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大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年09月18日 | 創作

<2811> 作歌ノート  見聞の記      眺  望

            眺望の一角にしてビルが建つ建てば損なふ眺望にして

 JR大阪駅の西側一帯はかつて鉄道貨物の引込み線やコンテナヤードのあるかなり広いスペースだった。そのスペースに高層ビルが建ち、その辺りの風景を一変させた。全国的な道路網の整備とトラックの大型化やスピード化による輸送体系の変革によって物流が鉄道から道路に変わり、駅の様相が一変したことと軌を一にして、この高層ビル群は生まれた。

  これは、所謂、時流の勢いたる現象の一端で、当然のことながら、高層ビルの間に立つと、以前の眺望は全くなく、高層ビルを見上げたりして人間の小ささが思われたりするが、これが都会の普通の風景として私たちの感覚に及び来るようになった。

                                   

 一昔前はどんな小さな田舎駅にも隣接して倉庫などが並び、物流の集積保管場所が確保され、乗降客とは別に、そこには、荷物の動きに伴って立ち働く人たちがいて、活気があった。倉庫に出し入れされる物を見れば、その地域の産業や特産物がわかったもので、駅は産業の立地に欠かせない重要な役目を果たしていた。その物流が鉄道からトラックに変わり、駅の貨物量は激減し、田舎駅は寂れていった。

  これは戦後における変化で、大阪駅周辺のJR跡地に建つ高層ビル群の風景もこの昭和から平成の時代的変化における現象として見られ、日ごろ何気なく接している風景の変貌ではあったが、我が国の産業構造の変革に関わる象徴的な現象の一端として捉えられる眺めではあった。

  跡地スペースの大半はオフィースや大型テナント、病院、ホテルなどのビル群となり、なお、新街区の整備が続けられ、高層ビルの建設が見込まれ、次々に高層ビル化が進められた。冒頭の歌は、この高層ビル建設による街区の変貌を象徴する現象の一面として詠んだもので、「損なう」という言葉は単に眺望のみでなく、寂れて行った田舎駅の様相をも言外に含んだつもりであった。

  例えば、「日の当たる場所が登場すると、日陰もできる」と言われる。つまり、建物が建てば、それによって日を得るところが出来れば、日陰も生まれるという次第で、発展はすべてに及ぶというわけにはなかなか行かない。悲しいかな、ときには泣きを見る人も出て来るのが世の様相である。

  日照権などはその典型だろうが、景観論争などもこの例に入る。昔は京都の町中でも五山の送り火が見られたが、今、五山の送り火を一つの場所から同時に見ることは相当高い建物の屋上にでも上がらない限り見ることは出来ない。そこで、古都京都の風情を残したいという思いによる建物の高さ制限などの規制も生まれたと聞く。

  こういう表裏の状況下、トラブルになることはよくあることで、例えば、有明海の干拓事業がある。有明海の諫早湾に潮止め堰を造り、干拓して農地を増やすという国の事業に対し、有明海を漁場(生活圏の仕事場)にしている地元漁民は、潮目が変わり、従来の漁獲が得られなくなると反対した。その反対にもかかわらず、農水省は国策の一環としてその事業を進め、その結果、裁判に持ち込まれるということになった。

  つまり、この干拓事業は農地を増やすというプラスの意向を掲げて進められたが、当然のごとく漁獲のマイナスを生じさせることになり、裁判は最高裁にまで持ち込まれ、現在、高裁に差し戻されて決着がついていない状況になっている。この問題は眺望の比ではない深刻さを孕むが、環境を損なうという意味においては同類の話であることが思われる。

  ほかにもまだ例はいくらもあろう。文明一つを見ても言える。変革によって争いの絶えない国も生まれている。私たちはどこまで行っても行き着くということがなく、その先には様相の展開を受けて模索しなければならないことが必ず生じて来る。

  ビルが建つことによって眺望が失われるというようなときに、私たちがそれに対し、いかに対処して行くか。このことは非常に大切なことであると言える。行け行けどんどんというような時代もあったが、結果として大きな負の遺産を生む結果になった例もある。そして、そこには、先を読むという賢さの欠落があったようにも思われて来たりする。

