山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第11日~13日(その2)

2010-12-10 03:18:45 | くるま旅くらしの話

 

多々羅大橋を歩く

 

島暮しの日課の一つに多々羅大橋の歩きを入れたのは、以前に来たときにもこの橋を隣島の瀬戸田PAまで3回も往復したことに味を占めたからである。今回も是非それを実行しようと考えていた。

 

多々羅大橋を渡るためには、宿泊している道の駅:しまなみの駅御島からは車で10分ほど走って橋の袂にある道の駅:多々羅しまなみ公園に行くことになる。だから最初からこちらの方に泊れば、移動の手間が省けるというものなのだが、海に面しているこの道の駅は、天候の急変のことなどを考えると、やはり遠慮したいということになってしまうのである。ということで、今回は連日二つの道の駅の間を通うことになった。

 

   

多々羅大橋の景観(遠景)斜張橋としては世界で2番目の長さとのこと。この写真は、瀬戸田の生口島側から大三島の方を見た景観である。

 

多々良公園の駐車場に車を置いて、少し急な坂を上ってゆくと、展望台があり、その下の方が多々羅大橋の自転車や歩行者の道の入口となっている。そこからが橋の散策の本格的開始となる。初日は邦子どのと二人、前回と同じ様に瀬戸田の上り線側のPAを目指した。まあまあの天気である。少し風があるけど気になるほどの強さではない。久しぶりに高所を歩くので、大丈夫とは思いながらもヒヤヒヤ心がどうしても働いてしまう。邦子どのは平気で歩道の右側を歩いているけど、自分としてはどうもそういう気にはなれない。なるべく遠くを見ながら左端の方を歩くことになった。それでも少しずつ慣れてきて、時々は橋の下に近い海を覗きこむことも出来るようになった。多々羅大橋にはロープを吊るための2本の巨大な柱(=主塔)があり、その柱からそれぞれ左右に21本のロープが斜めに張り出されている。道の片側だけで計84本のロープが使われているということだ。それが橋の北側にも同じ数だけあるので、ロープの総計は168本ということになる。直径が15cm以上もあると思われる鋼鉄のロープが使われており、良くもまあこのような重いものを吊り上げているものだと驚くばかりである。

 

   

主塔を見上げる。この塔の高さは、海面より226mもあるというから驚きである。見上げると眩暈(ままい)を覚えそうになる。

 

   

橋の上の様子。左は車道。車道の左右に自転車と歩行者専用の道がつくられている。歩行者は無料。自転車と原付は片道100円となっている。

 

主塔まで来ると、そこには名所となっている多々羅鳴き龍がある。鳴き龍とは日光東照宮などのあれと同じ現象で、拍子木や両手で拍手を打つと、音が反響しあって、恰も龍の鳴き声のように聞こえるという現象である。何しろ巨大な橋の上なので、その反響音も相当なものである。ここの鳴き龍は、日光の数倍の大きさがあるのではなかろうか。主塔は計4本あるから、4箇所でこの鳴き龍を聞くことができるというわけである。

 

   

多々羅鳴き龍を試す人。主塔の下に来ると、音が共鳴する現象が起きる場所があり、拍子木や拍手を打つと、ゴオ~ンという音が辺りいっぱいに響き渡る。

 

20分ほどかけて1,480mの橋を渡り終え、生口島に到着。ここから先が急な坂道が多い。瀬戸内海に面する右手の丘は急な坂のみかん畑になっており、既に色づいた早稲みかんやまだ堅い青色の夏みかんなどが晩秋の暖かい日を浴びて、たわわに実をつけていた。途中にある無人のみかん売り場で、1袋100円也で8個ほど入っているみかんを買い、それを食べながら歩くのが楽しみになっている。今回も早速それを手に入れた。瀬戸田のみかんは甘くて美味しい。大三島でもみかんの栽培は盛んなようだけど、酸味が強いのが多くてガッカリすることが多いのだが、ここに来るとその外れの心配が無い。土の所為なのだろうか、不思議に思う。

 

ふうふうヒイヒイと息を切らしながら、坂道を登ってようやくPAに到着。ここのPAには名物の蛸飯があったと記憶しており、今回もそれにありつくつもりで行ったのだが、少し頑張りすぎたのか邦子どのがグロッキーになったようで、食べるものなどの話ではなく、横になりたいなどといっている。よせばいいのに重いカメラを構えて途中、写真を撮りすぎたようだ。帰りのエネルギーの計算も出来ないほど久しぶりの景色に魅せられて入れ込んでしまったらしい。ま、少し休めば何とかなるだろうと、自分の方も蛸飯はやめ、蛸の天ぷらをスナック風に揚げたものを頬張って我慢した。邦子どのは何も食べる気がしないという。

 

20分ほど休んでいる内に少し元気を回復してきたので、とにかく帰路につくことにした。帰りは橋の入り口までは下り坂なのでかなり楽なはずなのだが、油断すると膝をやられることになるので、気をつけながらの歩きとなった。橋まで行けばそこからは平なので、それほど苦労することは無かったが、重いカメラをずっと持たされ続けて、しかもその持ち方が悪いと一々注意されるので、どうにも面白くない道行きだった。

 

次の日は単独行となった。邦子どのは橋の恐さよりも往復するエネルギー不足の恐さに脅えたようで、わたしは今日は行かないから、あなた一人で行けば、と朝から断言していた。ま、さもあらんと予想していたことなので、一人で行くことを決めた。昨日と同じように大山祇神社に参詣のあと出発する。昨夜来の風が少し残っていて、風当たりのきつい橋の上はちょっぴり歩きにくいかなと思ったが、少しばかりの風にはビクともしない大橋なので、まあ大丈夫だろうと道の駅:多々羅大橋公園に車を止める。今日は文化の日の休日とあって、何やらイベントが催されているらしく、昨日までさほど混んでいなかった道の駅の駐車場は満杯近くになるほどの混雑ぶりだった。

 

橋への坂道を登りながら、今日はいつも行く上り車線側の道ではなく反対側の下り車線側の道を行くことにしようと思った。入口が違うため、かなりの遠回りとなったが、見る景色も少し違っており、少し新鮮さがある。今日は休日の所為なのか橋の近くには釣り船らしき白帆を掲げた船が幾つも浮かんでいた。いい景色である。しまなみ海道はサイクリングを楽しむ人が多く、今日は休日とあってか、かなり大勢の人が賑やかな衣装をして、次から次へと自転車を走らせていた。少し危なさも感じるほどだった。橋の上は起伏が無く自転車にとっては極めて好条件の道だと思う。今回は自転車を積んでこなかったので、専ら歩くだけである。歩くのもいいぞ、と思いながら瀬戸内の島々の広がる景色を楽しんだ。

 

      

 

橋の上からは、瀬戸内の島々の間を航行する船がひっきりなしに行き交っていた。のどかな風景である。

 

