山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

地震情報に困惑の話

2011-04-24 00:28:35 | その他

 

3月11日の大地震の発生以降、毎日余震が続いており、(いささ)かも安堵できるような状況ではありません。いつ何時再び大地震が突発するのかという不安が常時付きまとう生活が続いています。毎日こうだとある意味で何事も馴れて来て、あ、又かということで済ませることが多いのでしょうが、地震ばかりはとてもそのような気分になれるものではなく、却って余震が予震とならなければよいがと不安は募るばかりです。

本震から1カ月以上も過ぎた現在でも、毎日少なくとも3回以上の体感地震が起こっており、地震ではなくても椅子に座っていて何かの拍子に少しぐらっと揺れたりすると、身体の背中の下の方がむずむずして、えっ、又地震かよ!という感覚なのです。このような時間の連続は70年以上の人生で初めての体験です。しかし、生きていてよかったという気分には到底なれません。

ところで、今回の大地震の発生以来の打ち続く余震の体験で判ったことが幾つかあります。その一つに、TVで報道される地震の震度というものは、余り信ずるに値しないのではないかという感じ方です。報道される震度というのは、各地の定点に設置された震度計の感じた揺れの大きさを基に発表されるようですが、この数値と実際の体感度合いにはかなりのズレがあるように思います。年に何度かの地震であれば、その誤差などどうでもいいのですが、毎日何回も大地を揺さぶられているとなりますと、その度に発表される震度の数値に対する違和感はかなりのものとなって来ます。

先日の新聞にもそのことが書かれていました。たとえば茨城県の中では、最も震度が大きいのは鉾田市エリアで、他のエリアに比べて少し突出しているようです。震度5から6レベルの揺れが多発しており、鉾田市の地下にはオオナマズが住んでいて、どこか震源地からの波動を感ずると、直ちに身体を揺すって震度計の針を大きく振れさせているかのごとくです。新聞の記事によると、鉾田市には4カ所の地震計が設置されているとのことですが、その内の1個所が特に大きい数値を示すらしく、それが公表されるために際立ってしまうとか。変な話です。機械装置というものは、人間と違って極めて客観的というか、客観的な動きしかできないものではないかと思うのですが、同一震源地の同一エリアなのに、必ずしも皆同じでない数値を示すというのは、摩訶不思議な感じがします。

まさか機械装置が主観的に変身するなどということはあり得ませんから、結局設置される場所の環境条件に左右されるということなのでしょう。しかし、そのエリアに住む人たちにとっては、真に迷惑な話となります。風評被害じゃないですけど、鉾田市というのは地震に対して厳しい環境にあるということになってしまい、そのような所には住みたくない、住めないということに繋がってしまうからです。

一方私の住む守谷市などは、かなり揺れてこりゃあ震度5近いなと思っても、TVの報道で示されるのは、いつも2レベルくらい下回った震度3程度であり、震度4以上の表示はめったにされていません。隣接する常総市やつくばみらい市、取手市などと比べてレベルが1つくらい下回っていることが多いのです。聞くところによれば、守谷市の震度計は岩盤の固い市役所に設置されているので、それで揺れが少ないという結果になるのだとか。確認したわけではありませんので、本当かどうか判りませんが、市役所だけが硬い岩盤でも、我家の地下が弱かったなら、いざという時にはとんでもないことになるのかもしれません。

以前は震度のレベルを体感で計って決めていたとのことですが、機械装置になってもこのような誤差があるというのは、少し問題のようにも思います。偶々今回のような大地震の発生があって、その余震が繰り返されていることから機械装置の誤差が表出したのだと思いますが、これをこのままに放置しておくのではなく、より体感の実際レベルに近い数値が示されるように、設定の場所や方法を再検討し、見直しする必要があるように思います。本来人間のために役立つ正確なデータを採るために作られた機械装置が、その正確さのゆえに却ってそこに住む人たちに戸惑いと混乱を来すようなことでは、本末転倒というものです。

少し話は変わりますが、この頃は緊急地震速報というものが発信され、TVや携帯電話で地震が起きたことを知らせてくれています。いつからこのようなありがたい方法が実現したのかと、最初は感謝の気持ちを持ちながらその信号の鳴るのを受け止めていたのですが、この頃は次第にそのありがたさが薄れて来てしまっています。というのも家内の携帯(我家では新式の携帯は家内の方)が鳴り響くとハッと構えるのですが、結果的にほんの少し揺れる程度で終わることが多く、安堵はするものの何だか騙されたような気持ちになってしまいます。これはあながち人間の思い上がりだということで片づけられないような気がしています。空振りは、オオカミ少年の前触れと同じように、それが何度も繰り返されると、人々を不信や無反応へと導いてしまうからです。

地震の予知というものは大変に難しいことなのでしょう。おおよそのことは察知できても、それを計るための時間の単位は、短くても数十年の幅の発生予測であり、場所ごとの正確な日時を予測することなど、とてもできない話なのだと思います。ましてや今起こりかけている地震の大きさを正確に伝えることなどは、よほどに特別な条件の地震発生時くらいしかできないのでしょう。ですから緊急地震速報が外れたからといってそれを責めるつもりなど全くありません。

そこで思うのは、なんだかんだ批判めいたことを書きましたが、結局は機械装置というものは、そのデータが正確であれ、誤差があるものであれ、今現在それを使うのは人間であり、我々一人ひとりなのだということです。データが正確であるに越したことはありませんが、そのデータが主役となるのではなく、あくまでも主役は自分自身であり、そのデータをどう受け止め活用するかということなのです。こんな当たり前のことに改めて気づかされました。震度も緊急地震速報も、自分自身がそれをどう受け止め使えば良いのか、データに振り回されるのではなく、そのデータの目的をしっかり理解し、自分なりの判断に自信の持てるような対応を心がけなければならないなと思ったのでした。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« つくば市のシセイに思う | トップ | 地蔵ケヤキに逢いに行く  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

その他」カテゴリの最新記事