  冒頭の歌に帰れば、その後、冒頭の歌と角度を異にした歌が見られたことがあったことを加えなければならない。私の冒頭の歌と通じるその歌を紹介してこの項を終えたいと思う。歌は雑誌『短歌研究』二〇〇八年九月号に掲載された新人賞次席作品「図書館余聞」の中の一首で、私には記憶に確かな歌である。 写真はイメージで、家が建ち、風景を一変させている斑鳩の里の藤ノ木古墳周辺。

   家ひとつ取り壊されて風光は溢れる 言葉が生まれるように                        原 梓


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年09月17日 | 創作

<2810> 作歌ノート 見聞の記    風 景

      生きるとは思ひにありて風景の中に立ち居することの言ひ

 生における風景というのは何処にもあり、個々の生において連続乃至は輻輳してあるもので、誰もが接し、享受出来るように用意されているものである。それは、意識、無意識に関わらず、私たちを取り巻いて、私たち個々の精神(こころ)に及び、常に影響を及ぼして来るようになっている。

  そして、風景は、居場所を同じくする者たちにとって、共有出来るようになっている。だが、同じ風景でも個々の捉え方はそれぞれであり、微妙に違って捉えられる。だから同じ風景でも千差万別に映り、内容的には異質な風景として捉えられるということもある。仮に一景を千人が共有するとして、その一景は同じ一景ながら内実においては個々の精神(こころ)の異なりによって、それは一景ならず、千の景に変容するに及ぶ。言わば、これが風景の実情である。

                                            

  しかしながら、私たちと風景の関係は次のようにも言える。同じ風景に接している者同士にあっては、その風景に影響されることになるから、そこには同じような心情の持ち主の現れる傾向が生じる。民族論とか風土論はこの傾向を重視する。言わば、風景と精神(こころ)の密接な関りにおける一体感が人生に大きく作用し、社会に深く関係し、この世を成り立たせている。風景を環境と言い換えることも出来るかも知れない。では、風景と精神(こころ)の関りにおけ意義的歌の意識をしてまとめた幾首かをあげてみたいと思う。 写真はイメージで、耳目。

  悲喜苦楽喜怒哀楽のそのゆゑを負ひて来し身の我らならずや

  その昔(かみ)の風景にして預言者の言葉の力の時代がありき     

  自由とは己のみかはあひある世「あひみたがひ」と誰かが言へり

  「愚者求心愚者求心」と鳴く鳥が暗峠の道を案内す 

  まづはあり感じて思ふ感性のありけるところ青葉の光

  我ら個々耳目の窓に感の網掬ひて以って糧とはなせる

  千に一 仮に耳目の千あらば一景それは千の一景

     曠野とは見果てぬ夢の視野の言ひこの視野にして歩みゆくなり

  豌豆の苗に降る雪むらぎもの心にも降る雪といふべし

  悪意あり悪意によれる悪口のありこのありは人間(じんかん)にあり

  風景は我には我のつまりこの一人の我の否泰に及ぶ

  礫持て追はむとするも心なら尸(し)を鞭打つも心にあらむ

  我に我あるがごとくにつまりその生きとし生けるものにみな我

  そこにいま正義の旗を振るものら正義は何によれる正義か

  饒舌も寡黙も夢へ歩をなせば地平遙かに拓かれ行かむ

  一面に咲きたる花を喩としてのこころありけり闌の春

  散る桜見し旅そしてなほも行くなほも求むる心の景色

     ために死しために命を投げ捨つるためとは誰のための境地か

  過ぎゆけるものとしてある身の一ついづこにあれど彼岸の夢路

  聞くにつけ見るにつけまた言ふにつけ風景ありて風景の中

  及ばぬは足らざるゆゑの乏しさの己が心ほかにはあらず

  新聞を売る少年と飲み物を売る老爺との一日の旅路  

  今日もまた昨日に等しかる評価思ひの旅は此岸に暮るる

  異邦人我にも想ふ彼岸あり旅の空なる一筋の雲

  違へども彼岸を期する道のりにまた幾つかの人の声過ぐ

  源氏あり平家ありてふ昔より袖触れあへるこの世の景色

  生きゐればまた巡り来る季節あり花の季節を誰かまた述ぶ

  風景をなすものあまたあれど秋 紅葉一樹の谷のその映え

  神といふ存在かくも厳かに心の中の風景に顕つ


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月04日 | 創作

<1065> 掌 編 「祖 母」 (2)