生口島に着いて、瀬戸田のPAに向かう坂の途中にあるみかんの無人販売所の手前に、今日は別の売り場が作られており、ちょっと覗いたら、なんと一袋が10円だという。小さいみかんだけど、15個ほども入っているのである。これは何かの間違いだろうと置かれているダンボールに書かれた価格表示を確認したのだが、もう1箇所に書かれている表示もやはり10円だった。半信半疑でとにかく1袋を買い、PAの方に向かいながら食べてみたのだが、これが実に甘い上等な味なのである。これは島の地元の方の特別のプレゼントなのかなと思った。

 

PAに着いて、今日はここまで来たという証に小さなデンドロビュウム(デンファレ?)の鉢を買った。この辺りの島々では蘭の栽培が盛んなようで、前回来たときも同じ様な鉢を買ったのだった。車旅ではともすると花とは無縁の時間が多くなってしまうので、このような小さな植物は、大いに心を慰め癒してくれるのでありがたい。その小鉢の入った袋を抱えて帰りの道を辿ったのだったが、やはり1袋10円のみかんが気になり、もう一度寄ってみた。残りが3袋あったので全部買い上げることにしようと思ったのだが、10円硬貨が2枚しかなく、後は札しかなかったので、やむなく2袋を買い入れた。都合3袋を買ったことになる。蘭の小鉢にもみかんと同居して貰い、何だかとっても得をしたような気分になって、車に戻った。買ってきたみかんを口にした邦子どのも大いに満足できる味であり、硬貨を持っていなかったドジを惜しがられたのだった。それにしても、今どきこのような価格のみかんに出会えるなって、夢見たいな話である。

 

   

今日は一人でちゃんと歩いてきた証拠にと買った小さな蘭の鉢。名前は良く判らないけど、その後の旅車の中をホッとさせてくれた。

 

翌日の多々羅大橋往復は、邦子どのがカムバックして同行することとなったのだが、PAまでの急坂に恐れをなし、自分は橋だけを往復するとのことだった。お好きなように、というしかない。今日もまあまあの天気で、今回の島暮らしの最後となる多々羅大橋の散歩をじっくりと味わったのだった。今回は雨などに邪魔されること無く十二分に満足な散歩だったが、欲を言えば前回には見ることが出来た橋の袂の紅葉が、少しも見られなかったのを残念に思った。しかしまあ、なんとも超贅沢な散歩環境だった。くるま旅ならではの恵みである。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第11日~13日(その1)

2010-12-09 00:28:09 | くるま旅くらしの話

 

第11日~13日の各日の行程】

 

第11日 <11月2日(火)>

 

行 程】 道の駅:しまなみの駅御島 → (K21・51) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (多々羅大橋を大三島から瀬戸田PAまで歩いて往復散策) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (K51) → 盛港広場 → (K51・21) → 道の駅:しまなみの駅御島 (泊)  <23km>

 

第12日 <11月3日(水)>

 

行 程】 道の駅:しまなみの駅御島 → (K21・51) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (多々羅大橋を大三島から瀬戸田PAまで歩いて往復散策) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (K51) → 盛港広場 → (K51・21) → 道の駅:しまなみの駅御島 (泊)  <24km>

 

第13日 <11月4日(木)>

 

行 程】 道の駅:しまなみの駅御島 → (K21・51) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (多々羅大橋を大三島から生口島まで歩いて往復散策) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (K51) → 盛港広場 → (K51・21) → 道の駅:しまなみの駅御島 (泊)  <26km>

 

<11月2日~4日の島暮らしの様子>

 

11月2日から4日までの3日間は、その各日の行程を書いてみると全く同じ様なものとなる。要するに同じ様な暮しのリズムでこの3日間を過したことになる。勿論その個々の内容は全く同じというわけではないけど、その内容を一々書いてもつまらないので、3日分をまとめて島暮らしの凡そを書くことにしたい。

 

◇何故大三島なのか?

 

先ず最初に今回の旅で、島暮らしに何故しまなみ海道の大三島を選んだのかということなのだが、それには幾つかの理由がある。しまなみ海道には計6つの島がある。そのどの島でも滞在しての島暮らしは可能だ。先回しまなみ海道を訪れたときには、その6つの島の全てに足を延ばして、下見のつもりで、それぞれの島の様子を見て歩いたのだった。大三島には二つの道の駅があるけど、他の島にも道の駅はある。したがって必ずしも道の駅があるからというのは選ぶ理由にはならない。というのも、どの島にも車を止めての宿泊可能な場所は幾つもあるのである。

 

この島を選んだ最大の理由は、入浴施設、即ち温泉が3ケ所もあるからだ。旧上浦町に二つ、それに旧大三島町にも一つ温泉入浴施設があるのである。その他の島には今のところ新しく温泉入浴施設などが出来たという話を聞いたことが無い。旅をしていて、満たされた心情になるのは、何と言ってもゆったりと湯に浸って、心身の疲れを洗い流すことであろう。温泉でなくとも差支えは無いのだけど、入浴施設がないというのは困ったことなのである。

 

次にこの島を選んだ理由は、多々羅大橋の存在だ。この美しい橋を毎日歩くという楽しみをもう一度実現させたいと思ったのである。しまなみ海道には計10本の橋が架かっているけど、その中で最も美しいのがこの多々羅大橋だと思っている。橋の長さでは来島海峡大橋(3本の橋で構成されているが、その内の2本は多々羅大橋よりも長い)の方が歩き応えがあるのだが、3本を通して歩くとなると往復8kmにもなり、気象条件などを考えると毎日歩くというわけにはゆかない。この点往復3kmの多々羅大橋は、真に歩きには最高の条件を備えているように思う。橋の上から瀬戸内の島から島への、いかにも瀬戸内らしい景観をじっくりと味わうことが出来るのである。

 

それからもう一つある。それは大山祇(おおやまづみ)神社の存在である。この神社の歴史は古く、全国の山祇神社、三島神社の総本社であり、且つ山の神、海の神そして戦の神として、今日まで多くの武将・武官の人たちの崇敬を受けてきている。現在でも自衛隊関係者等の参拝が続いているようだ。社の宝物館には武具に係わる多数の国宝と重文が収納されている。しかし自分が何よりもこの神社をありがたく思うのは、社を取り巻く楠木の大木群があるということだ。ここは本物のイヤシロ地なのだと信じて疑わない。

 

というようなわけで今回はこの地に足かけ5日ほど滞在させていただいたのだった。

 

◇毎朝の大山祇神社への参拝

 

泊りを道の駅:しまなみの駅御島(みしま)ばかりにしたのは、何といっても直ぐ隣が大山祇神社であるからだ。この道の駅も神社の境内に在るといってもいいほどなのだ。ここは古来から日本の総鎮守として崇められてきた場所なのである。社はうっそうとした楠の大木群などに囲まれており、なんともいえない爽やかで清らかな空気に満たされている。

 

毎朝食事を終えた後は、歩いて5分足らずの大鳥居を潜って、神殿に参拝することにした。大鳥居を潜ると新築の立派な門が建っていた。これを何と呼ぶのか判らない。お寺ならば山門に相当するのであろうか。神社の中にこのような建物があるのをあまり見たことが無い。とにかく総檜作りの感じの立派な門だった。まだ左右の阿吽像を収めるには至っていないようだった。

 

    

大山祇神社の境内に新しくつくられた山門。まだ未完のようであった。

 

