茶苦茶かも知れません。それはよくわかっています。

  駄目なら駄目でいいという思いです。いい歳をして勝手なことをと言われても仕方のないことです。しかし、この思いは、あなたのほかに、誰に打ち明けることも出来ません。ですので、ここにこうして告白している次第です。私にとって、あのときのあなたがあなたの全てです。ほかに求めるべきものは何もありません。あのときのあなただけです。

                                    

 それにしても、再婚というのは、単純には行きません。世間体などはどうでもいいようなものですが、家の中がうまく行くかどうか、このこと一つに、二人だけでなく、周囲をも巻き込んで考えさせられます。私は、私が全てを背負って行けばいいと思っていますが、あなただって、私と結婚するとなれば、自分が全てを心に納めて行けばいいと、そう思われるでしょうし、子供たちは子供たちで、それなりに考えを巡らせることになるでしょう。

  しかし、いくら考えても、先のことはわからないのですから、今を見る意外にありません。その今のあなたが私には全てです。人間そんなに変わるものじゃあないと、私は思っています。あのときのあなたは、誰を意識するでもなく、とても自然に感じられました。だから、私はあのときのあなたがあなたの全てだと思っています。全てがおかしいと思われるなら、全てに通じると言えます。

 小さいものたちもよくわかっているはずです。しょっちゅう会っていなくても、わかるものにはわかるものです。子犬のようにじゃれついていた二人の姿が何よりの証です。あなたの年齢については、亡き妻に近く、私とそれほど離れてないのが、かえってあなたを嫌な気持ちにさせはしないかと気がかりです。初婚なのに、年齢が後添えを強いるというようなことで、あなたのプライドを傷つけるのではないかということです。私にそんな考えはいささかもありません。もっとあなたと年齢が離れていても、あなたへの思いは変わらないと思います。

 亡き妻については、私の心から消えることはないでしょう。しかし、このことで、あなたを厭な思いにさせたり、煩わせるようなことはないと思います。私は、義母の味方を得て、あなたのことについて、臆病になってはいけないと思うようになりました。どうか、小さいものたち、あの子たちの母親になってはいただけないでしょうか。

 この手紙を読んで、あなたが負荷を感じ、心を重くなさるようなことのないことを願って止みません。私は祭りの日を楽しみにしています。あなたにとっても楽しみな日であることを祈るばかりです。お母さまによろしくお伝えください。あなたの気持ちをお聞きした後、あなたが私の思いを叶えてくださるなら、後日、お母さまにお会いして御挨拶したいと考えています。

 あなたの気持ち、あなたの都合がどんなものか、お聞きすることなく、一方的にお便りしているわけで、勝手気ままなことはよく承知しているつもりです。しかし、これも恋したものの心がなせるものであることをお含みおきいただければ、何よりです。

 それでは、七月十七日午前九時、天候にかかわりなく、四条河原町の高島屋の正面入口でお待ちしています。お気持ちもお聞きせず失礼とは思いますが、勝手に決めさせていただきました。ご都合が悪ければご連絡ください。長々と書いてしまいましたが、手紙の力を借りなければならない小心をお察しください。まずは、お便りまで。                                                     敬具

この手紙は四年前に妻を亡くした私大の准教授である桐生敏彦(43)から亡母の友人の娘久永芳子(39)に当てて出された結婚申し入れの手紙である。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月06日 | 創作

<551> 掌 編 「花に纏わる十二の手紙」 (9) 梨 (なし)

          高々と 咲いてゐし花 梨の花  しばし二人で仰ぎ見しなり

 拝復、お手紙拝見しました。カンボジアへ出張なさること、いろいろ大変でしょうが、頑張ってください。これから準備に忙しいことと思います。私が家にいれば、何かとお手伝い出来、仕事の方に集中してもらえるのにと思うと、じっとしていられない気持ちになります。しかし、こんな状態では何もしてあげることが出来ません。許して下さい。

  タイ国境のカンボジア難民キャンプ以来七年ぶりの取材とのこと。国連の平和維持活動も始まって、戦闘も終息に向かい、あの当時より状況はだいぶんよくなっているということですが、現地では、地雷が大量に埋められているとか、マラリアや肝炎のような感染症が侮れないとか、不安なリスク要因があるようですので、くれぐれも油断なさらないように気をつけてください。

  私の方は、ここに来て、一年半になります。あれからずっと、あなたのことを思わない日はありません。今日はどうしていらっしゃるか。食事はまともに摂れているのだろうか。そんなことを思い、あなたに不自由ばかりかけて、本当に済まない気持ちでいます。最初のころは、どうしてこんな病気に罹ったのか、流産のショックに追い討ちをかけるような成り行きに思い悩みましたが、いまは一日も早くよくなることを念じながら一日一日を過ごしています。

  先生は「ここに慣れ親しんではいけませんよ。ここから一日も早く抜け出す気持ちで療養するんですよ」と言われます。初めのころはきつい言葉に聞こえましたが、近ごろ、先生の言われることがわかるような気がして来ました。少しずつですが、病状がよくなっているからだと思います。気持ちをしっかり持って、後戻りしないよう自分に言い聞かせています。

  不思議なもので、病状がよくなって来ると、気持ちにも余裕が出来、長い手紙も書けるようになりました。近ごろは、先生にお借りしている聖書を開いて読んだりしています。あまり読み過ぎると疲れるので、ほどほどにしていますが、聖書には有意義な言葉が多く、興味を惹かれます。

                                                                    