          美しくあらねばならぬ理の その理に見ゆる関はり

  私の扁桃腺炎は学校に通うようになってからもときおり出て、その都度高熱にうなされ、一週間ほど休まなくてはならないことがあった。これは小学三年のころであるが、夏休みのお盆前のことであった。例年この時期、隣の町で港まつりが行なわれ、夜になると打ち上げ花火があった。その花火を、船を出して見に行くという話が姉の友だちからあり、子供たちはみんな行けるということになった。

 ポンポン蒸気の小型船で、岬を回われば、小一時間ほどで行くことが出来る別湾の奥に貨物船も出入りする港があり、その港の海上から花火は打ち上げられた。当時は村からの陸路がなく、その港町には、巡航船などを利用し、海路を行くしかなかった。このため、花火を見に行きたくとも、村からは交通手段がなく、行くことが出来なかった。こういう地形にあったので、村人には港まつりの打ち上げ花火に出かける者はほとんどいなかった。

  当時はこういう事情にあったので、大人やほかの子供たちも行くというので、こういう機会は滅多にないと、姉や兄も友だちを誘って行くということになった。だが、私は扁桃腺炎がよくなり切っていないということで、許しが出なかった。自分としては大丈夫という思いでいたが、帰着が夜遅くになることもあって、「病気がぶり返したらどうするのか」と言われ、結局、私だけが残ることになった。

 泣きべそまではかかなかったが、相当悔しい思いで姉や兄を見送った。そんな私を気づかうように祖母は私の肩に手を置いて、この近くでも見えるところがあるから、お父さんに連れて行ってもらったらどうかと言葉を掛けてくれた。少し海辺の方に出ると、岬へ連なる低くなった山の上に打ち上げ花火の尺玉が開く。波止場の突堤辺りまで行けば、遠いけれども見えるという。

 父にこの話を持ちかけると、まんざらでもないような返事があり、自転車で行くことになった。あまり遅くならないようにと母から釘を刺され出かけた。波止場には二十分ほどで着いたが、既に何組かの男女や家族連れが集まっていた。みんな打ち上げられる花火が目的のようだったが、中には自分で花火を持って来てやっている人たちもいて、宵の波止場は結構にぎわっていた。

                   

 日がとっぷりと暮れると、岬の低い山の連なる辺りに港まつりの打ち上げ花火があがった。暫くして、ドーンという音もした。「始まった」と言って、私は父と一緒に突堤に座ってそれを眺めた。初めての打ち上げ花火は綺麗だった。なぜ、あんなに丸く綺麗な輪になるのだろうと思った。一瞬に消えて行くのが惜しいような気もした。姉や兄のことはすっかり忘れて、山の端に次々に上がる尺玉の打ち上げ花火を父に寄り添って見た。

 私は小さいときから母と一緒に風呂に入り、ほかの誰とも一緒に入った覚えがない。五右衛門風呂で小さいこともあって、自分一人で入れるようになってからも、一人で入り、兄と一緒に入った覚えもなく、父や祖父母とも入ったことがなかった。だから、当然のこと祖母の裸の姿を見たことがなかった。母はときどき洋服も着ていたが、祖母はいつも着物を着ていたので、着物による姿しか覚えていない。その祖母が腎臓の病気が高じ、床に就くようになって、だんだん離れから姿を見せなくなった。