それを潜ってしばらく境内を歩むと、正面に乎知命(おちのみこと)手植えの楠というのがある。樹齢2,600年との説明があった。乎知命というのは、この神社の祭神である大山積大神を祀った人で、この神の子孫といわれている人とか。そんな古いことなど判るはずもないけど、ともかく信じておくことが大切だなと思った。それにしても2,600年の生命を長らえ保っている樹木には圧倒されるものがある。2,600年といえば、かの縄文杉とさほど変わらぬというレベルである。ここへ初めてきた時には、縄文杉に会ったときと同じような感動を覚えたのだった。それは今回会っても少しも変わらないことである。この樹の他にも能因法師雨乞いの楠というのがあり、こちらは樹齢3,000年だとか。少し枯れかかっているようで、何だか痛々しさを感ずる姿だった。掃き清められた境内の庭には周辺に祀られる神々の優しげな光の眼差しが満ち溢れているように感じた。正面の神門を潜り拝殿に参拝する。8時を過ぎたばかりの時間帯では、参拝者は少なく打つ拍手(かしわで)の音も神殿に響いて気持ちよかった

 

 

大山祇神社の境内にある楠の大木。左は乎知命手植えの楠。右は能因法師雨乞いの楠。いずれも樹齢2千年を超える老木である。

 

参拝の後は、宝物館脇の宮浦港からの参道につながる遊歩道を歩いて、鶴姫公園という所まで散策する。このあたりはまだ秋を感じさせないのどかな景観が広がっている。瀬戸内の島々にはごつごつしたむきだしの岩山が多くて、それを松などの樹木が辛うじて覆い隠しているようなのだが、この頃はその松の木が枯れ出していて、かなり目立つのが不気味である。のどかさの中に何やら怪しいものが忍び寄ってきている感じがするのである。

 

鶴姫公園の主人公の鶴姫というのは、450年ほど前の三島水軍と大内氏との戦において、女性ながらに三島方の陣代(=首将に代わって軍務を統べた役)を努めた人で、戦が終った後、その戦で恋人を失ったことを悲しみ、母の形見の鈴を胸に抱いて自ら海に沈んでいったという実在の人物のようである。「我が恋は 三島の浦のうつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」という悲しい歌が残されているという。前に来たときにはこの公園を知らず、この話も知らなかった。やはり旅というのは歩くということが大切だなと思った。

 

翌日も勿論参拝したが、この時には何か神事のようなことが行なわれていて、数人の神官と巫女二人が神前に舞を奉げていた。神主の祝詞が終ると、二人の巫女が神官たちの奏でる舞楽に合わせて、両手に鈴のようなものを持って舞を奉納していた。どんな意味があるのか判らないけど、ある種の神々しさを感じ厳粛な気持ちになった。邦子どのはこのような神事に関心があり、熱心に見学をしていたようだ。神事が終ったあとで邦子どのが社務所の方に聞いたところでは、今日は明治祭だとか。そういえば今日は11月3日の文化の日だった。何か関連があるのかもしれない。かなりの数の写真を撮ったのだが、安いデジカメは動きのあるものを撮るのが苦手で、シャッターを切るまでの時間が掛かりすぎて碌な写真が写っていなくて残念。

 

その翌日も参拝する。この日は何も無く、境内の清新な空気を胸いっぱいに吸っただけ。それだけでもう十二分に満たされたのだった。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第10日

2010-12-08 00:53:51 | くるま旅くらしの話

 

10日 <11月1日(月)>

 

行 程】 道の駅:アリストぬまくま → (K47・53) → 内海大橋(写真撮影) → (K53・47) → 松永町(飲料水購入・給油) → (R2・西瀬戸尾道IC) → (西瀬戸道=しまなみ海道) → 大浜PA(因島大橋記念公園散策) → 瀬戸田PA → 大三島IC → 道の駅:多々羅しまなみ公園(愛媛県今治市) → (K51) → 盛キャンプ場(愛媛県今治市) → (R51) → 多々羅温泉(愛媛県今治市) → (K51・21) → 道の駅:しまなみの駅御島(愛媛県今治市) (泊)

<72km>

 

昨夜の雨は早く降り止んだようで、夜中は天井も静かだった。朝方に一時ぱらっと降り出しようだったが、明けて外に出てみると、やや荒れ模様ながら天気は回復するような予感がした。今日はしまなみ海道の大三島入りする予定である。折角の島暮らしなのだから、せめて天気は穏やかであって欲しいと思う。今回は島から島へと渡り歩くのは止めて、大三島だけに留まって、のんびり過したいと考えている。そののんびりの内容がどんなものなのかは実のところは解らない。ボケーっと過せれば最高だけど、記録の整理などに追いかけられて、落ち着かない時間ばかりとなるような気もする。ま、全ては行ってからのことである。

 

沼隈の道の駅の朝の市場は、昨日とは大分に勢いが無くなっているようで、昨日は5時前から忙しかったのが、今日は活動が1時間ほど遅れている感じだった。それでも8時開店の30分前には、かなりの地産物が並べられていた。今日は移動する日なので、我々としては調理の時間がないため、買うのは最小限にせざるを得ない。買物の方は邦子どのに任せて、出発の準備をする。

 

9時少し前に出発。県道にて松永町方面へ向う。途中ホームセンターで少なくなった飲料水の補給にと2箱(12本/2L)買い入れる。島暮らしの必要分を賄う予定。旅の間は、飲料水と調理用の水は買うことにしている。一般の水道水は洗い物とトイレ洗浄用に使うだけである。水を買った後は少し行ってR2に入り、直ぐに給油を行なう。高い値段だけど島の中で補給するよりはベターであろう。しばらくR2を走って、間もなくしまなみ海道の入口につながる道へ右折して入る。道なりに行けば、後はそのまましまなみ海道である。

 

先日とんだ坂道で苦労した尾道の山側の斜面に広がる町並みを右手下に見ながら、あっという間に向島に入り、やがて因島大橋を渡って大浜PAにて小休止。ここまで来るともうしまなみ海道らしさが一段と濃くなる。何年か前初めてしまなみ海道を訪れた時に、この大浜PAから記念公園の方へ行き、そこから因島大橋を歩いて往復したのだった。途中でよせば良いのに自分が高所恐怖症であることも忘れて下を覗きこみ、思わず足がすくんで動けなくなりかけたのを思い出す。満潮時の海面からの高さは50mだというけど、実感としては100mを超えているのではないかと思うほどだった。とにかくこれほど高い場所から海を覗き込んだことは無かった。そのような思い出が懐かしくなり、もう一度記念公園の方に行ってみることにした。因島大橋は、全長が1,270mあるとのこと。しまなみ海道に架かる橋の中では長い方だと思う。記念公園はその橋の直ぐ傍にあり、橋の大きさを目の当たりにすることが出来る。少し紅葉しかけた樹木たちの間の道を通って公園へ行ったのだが、最近はここまで来る人も殆どいないようで、展望台のベンチもかなりくたびれていた。しかし、そこから見る景色は、以前と少しも変わらずスケールの大きいものだった。何枚か写真を撮り、車に戻る。

 

   