  あなたがまたカンボジアに行かれることを知り、ふと、聖書の中の言葉が思い浮かんで来ました。「マタイによる福音書」の第七章に「求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。捜しなさい。そうすれば、見出すであろう。門をたたきなさい。そうすれば、開けてもらえるであろう。すべて求めるものは得、捜すものは見出し、門をたたくものは開けてもらえるからである」という言葉が出て来ます。その言葉が思い浮かんで来たのです。

  思いを持って願えば、神さまはきっと叶えてくださる。これが、この言葉に対する私なりの解釈です。私は、この言葉に出会って以来、一日も早くよくなって、あなたのもとへ帰えりたいと、思いを込めて毎日祈るようにしています。そして、あなたが長期出張でカンボジアに行かれることを聞き、私のこの祈りにもう一つ願いを加えなければならないと思うようになりました。あなたが仕事を果たし、カンボジアから無事に帰ることが出来ますようにという願いです。

  不思議なことに、このように思い始めた日、隣室の人に家の方から白梅が届けられ、咲き始めたその一枝を私にも分けてくださって、枕元に活けて寝たところ、あのときの夢を見たのです。とても楽しかったあのときの夢です。あれは、結婚した次の年でした。山好きのあなたに誘われて大峰山系の釈迦ケ岳をめざして登りましたね。あのときの夢です。  ~<552>に続く~


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年02月14日 | 創作

<531> いろは歌考 (2)

    生まれ来て いろはにほへとを 歩みつつ ある身この身も 歩みつつあり

                

         泉湧く春の最中の祝歌(ほぎうた)のほまれのうちに生まれ来し夢

        朗々と父が歌ひし祝歌(ほぎうた)のその後国の栄えゆきしは

        ははそはの母の歌より日月はかくも流れてここなる男児

        肉体と精神つまりこの身なる存在 一人(いちにん)この男児はも

    頬に兆すものを思ひてありしなりこの身に卯月ときめくところ

    経つつ来て我は我をし佐保神へ卯月を詣で悲願を言へり

    灯火のほのかに見ゆることのよし悲願は命のまたの言ひなり

    乳(ち)の力乳(ち)出づるもののその思ひ命は誰のものにもあらず

    繚乱の花の便りを聞きしより都七里は思ひなりけり

    ぬばたまの夜てふ夜も渡るなり花の在処(ありか)を訪ふべく人は

        縷説縷々思ひは巡るぬばたまの闇にも咲ける七里の桜

    男とは太かる棒のごとくあり闇を貫くほどの精神(こころ)ぞ

               

      わたつみは春より夏へ白妙の日傘に見えしこころの便り

        輝ける海を見し日の便りには所産の詩(うた)が告げるべくある

        装ひの街を楽しむ人の声ありて窓には夏空の詩(うた)

      たまぼこの道の長手を人とあり傘さしかけて行くこともまた

      烈日を行くことあらば渇きもて潤すほどの鳥よ飛翔を

    空といふキャンバス鳥といふ自由筆力を得て翼よ高く

    月影を得てまぼろしの木に寄れりこの世のそれや鞦韆の鳴り

    合歓の花に雨降りしきる誰かこの世の切なさを書き記しゐよ

    波に雨、雨の通ひ路濡るるなら波もろともと思ふなるべし

    濫觴の一首に聞きしことなどもこの身のゆゑと思ふなるべし

    虚しさに襲はれつつも立つ身なれかなめの言葉かくぞありける

    移ろひしこの昼つかたなる思ひかなめに一つ緋ダリアの花

    居住まひを正さむとゐて声のあり見しは一つの理なりき

    望みつつ来し旅なりきまさにして声を伴ひ夏は終はりぬ

              

    思ふ身は夏より秋へ白萩の歌にて心癒されながら

    葛の花咲きし高原越えの道ありしに思ふ身のおきどころ

    八衢に触れ合ふ袖の道なかば思ひなかばの心なりけり

    幕間にて拭ふ涙の人とゐて触れ合ふ袖の人の世と知る

    今朝(けさ)一花苦節の後に咲きしなり歩む半歩も思ひとは知る

        不可思議を歩むべくある身であれば拓きゆくべき身でもあるなり

    木下闇(不可思議)にゐて仰ぎゐるこの一塊の知識欲我

    穎脱の才を思へど木下(こした)なるひとひら影の生にほかならず

    哲学も芸術もかくありけるにひとひらごとの紅葉の映え

               

    浅からん縁に思へ紅葉の秋より冬へひとり焚く夢

    さやさやと降る夕時雨冬が来るひとりの歩速なりにけるかも

    毀誉の旅原野の夕に宿を借る悲願はいづこ我がうちになほ

        ゆゑは誰知るよしもなく枯れ原野過ぎて聴きしは潮騒の音

    目に沁みし潮の香を得て帰り来ぬ幼きものにも告げよ意(おもひ)は

    自らの来し方思へ来し方に威儀三千の意(おもひ)の歴史

    死を思へ輪廻を思へ転生を思へ三千世界を思へ

    描き得ぬわが死の相(すがた)想像のほかにあらねば一掬の水

    火に水の相剋の間(ま)の木の力ここに力量 木の力 我

    燃ゆるべく継ぎ穂の命 木を言はば木は盛んなりこの命はも

    背戸の朝春近ければ融け初むる命なりけり雪の玉水

    すでにして冬より春へその色となく眺むれば輝ける声

    京を指す思ひはなどかまさりける泉こんこん輝ける空

  以上、私が試みたいろは歌四十八首である。「京」に始まる掉尾の歌は「泉」の一字をもって、冒頭の祝歌の歌に巡る。写真は春夏秋冬の四季をイメージして添えた。  ~次回に続く~