  そんな夏のある日、私が離れを訪れると、寝床の上に上半身裸になって祖母が座っていた。ほぼ後ろ向きだったが、病人とも思えないほどふくよかな姿で、肌の色が透き通るように白く、私ははっとした。気配を察した祖母はこちらを向いてにっこりとほほ笑んだ。着替えをしていたのだろう。手早く寝巻を着直した。私は「冷えているので早めに食べて」と皿に載せた西瓜を枕許に置いて母の言葉を伝えた。

 西瓜は腎臓によいというので、祖母は率先して食べていた。私は離れを出てからも、初めて見た祖母の背中の白い肌が眩しく思われた。祖母が肌を見せなかったのは空襲による焼夷弾に焼かれた痕があったことによるという。私にはそのとき気づかなかったが、色白だったので手首や襟元にくっきりと日焼けしたような痕が残り、それを見られたくなかったからだと、後年兄から聞いた。

  兄が中耳炎を患い、岡山の病院で手術を受け、退院のため、母に代わって祖母が迎えに行ったのであるが、間の悪いことに、その日、空襲があって、焼夷弾の降り来る中を二人は逃げ惑い、辛うじて家に辿り着いたという。これも後年、兄から聞いた。焼夷弾に焼かれた肌は、日焼けと違って、油によって焼かれるので、年月が経っても消えないでいるという。兄にその痕跡がないのは、祖母が兄をかばったからではないかと想像されるが、新陳代謝の著しい子供の兄には焼かれたけれども年月とともに元通りになったのだろうとも思われる。祖母も兄も、逃げ惑ったときの様子については少しも話さなかった。苦い経験だったのだろうと思う。

 だが、祖母は焼夷弾の怖さについて、川まで火の海になると言っていた。日本の建造物が木造であることを米軍はよく承知していたのであろう。全土を焼き尽くすべく焼夷弾が用いられたと思われる。祖母の焼かれた肌の痕跡は戦争の烙印なのか、何も罪なことなどしていないのに。祖母にはどうしようもない敗戦の戦禍であった。その烙印のように焼かれた肌の痕を祖母は誰にも見られたくなかったのである。

 私は夏になるとこの祖母のことが思い出される。今はすべて郷愁の中のことであるが、最近、祖母の享年の歳に近づき、頭髪が仏相の螺髪のように巻く癖毛が目立つようになり、祖母にも見られたと思い、幼いときの恩愛とともに祖母との関わりがこういうところにも見られると気づいたのであった。 写真はイメージで、打ち上げ花火。 ~ 了 ~

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年03月20日 | 創作

<929> 短歌の歴史的考察  (7)     ~<928>よりの続き~

       楽は虚に 楽は虚に出づ 楽は虚に 思へば歌も 楽の一端 

  栄枯盛衰は世の常で、貴族の栄華も永遠ではなく、滅びる運命を辿って行った。天皇の権威を基盤にして成り立っていた貴族による律令政治の体制は、抱えていた武門の武力によって倒されることになった。言わば、貴族にとって武士は獅子身中の虫と言ってもよい存在だったわけで、貴族は頼りにしていた武家によって衰退の道へと追いやられることになったのである。勢力をつけて来た武家は貴族の世界にあこがれ、持ちつ持たれつの関係を築いて行くが、武家の新勢力は徐々に力を増し、結果、その勢力は貴族を凌駕し、貴族は衰退の道を辿るに至った。

  ここに源平の武門集団の存在が顕現するところとなるわけで、まず、平清盛を頭領とする平家が勢いを増し、天皇との外戚関係を結んで合体し、武力を用いながら貴族社会へ同化して行った。こうして平家が貴族の世界に溺れ込む間に、武門の一方の雄であった源頼朝を頭領とする源氏が各地に蜂起し、平家を倒して政権を奪い、鎌倉幕府を開いて実権を握った。で、ここに王朝の全盛を誇った貴族による律令政治の平安時代四百年は終焉を迎え、鎌倉の頼朝によって武家政治が始められたのであった。