因島大橋の景観。ここは下の海を布刈瀬戸といい、船のメイン航路となっている。そのため橋の高さが50mもある。橋は2段構造で、上が自動車専用、下が歩行者や自転車・小バイクの通行路となっている。

 

因島の次は生口島である。この島は元の瀬戸田町である。今は合併して尾道市に入っている。瀬戸田といえばなんといっても平山郁夫画伯ということになろう。惜しくも先年お亡くなりになられたけど、先生がこの島のご出身であることを知らない広島県人はいないのではないか。私共も町にある平山郁夫美術館を何度か訪れたことがある。この島のみかんは甘く美味しい。瀬戸内の島々ではどこでもみかんの栽培が盛んなようだけど、食べてみると少しずつ味が違うように思う。本当は土地の所為ではなく、生産者の樹木管理の取り組みの差なのかもしれない。何がその差を作っているのか判らないけど、瀬戸田のみかんは甘くて美味しいのである。

 

生口島にもPAがあるので、ちょっと寄ることにした。しかし下り側のPAと上り線側のPAとでは造りの差が大きく、立ち寄った下り側からは隣の大三島に架かる多々羅大橋はよく見えないのが残念である。上り側からの景観の方がずっと良い。上り側の方まで歩いてみようかとも思ったけど、明日からは大三島から多々羅大橋を歩いて往復するつもりなので、途中まで行ったのだが止めて引き返すことにした。直ぐ先に大三島が見えており、先ずはそこへ行くことにした。

 

大三島ICを下りて、直ぐ傍にある道の駅:多々羅しまなみ公園へ。今回の島暮しの拠点の一つとなる場所である。少し早いけど昼食にすることにした。いい天気で、直ぐ傍に大きく美しい多々羅大橋が輝いていた。この橋に良く似たのに北海道は室蘭の白鳥大橋があるが、この多々羅大橋の方が100mほど長い。白鳥大橋を歩いて渡ったことはなく、車での通行だったけど、確かあの橋は少し曲がっていたように思う。この多々羅大橋は大三島から生口島まで真っ直ぐに架けられている。白鳥大橋と同じ斜張橋なのでその姿はやはり白鳥が大きく羽ばたいている姿に似ていて美しい。どちらの橋も美しいけど、多々羅大橋の方が少しばかり大型といえると思う。 

 

昼食の後は、このところ機会を逃し続けている入浴を何とかしようと、近くにある多々羅温泉に行くことにした。しかし、食事を済ませたばかりでの入浴は身体に良くないので、その前にこの島にある幾つかのキャンプ場の中で、盛という所にあるのへ行ってみることにした。以前にこの島を訪れて一廻りした時に、ちょっと気になった場所である。もうこの島の概要はかなり知っているという自信がある。前回は3日ほど滞在し、ぐるーっと島を回ったのだった。盛という所には広島県の竹原に向かうフェリーが発着する港がある。その少し先にキャンプ場があった。行ってみると只今閉鎖中のようだった。市の方に連絡すれば使えるのかも知れないけど、誰も使っていない状況ではそれは愚行のように思えた。キャンプ場で過すのは止めることにした。その代わり、盛港の傍には公園があって、水飲み場やトイレもあるようなので、明日はここでのんびり過すのもいいかなと思った。

 

多々羅温泉に入るのは、久しぶりだ。道の駅:多々羅しまなみ公園から盛港に向かう道を少し走って、左の丘の方に入る道を少し登ると、そこにこの温泉がある。この大三島には3つの温泉があるが、我々が一番お世話になってきたのはこの多々羅温泉である。浴槽も一つしかなく、小さな施設だけど、小じんまりまとまっていて、落ち着くのである。料金も300円と格安でありがたい。1時間ほどゆっくりと温泉を楽しむ。昼間の入浴は入る人も少なく、ちょっぴり贅沢な感じがした。温泉から出た後は、車に戻ってそのまま駐車場でしばらく午睡を貪る。

 

   

大三島の上浦地区にある多々羅温泉。左が男性用浴室、右が女性用である。周辺にはみかん畑が取り囲むのどかな景観が広がっている。

 

目覚めたら16時を過ぎていた。今日の宿は大山祇(おおやまずみ)神社の傍にある道の駅:しまなみの駅御島にすることにして向かう。10分ほどで到着。この道の駅を選ぶのには理由があって、その一つは何と言っても日本総鎮守の大山祇神社に毎朝参拝できること。その二はここまで入ってくるトラックなどは無いので、夜中に騒音無しでの安眠が確保できること。尤も夜間のトラックなどの騒音は、この島ではどこに泊まっても心配は無かろうと思う。

 

その夜はSUN号の他に泊った車は一台もなく、独り占めの状態だった。しかし、静かだと思っていたのは誤りだったようで、夜中に犬たちの騒ぎ吠えまくる声がうるさくて、とんだ大迷惑だった。野犬などが徘徊していたらしく、飼い犬共が騒ぎ立てて、人間のことなど度外視して大騒ぎをしていた。吠えている犬の飼主は不在のようで、そのことが犬どもを一層自由にさせていたのだと思った。ま、起き出して追い払うのも面倒なので、そのまま我慢したのだった。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第9日

2010-12-07 00:23:59 | くるま旅くらしの話

 

9日 <10月31日(日)>

 

行程】 道の駅:アリストぬまくま → (K47・53) → 内海町・横田港(広島県福山市) → (K53・47) → 新勝寺温泉 → (K47) → 道の駅:アリストぬまくま (泊)  <26km>

 

夜はよく眠った。眠り過ぎた感もする。邦子どのの調子も回復したようで、安堵する。明け方5時少し前から、やって来た軽トラのドアの開閉音と地元の人たちの人声が飛び交って、とても寝てなどいられない。この道の駅の売り場は、地元の新鮮な野菜等の農産物と直ぐ傍の海で取れる魚介類などが並んで、近隣から大勢の人たちがそれを求めてやってくる。特に今日は日曜日とあって、その賑わいは一層のようで、何時もは8時の開店も30分繰り上げての営業となるようで、生産者の方たちも朝から張り切っているようだ。

 

7時ごろにはもう買い物客が店の中に入って、思い思いに商品を選んで買い物籠だけの列が出来ていた。我々も負けじと中に入る。特に魅力的なのは海産物である。ここの海産物は半端ではない。魚屋までが買いに来ているのではないかと思うほどである。漁師さんは市場に出す代わりにこちらへ直行している感じがする。何時ものように先ずはワタリガニの目ぼしいものを探す。昨年は選定を失敗しているので、今年は慎重に選んだ。今回はカニの他の海産物は遠慮して、珍しく安納芋があったので、それとその他に野菜などを何点か買った。7時半にレジの人が来て販売は本格化したが、とにかく千客万来の大変な賑わいで、うっかりすると身動きが取れなくなるほどである。とにかくカニだけでも蒸かしておこうと早速それに取り掛かる。カニに関しては、邦子どのの世界であり、彼女はその母親からカニの蒸かし方を伝授されているので、自分が口出しする余地など全く無い。30分ほど蒸している内に焦げ臭い匂いがするので、慌ててコンロの所に飛んでいったら、水分が無くなっていて鍋が焦げ出していた。大急ぎ水を追加して、カニの方は無事終了したのだが、その後で鍋を元の状態に戻すのに苦労した。この失敗の原因は、邦子どのが最初に入れる水の量を少な過ぎたことによるものである。弘法も筆の誤りとでも言うべきか。そのあと、ついでに安納芋も蒸かしたのだが、ヤッパリ少し焦げの匂いが移ってしまっていた。

 

  

左は海産物の棚に並べられているシャコ。この他にも近海物の魚などがたくさん並べられている。右は蒸かし終えたワタリガニ。

 

そうこうしている間にも人と車はどんどん増え、このままここに居座っているのは目立つし、批難の対象となりかねないような気がしてきた。検討の結果、隣の内海町の方へ行ってみることにした。まだ行ったことがないのだけど、昨年ここに泊まった時、佐賀からの青年と知り合いになり、彼の話ではこの先の島に架かる橋を渡って行くとなかなか良い所があるということだった。もし本当にそうならば(本当に決まっている)、今日はそこで1日ゆっくり過し、その後でもう1泊この道の駅に泊まって、明日しまなみ海道へ向うことにしようということにした。

 

9時半過ぎ出発。沼隈には何度も来ているのに、道の駅より先に行ったことがなかった。内海町へは今日が初めてなのである。少し行くとここら辺りが沼隈町の中心街なのだろうか、かなり大きなショッピングモールのようなものがあり、何でも揃っているという感じだった。その中心街辺りにある道を右折して島に架かる橋を渡って少し行くと、かなり大きな橋があった。それが内海大橋だった。この橋を渡ると内海町となる。内海大橋は少し変わっていて、真ん中辺りからかなりの角度で曲がっているのである。普通の橋といえば、川でも海でも大抵は、向こう側に対して最短距離で架けられているのだと思う。ということは真っ直ぐに造られていることになるのだが、この橋はそうではない。恐らく架台を造るに際して、海の地形が影響したのだと思う。しかし、通行するには変化があって面白いなと思った。その橋を渡って田島という島に渡る。内海町はこの田島ともう一つの横島というので成り立っているようである。横島の方にも田島から橋が架かっており、その橋を渡るとそこに小さな港があって、その近くに駐車場付きの広場があったので、そこに車を停めることにした。どうやらこの港(=横田港)の辺りが町の中心部らしい。沼隈の方に較べると静かで落ち着いた雰囲気である。瀬戸内の小島にいるのと同じ環境である。

 

今朝は天気が心配だったが、今のところはチョッピリ青空も覗いたりして、どうにか大丈夫のようである。日曜日とあって、親子連れで釣りに来ている人もいるようで、この先の堤防では時折喚声も上がっていた。ここは絶好の釣り場らしい。あちこちに太公望らしき人物が目立った。この辺に来るときには釣りの出来る用意をしてくる必要があるなと思った。とにかくこれといってやることはないので、少し溜まりかけている旅の記録の整理に取り掛かる。自分がパソコンを扱っている間は、邦子どのは殆ど何もできなくなるので、結構ストレスが溜まるようである。さりとて、TVを見たり、CDの賑やかなのを聞かされたのではたまったものではない。知らんふりしてパソコンに集中する。

 

そうこうしている内に昼近くなったので昼食にする。今日はここで夕方近くまで過すことにして、先ほどのカニを早速やっつけることにした。折角なので、日本酒で一杯やることにする。夕方までには醒める程度の酒で、1合程度に止める。久しぶりのワタリガニである。今回の分の中身はまあまあだった。去年はスカスカの中身で、大いに落胆したのを思い出す。その分まで挽回すべく、じっくりと味わう。美味なり。文句なし。カニはワタリガニが一番だと思っている。毛ガニも、松葉ガニも、タラバも、ワタリガニの繊細な味には及ばない。今回のには味噌はホンの少ししかなかったけど、それでも大満足である。カニを腹いっぱい食べたいとは思わない。美味の結晶をホンの少し口に入れ、美酒を1杯口に含むだけでいいのだ。

 

少しでも酒が入ると、話し相手がいないときには、これはもう寝るだけである。邦子どのから見れば、しらふのままで何時もの酔っ払いのご託を聞かされたのではたまったものではないというところであろう。ま、その様な気持ちを斟酌して、しばらく寝床の中へ。丁度その頃から雨が落ち出し、天井が騒がしくなり出した。少し我慢をして雨音を聞いている内にたちまちあの世へと旅立つ。邦子どのが何をしていたのかは分からない。よく眠った。

 

目覚めたらかなりの雨降りとなっていた。もう一度パソコンに向おうかと思ったけど、雨降りではソーラーは役立たず、バッテリーは減るばかりである。諦めることにした。16時半を過ぎていたので、昨日入らなかった新勝寺温泉にもう一度行くことにして出発。17時ごろに着いたのだが、ものすごい混みようで、車を停める場所が無い。今日は日曜日なので、一日温泉を楽しもうという人たちが大勢押しかけてきているようだ。入浴だけではない時間も楽しもうというからには、車が空くはずが無い。待っていても無駄というものである。二度も振られて、チョッピリ忌々しい気がしたけど、無理して車を留め、芋の子を洗うような風呂に入るのは真っ平ご免だと、自分の中で啖呵を切って道の駅まで引き返す。

 

日中はごった返していた道の駅も隣の広場もすっかり静まり返っていて、雨の中を隣の広場に後片付けをしている人が何人か残っているだけだった。泊りの車は殆ど無く、我々の他にはバンコンが1台きりだったようだ。ここはTVの映りが悪くて、邦子どのの楽しみの大河ドラマも、ラジオでの音声だけしか入らない。邦子どのは倅に録画を頼んでいたようである。自分の方は焼酎を一杯やって、たちまち眠りの中へ。いつでも、何処でも眠れるというのは、真にありがたいことである。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第8日

2010-12-06 04:58:41 | くるま旅くらしの話

 

8日 <10月30日(土)>

 

行 程】 小谷SA → (山陽道) → 三原・久井IC → (K25) → 三原市内コインランドリー → (R2) → 尾道ダイソー駐車場<尾道市内散策・古寺の道~千光寺> → (R2・K47) → みろくの里・新勝寺温泉(広島県福山市) → (K47) → 道の駅:アリストぬまくま(広島県福山市) (泊)  <79km>

 

夜は最初の頃は寝つきが良くて、何の問題もなかったのだったが、0時を過ぎた頃に隣に車がやって来て、朝方までエンジンを掛けっ放ししだった。それからは実に迷惑を被り、不愉快な半夜となった。その車は大阪ナンバーのバスコンで、この際ヤケクソで公表することにする。「大阪800 す 82-37」という車だった。自分は最左端の駐車帯に留まったのに、その車はその又左に入りこんできて、朝方までエンジンを掛けっ放しなのだ。暖房をしていたのか、断続的にエンジン音が高低して、眠るのには最悪の状況である。朝になってみてみると、車の後ろにバイクを積んでいた。大阪の田舎者のわがままな世間知らずが、他人様への迷惑などこれっぽっちも省みず、(この種の人らには元々その様な配慮など持ち合わせておらず、他人から迷惑を受けたときだけ声高に自分を主張するだけなのだ。こんな輩が世の中を狂わせ続けているのだ)自分だけの都合で世の中が動くと思っている、そんな風に見えた。直接注意などしたら、喧嘩では済まなくなるのは必定なので、紙面でこのような呪い方をするだけである。自分の知っている大阪の知人は、皆洗練された方ばかりなのに、大阪の田舎にはこんな奴も転がっているのだろう。