  だが、京にあった天皇の権威はなお強く、実権は譲ったものの貴族はなお勢力を保っていた。このときの天皇が平家の滅亡後に即位した後鳥羽帝で、文武に秀でた天皇と言われ、天皇を退き、後継の土御門、順徳、仲恭天皇まで院政を敷き、後鳥羽院と呼ばれた。即位後は一貫して鎌倉と対峙し、ついには承久の乱を起したが、これに敗れ、隠岐に配流の身となった。頼朝の死後、鎌倉でも政変が起き、北条氏台頭の時代になって、武力の定めとも言える群雄割拠、下剋上の戦国時代へと向かって時代は移り行くことになる。

                    

  この間、貴族社会の象徴的存在であり、貴族の世界をうつして已まなかった個別個人的おのがじしの抒情歌たる短歌は、当然のことながら貴族の混乱と衰退に関わりを持ち、彼らの心情の赴く姿を自ら捉え、雅から滅びの哀れへその歌心の歌は変化を見せるに至るわけである。勅撰集で言えば、鎌倉時代になって出された第七代の『千載和歌集』に続く後鳥羽帝が自ら手がけた第八代の『新古今和歌集』がその時代を負う。この勅撰集が編まれたのは元久二年(一二〇五年)、鎌倉に政権が誕生してちょうど二十年目であった。

  選歌には『小倉百人一首』で知られる藤原定家等が当たったが、定家は日記『明月記』の書き始めのころ、「世上乱逆追討耳に満つと雖も之を注せず、紅旗征戎は吾が事に非ず」と記して、歌の道に励むことを決意している。十九歳のときであるが、この言葉は当時の世の中の事情と短歌の存在をよく伝えていると言える。

  一つは源平の合戦によって世の中が乱れ、貴族の行く末に不安が生じて来たこと。今一つは短歌が貴族の矜恃であり、愛して已まない存在にあったことである。若い定家にその時代の流れにおける不安は底知れないものがあったろう。しかし、世の中のことなどに気を取られることなく、矜恃であり愛して已まない短歌の道にひたすらでありたいと思ったのである。これは定家が歌人の家柄にあり、昇進が覚束ない位階の低い貴族であったけれども、後鳥羽天皇に見出され、その道に自信があったことにもよるだろう。

  後鳥羽帝は武家と対峙すべく運命づけられた天皇で、言わば、律令政治の幕引きをしなければならい天皇だった。そして、承久の乱を起こし、これに敗れて隠岐に流され、その絶海の孤島で生涯を終えたのであった。だが、自分で手がけた『新古今和歌集』に拘泥し、流竄の後もこの勅撰集を手離すことなく、精選に精選を重ね、切り継ぎをしたことはよく知られるところで、この精選の結果、隠岐本として『新古今和歌集』は後世にも伝えられたのである。

  後鳥羽帝は何もかも手離し、遥かに遠い音信の乏しい隠岐の孤島に身を置くことになったにもかかわらず、短歌は捨てることなく、自らの勅命によって作り上げた『新古今和歌集』を生涯手元から離さなかったのである。それとともに、隠岐においても作歌し、遠い都から歌を送らせ、独りで判詞に当たり、歌合を取り行なったりもしたのであった。これは天皇の個人的な心情イコール短歌という当時の精神性の事情を物語るもので、短歌の歴史において重要な意味を持っていることが言える。 写真はイメージで、鴨。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年03月17日 | 創作

<926> 短歌の歴史的考察  (4)    ~ <923>よりの続き ~

       五七五七七の三十一文字に 詠まれて人の世は移り来ぬ

  かくして、短歌は『万葉集』の時代から平安時代前期の『古今和歌集』の勅撰集の時代に移って行き、仮名文字を主流とする雅でたおやかな我が国独自の詩としての趣をもって継がれて行くことになる。五と七の句を基調にした歌は「やまとうた」と称せられるようになるが、長歌や旋頭歌、仏足石歌体は栄えることがなく、廃れて行き、「やまとうた」と言えば、短歌を指して言われるようになる。

  まさしく、短歌は和歌、「やまとうた」として、三十一文字(みそひともじ)、言の葉(ことのは)、敷島の道というように我が国の伝統詩形として伝えられてゆくことになるのである。そして、短歌は時代を重ね、その変遷にともない、時代を経るに従って旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧字は略字に、文語は口語にといった風に微妙な変化を見せ、片仮名や外来語による表現もなされるようになり、五七五七七の韻律を守りながら表現の幅を広げ、今日に至っているわけである。