 

さて、今日はこのまましまなみ海道へと思っていたのだが、気が変わって、その前に福山市の南の、海側にある沼隈の道の駅に寄ることにした。邦子どのの話では、しまなみ海道の前に洗濯をしておきたいとのこと。島に入ってしまうとコインランドリーのある可能性が薄くなるので、ちょっと困るとのことである。それじゃあ、先ずは三原ICで下りて市内を探し、もし無かったら次の尾道でコインランドリーを探せば何とかなるのではないかとの判断だった。尾道は今NHKの朝ドラでも係わりのある場所だし、一度散策をして見たいと思っている場所でもある。そしてその後は沼隈に行って泊まろうということである。沼隈はこの辺に来た時には必ず寄る道の駅であり、朝の市場の海産物が楽しみだ。

 

ということで、SA出発の後は、三原・久井ICから三原市内方面へ。ICを出て、三原市内まではとんだ山道だった。それほど高い山ではなくても、たくさんの山が頭を並べて谷を造っていると、そこを通る道は曲折の多い、運転しにくい道となる。県道25はその見本のような道だった。間もなくR2バイパスを横切り、三原市内に入ると、何と直ちにコインランドリーの店を発見。全く、待ってましたとばかりの存在だった。早速車を駐車場に入れ、洗濯に取り掛かる。といってもこれは全て邦子どのの持ち場であり、自分の方は、パソコンで書き物の整理に取組むだけである。

 

それから2時間半ほどかけて洗濯が終了。お昼近くなっていたので、そのままここで昼食を摂ることにした。お昼は簡便法(?)で手づくりのきつねうどん。これは自分の担当。食事の後少々食材などの買物をして、尾道に向けて出発となる。尾道までは、三原からだと30分くらいか。直ぐに尾道の着いたのだが、車を停めておく所がない。事前に駐車場の案内図を手に入れ、参考にしたのだったが、載っている駐車場は皆一般の普通車向けばかりであり、SUN号を停められるようなのは皆無である。駅の周辺を2回りほどしたけど、やっぱりダメなのだ。やむを得ず少し遠かったけど、小さなショッピングモールがあったので、その中の一つに停めさせて貰うことにした。そこはあまり混んではおらず、迷惑をかけることもなさそうだとの判断だった。その前に一応店に入って駐車料程度の買物をする。これはまあ、仁義というものでしょう。

 

1kmほど歩いて、尾道駅を過ぎた所から踏み切りを渡って坂の町へ。古寺の道というのがあったので、そこを辿ってみることにした。最初に持光寺というお寺があった。何やらイベントのようなものが行なわれているようで、関係者の皆さんがテントの下で売店などを開いていた。少し行って光明寺、宝土寺と参詣したが、とにかく大変な坂道ばかりで、その道がたくさんのお寺とつながっているのである、この辺りはお寺とお墓が多い。これほど多いとは思わなかった。又こんな坂道なのにたくさんの住まいがあって、よくもまあ我慢できるものだと思った。NHKの朝ドラでは尾道の坂などは全く触れていないけど、市の中心地といえば、この坂の斜面一帯を指すに違いない。林芙美子の放浪記は有名だが、彼女はここの出身であり、それに因んでなのか、坂の小路に文学の小道というのがある。何人かの作家の作品の一節や句碑などがあったけど、息を切らしての歩きでは、ゆっくり観賞する気も起こらない。お寺めぐりはたちまち止めて、とにかく千光寺まで上って参詣し、車に戻ることにした。

 

   

急な坂の斜面に40以上ものお寺が点在する尾道の古寺めぐりの細道。勿論この道がここに住む人たちの生活道路でもある。

 

邦子どのは坂にもめげず写真を撮りまくっていたけど、後でとんだ疲れのお釣が来なければいいがとチョッピリ心配になった。千光寺にはロープウエイでも行けるようになっているけど、その様なものは我々には無縁である。尾道のお寺の中では、千光寺が一番人気があるようである。ごつごつした岩肌のむき出した場所に幾つかの堂宇があったが、参詣の人で混みあっていて、どれが何なのかが良くわからなかった。

 

   

千光寺付近からの尾道の街の俯瞰景観。向うに見える橋はしまなみ海道入口の尾道大橋。右手の造船工場のある丘は向島である。

 

参詣を終えた後は、下り坂ばかりである。来た道とは違う道を選んだのだが、道の規模は皆同じで、人一人がすれ違うのがやっとという道幅である。老人には、上りよりも下りの方が膝に負担がかかりやすくて、要注意である。そろそろと下って、ようやく駅の傍まで到着。遂に邦子どのは歩くのがイヤになったらしく、駅前のベンチで車を持って来るのを待つということとなった。とにかくもう一回来て歩いてみようという気にはなれないほどの大変な坂道だった。長崎の坂も大変だけど、尾道も決して引けをとらないなと思った。再び1kmほどを歩いて、車に着いて邦子どのの待つ駅の方へと引き返す。

 

   

千光寺を頂点とした尾道の市街地は、このような急な細い坂道が走り巡っており、よくもまあこのような場所で暮しが成り立っているものだと、驚嘆するほどだ。

 

邦子どのを拾った後は、一路福山市郊外の沼隈町の道の駅を目指す。途中餃子の王将があったので、今夜の夕食用にと餃子を買う。ここの餃子は普段から愛好している。本当は、餃子は自分で作るべきと思うが、面倒くさいのが先立って、殆ど作らない。従って、王将にお世話になるというわけである。道の駅に行く前に風呂に入ってゆこうと、途中にある新勝寺温泉という所に寄ることにした。着いたのが16時15分過ぎくらいだった。受付に行くと料金が17時までは千円、それを過ぎると600円になるとか。それじゃあTVでも見ながら待つとしようかと、大広間の休憩所に行って坐った迄は良かったのだが。15分も過ぎると、邦子どのが疲れすぎて気分が悪くなったので、もう温泉には入れないなどと言い出した。毎度のことなので、大して驚きもしなかったが、あれだけの坂道を重いカメラを持って動き回ったのだから、一旦座ったりなどして気を抜くといっぺんに疲れが振り戻って、風呂にも入れない気分となるのであろう。無理しても仕方ないので、入浴は諦め道の駅に向うことにした。

 

沼隈の道の駅は、アリストぬまくまという呼び名である。アリストというのは普通だと貴族という意味だと思うけど、沼隈の場合はどういうわけでそう命名したのか分からない。恐らく何かの略称なのであろう。ま、貴族でもいいやという感じである。辺りはもうすっかり暗くなっていたが、隣の広場では明日何かイベントでもあるらしく、関係者の人たちが忙しく会場作りに取組んでいるようだった。とにかく早く疲れをとるのが大事であり、それには寝るのが一番である。急ぎ夕食の用意をして、早めの就寝となる。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第7日

2010-12-05 04:28:23 | くるま旅くらしの話

 

 

7日 <10月29日(金)>

          

行 程】 道の駅:あいお → (K25・R2) →  錦川川原P<錦帯橋見物>(岩国市) → (R2) → 宮島口町営P → 宮島行きJRフェリー(往復)<宮島見物・厳島神社参拝>(広島県廿日市市) → (R2・廿日市ICから山陽道へ) → 小谷SA(広島県東広島市) (泊)  <184km>

 

秋穂町のここは、何と交通量の多い道なのであろうか。早朝からたくさんの車が往復している。通勤の車だけではなく、時々ダンプのようなのも通り過ぎてゆく。ここは一体どういう町なのだろうかと、ちょっぴり不思議に思った。8時過ぎ頃から店に並べる野菜などを運んで、近所の人らしいご老人たち(その殆どは女性)がポツポツ集まってきて、何やら世間話に時を過していた。案内の資料によれば、この道の駅でも近くの海で獲ってきた魚などの海産物を販売するというので待っていたのだが、開店の9時近くになってもそれを運んできた気配は感ぜられず、全くの期待外れだった。野菜類もご老人たちが畑の隅でほんの少し作ったものの余りを持ってきたようなレベルのものばかりで、到底買う気にはなれなかった。

 

9時過ぎ諦めて出発する。次の大きな目的地はしまなみ海道の島々なのだけど、その途中を久しぶりに錦帯橋や宮島などの観光をしながら行く考えでいる。今日は先ずは錦帯橋を見物して、その後に宮島に渡って厳島神社などを観て回るつもりでいる。通行量の多いと思っていた県道25も、いざその車の中に混ざって走ってみると、さほどでもないのはどういうわけなのだろうか。少し走ってR2を右折して防府方面へ。しばらく山陽道の下を走って、間もなく山際のトンネルの多いバイパス道と思しき状況となり、人家は遠く離れた箇所の通行となった。燃料の補給をしなければならず、少し心配となったが、周南市の旧新南陽市の市街地に入ったので、もう大丈夫。少し安いスタンドを見つけて給油する。この辺りの油の価格は高くて、なんと高速道のスタンドよりも高い所が幾つかあった。石油の小売価格はこの辺りは北海道のそれよりも高いような気がする。因みに旅に出る前の守谷市内の給油所では軽油1Lは丁度100円だったが、中国道の給油所では113円、この辺りでは115円もしているのである。この大きな違いは一体何処から来るのか、謎である。山陽側であれば、少なくともコスト的には茨城県などよりは少ないのではないかと思うのだが、これは間違いなのだろうか。この辺の人たちは皆騙され続けているのではないか。そう思うほどである。どうも給油のこととなると、ムキになってしまう。幾ら高いといっても、入れなければ車は走らないのだから、ムキになったりしても仕方がないことなのだ。とにかく給油を終えてホッとして再出発。

 

旧徳山市を過ぎ、下松市からは山の方に入り、岩国市に向う。この辺りは初めて通る道なので、全く土地堪が無い。岩国市に近づくにつれて一層山の中を走ることとなった。岩国というくらいだから、ごつごつとした岩肌の山塊が連なる土地が多いのであろうか。錦川という清流が流れているのに出くわし、そういえば錦帯橋はこの川に架かる橋だったと気がついた。錦川に架かる太鼓帯のような形状だから、錦帯橋と名づけられたのかもしれない。今初めてその命名の由来に気づいたように思った。本当のところは分からないけど、無関係ではないような気がした。錦帯橋への案内板がある道を右折して少し行くと、右手の高い山の上に岩国城が見えてきた。そして目当ての錦帯橋も目に飛び込んできた。駐車場は錦川の川原が当てられているらしい。何台かの観光バスが止まっていた。一般車は無料で駐車OKである。凸凹の石の上を走るのには少し気を使ったが、タダだというので文句はない。

 

錦帯橋に来るのは40年以上も昔以来である。広島に出張で来た時に会社の知人が休日に車で連れて来てくれたのだった。当時はマイカーを所有している人は珍しく、知人はその珍しい人たちの一人だった。アンチ車派だった自分はまだ免許も取っていなかった。その時に見た錦帯橋はかなり古びていて、もっと黒っぽい色をしていたように思う。あれから40年以上も経っているので、当然大修理が行なわれたのであろう。詳しいことは知らない。とにかくこの橋が岩国城とセットになって、その昔の国を支えてきたことは明白だ。それにしてもあの城のある山の位置と高さは、如何なものであろうか。戦国時代の名残りを留めているのだろうけど、太平の治世には不便極まりなかったことであろう。以前、九州は竹田の岡城を訪ねた時も思ったのだけど、山の天辺近くにある城というものは、確かに難攻不落ではあっても、天下を取る人物が住むには相応しくないなということである。敵を寄せ付けず、上から見下ろして守って居るだけでは、世の中を手中にして治めることは出来ないからである。岩国城がどのような歴史を持っているのかは解らないけど、観光用としては、今は何の問題もない。

 

   

    40年ぶりの錦帯橋。太鼓橋の向うの山の上に、小さく岩国城が見える。いかにも日本の昔を偲ばせる景観である。

 

邦子どのは初めての錦帯橋ということで、歩いて橋を往復していた。自分の方は、橋を渡ることにはあまり興味が無く、橋の下からその構造などを覗くことに時間をかけた。よくもまあこんな複雑で面倒な仕事を先人たちはやってのけたものである。工人の才能を全く持ち合わせていない自分としては、ひたすらに感心するばかりである。

 

いつの間にか昼近い時間となっていた。邦子どのが、橋を渡ったついでに岩国寿司というのを買ってきたので、お湯を沸かしてお茶を淹れ昼食とする。岩国寿司というのはこの地の名物らしい。ちらし寿司のような押し寿司のような、子供向きのような大人でもゆけるような、なんだか変わった姿と味をしていた。自分にとっては名物に○○なしといった感じだった。酒飲み向きではないということかもしれない。

 

宮島は錦帯橋からはさほど離れていない。40分ほどで渡船の桟橋近くに到着。どこか適当な駐車場がないかと探したがなかなか見つからない。何しろ幅が2m以上もあり、高さも3mを超えているので、普通車が主体の駐車場ではSUN号は嫌われ者である。一回り回って、町営の駐車場で何とかならないかと覗いたら、バス専用のスペースに停めても良いとの話を貰った。バスがそれほど混んでいなかったのが幸いだったらしい。とにかく安堵して車を停める。宮島観光はこれで3度目くらいだろうか。広島には何度も来ていてもここに来ることはなかなか出来なかった。転勤で四国の高松に住んでいる頃、子供たちを連れて厳島神社に参詣したのが30数年前だったと思うが、それ以来の訪問である。台風などで神社の建物などが甚大な被害を被ったという話を聞いたのも、もう大分前のことのようだ。旅車で来ることになろうとは、30数年前には想像もできないことだった。時は流れ、人は変わるものである。

 