 また、短歌は我が国が国家の確立を見たころに生まれたもので、律令制という政治体制のもとで、支配層の貴族の間で主に親しまれ、育まれたことに文化的乃至は歴史的展開の特徴が現われていると言ってよい。これは武家の台頭によって貴族の衰退をみる中世、即ち、勅撰二十一代集、殊にその中の前半部の区切りの歌集に当たる八代集の『新古今和歌集』のころまでが色濃く展開されて見える。このことについては、『古今和歌集』及び『新古今和歌集』を見るときに触れてみたいと思う。

                                       

 短歌の変遷においては、『万葉集』の次に『古今和歌集』の時代が到来するが、この古今時代の考察に入る前に、短歌の五七五七七がなぜ抒情歌として定着していったのかについて少し触れておきたいと思う。何故なのだろうか。それは前述したごとく、須佐之男命の新婚の祝歌に濫觴を見るが、感動の思いを言葉にして発するに、この五七五七七の韻律が自然に口をついて出て来た言葉に一致した。この点に短歌の意味があるように思われる。

  で、この歌の言葉は偶然に発せられたものではなく、日本語が有するリズムの特徴に沿って現れたもので、そこのところが思われるわけである。この言葉のリズムこそが短歌の五七五七七の韻律に一致したということではないかということが短歌成立の要にあると考えられる。

 『万葉集』には前述したように、短歌のほかに長歌、旋頭歌、仏足石歌体などの詩形が見られる。いずれも、五と七の韻を基調にしているが、後世に引き継がれて用いられたのは短歌の五七五七七の韻律とその後に現われて来る短歌の韻律の基礎部分である五七五の韻によってなる俳句の句形だけである。ほかの詩形はみな廃れ、『万葉集』から見れば、短歌の詩形のみが残ったということになる。

 短歌以外に栄えなかったのは、ほかの詩形が抒情歌として短歌の韻律に及ばなかったからであろう。また、短歌より更に短い俳句は短歌の五七五七七から七七を切り捨てた詩形で、短歌から連歌を経て生まれたことはよく知られる。この俳句の発生の過程は重要な意味を持つもので、言わば、俳句は短歌の下句七七を切り捨てることによって生まれ、短歌とは異なる詩の世界を発見した。そして、独自の詩的世界を開いたのである。

  つまり、俳句の五七五に七七を加えて短歌が出来たのではなく、短歌の五七五七七があって、俳句の五七五が生まれたもので、歴史的に言えば、短歌が早く、俳句は短歌に遅れて出現して来た詩形である。だが、俳句による詩的世界の発見によって、短歌の方も下句七七が短歌のあるべき主観性、あるいは、個別、個人的おのがじしの抒情性を引き出す効用となっていることに気づいたと言える。このことは、短歌や俳句の実践者にはよく理解されていることではないかと思われる。

  俳句の詩的世界は季語を含め、およそ自然の姿を読み取ることを基本にしているもので、作者の個人的抒情性とはほとんど関わりのないところで表現される詩形にあると言え、短歌はこの五七五に七七を加えることによって個別、個人的おのがじしの抒情に与し、歌を成立させる。ともに五と七の韻によってあるものながら、不思議にも短歌と俳句は随分異なった詩の世界を展開するわけである。

  抒情とは心の働きで、抒情歌たる短歌は、その心の働き、つまり、詠み手の思いや感情によるもので、個別、個人的な性格が現れ、ほかの詩形(長歌や俳句など)に比べ、「おのがじし」に生れる詩形であることが言える。よく「我」という一人称をして表現される通りであるが、それに止まらず、短歌がより個々人のものであるという詩形の特徴がそこにはあるわけで、この認識の重要性が思われるところである。この「おのがじし」ということは短歌の歴史的変遷にも関わる重要な要素で、この「短歌の歴史的考察」のテーマでもあることが言える。 写真はイメージで、「海」。