往復340円也の船の切符を買って乗り込む。国際的な人気スポットとなっているのであろうか、外国からの観光客も多い。北海道などと違って、中国系の人が少ないのに、なぜか安堵する。日本中を中国からの観光客が我がもの顔で歩き回っているのを見るのは、如何に観光立国とはいえ、チョッピリ抵抗を覚える。北海道で見る限りでは、中国からの観光客の人たちのマナーが良いとはお世辞にも言えない気がする。宮島観光は、中国の人たちからはあまり魅力を感じない場所なのだろうか。よく分からない。厳島神社の海中の大鳥居が次第に近づいて、写真を撮るなどしている内に、たちまち宮島の桟橋に到着した。

 

今日は厳島神社への参拝は最後にすることにして、何時もとは少し違った道を歩いて見たいと思っている。船着場広場前の細道を入って行くと、山辺の小径というのがあった。人一人が通れるほどの幅しかない。かなりの急な坂道を登ってゆくと、小高い丘の上に出て、そこが要害山という所だった。鹿君たちが黙って迎えてくれた。何とかいう神社(今伊勢神社)があったが、ここはその昔の毛利と陶(すえ)との古戦場だったとのこと。この小さな丘に300人余の毛利方が陣を張り、周囲に2万人を超える陶軍が取り囲んだという。毛利方が陣地を死守する内に本軍が陶軍の後背を突いて攻めかかり、陶軍は大敗を帰して壊滅したという。往時の景観がどのようなものだったのか、現在では想像もできないほどの樹木の生い茂る山ばかりの景色ではなかったか。歴史というのは、正確に掘り起こすことが難しい。

 

要害山の今伊勢神社からの急な石段を降りると、町家通りというのがあった。この島の人々が普通に暮らしている居住エリアなのだと思うけど、何しろ道幅が狭い。そこをひっきりなしに車が行き交うものだから、歩くだけで神経を使い疲れてしまう。ここに住む人たちはもう慣れておられるので、どうってことないのかもしれないけど、初めての者には大変だった。ぶらぶらと歩いてゆくと、厳島神社の裏手の方に出る手前に、五重の塔への道があり、朱色の建物が眼前に聳えていた。五重の塔は後回しにして、先ずは紅葉谷の方へ行って見ることにした。

 

紅葉谷はまだ紅葉が始まってはおらず、かなりの数のカエデ類もほんの少し赤みを帯びたものが目立つ程度だった。ロープウエイの所まで行って見ようとしたのだが、邦子どのは最初からギブアップで、あたしはもうだめだから、ここまでで引き返すようなことを言っていた。お好きなようにとしばらくそのまま坂道を登ったのだが、少し気になって引き返すことにした。勿論元の場所にいるわけもなく、既に何処かへ消え去っていた。

 

まあいいいやとしばらくは自分ペースで歩くことにした。ともかく五重の塔の所へ行くことにして、坂を登ってゆくと千畳閣という大きな建物があり、秀吉公が造られたとかの説明があった。何でも大きいものを造りたがる人ではある。こんな狭い所に何もこんなものを造らなくてもいいものを、などと現代人の感覚で批判したりしながら、五重の塔近くに行くと、邦子どのがいるではないか。なあ~んだと思った。写真などを撮っていると、風が吹いて寒いので、あたしは先に下の方に行くといって、階段を下りて行ってしまった。自分の方は、その後はもう一度千畳閣の縁の下などを眺めながら、厳島神社の脇の方へ出ることにした。参拝は有料なので一緒にした方が良かろう(というよりも、実は財布を車に置いてきてしまって、殆ど無一文なのだった)と思っていたら、邦子どのから電話があり、どこにいるのかという場所の確認だった。一応知らせたのだったが、その後がどうもいけません。幾ら待っても、何度も電話をしているくせに、場所の見当がつかないらしく、現れそうもないのである。仕方なく、大回りをして厳島神社の陸の方にある大鳥居をくぐっての道を行き、社務所の方に行ってみることにした。すると社務所の受付で入場料を払っている邦子どのの姿が見えるではないか。50mほどの距離で、声を掛けようかと思う間もなく、すっ飛んで中の方へ行ってしまった。というのも、丁度結婚式があったらしく、この際に舞う能面と古式の衣装を身につけた舞い手が、今丁度その舞を始めたらしく、その写真を撮ろうと一心のようだった。周囲のことなどは全く目に入らない様子だった。

 

   

    宮島の側から見た厳島神社の海中の大鳥居。実物はやはり雄大で荘厳である。

 

こちとらは何しろ入場料の300円すらも持っていないのである。入るのは諦めて、別の道を行くことにした。しばらく経って、電話があったけど、もう後の祭りである。おまけに携帯のバッテリーが突然赤表示になり使えない状況となってしまった。仕方がないので、遠くから厳島神社を拝み、渡船の駅まで行って待つことにした。30分もすると、紅葉饅頭を抱えた本人が何事もなかったような顔でやって来た。自分が財布を忘れるのは常習犯的なことなので、ただ呆れ返られただけだった。それにしてもお金がないと真に不自由なものだなと改めて思った。帰りのフェリーは、何だか満たされない気持ちだった。

 

車に戻り、今日の宿に向け出発。今日の宿は山陽道のどこかのSAを予定している。広島近郊には道の駅は無く、あるとしてもかなりの山の中の方となってしまう。明日はしまなみ海道入りをしたいと思っているので、直結している山陽道のどこかのSAに泊るのが好都合という考えである。廿日市ICから入って、最初に宮島SAというのがあったが、まだ17時前で明るく、泊る準備をするのは早過ぎるので、次のSAにすることにした。その小谷SAに着いたのは、17時40分だった。もう辺りはすっかり暗くなっており、丁度良いタイミングである。山陽道は中国道とは大違いで、何処のPAもSAも車が一杯である。小谷SAもかなりの混雑ぶりだった。トラックもかなりの数が停まっており、一般車も相当の混みようである。これじゃあ今夜は安眠は難しいかなと、半ば諦めての泊まりとなった。観光地を歩き回ったので、疲れもかなりあり、食事の後は寝床に入り、あっという間の眠りとなった。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第6日

2010-12-04 02:16:31 | くるま旅くらしの話

 第6日 <10月28日(木)>

          

【行 程】 道の駅:萩しーまーと → 萩市内・光国本店(菓子舗) → (R191・262) → 道の駅:萩往還<バッテリー不調のためJAFに救援依頼> → (R262・R9) → 山口市郊外イエローハット(バッテリー交換) → (R9) → 瑠璃光寺(山口市) → かんぽの宿湯田(入浴) → (R9・K61他) → 道の駅:あいお(山口県秋穂町) (泊)  <108km>

 

今日は良い天気のようで、朝6時半過ぎに起き出して外に出ると、青空が広がっていた。萩の周辺には小さな小高い山が幾つもあって、それらの山々にはびっしりと樹木が茂っているのが印象的だ。樹木の中心は松のようにも思えるけど、立ち枯れしているのが多く、松にとっては厳しい環境になっているのかなと思った。昨日訪ねた松蔭神社にある松下村塾という命名も、そこが松本村という所だったことから来ているとのこと。ということは少し昔の明治の頃までは、この辺一体の山には松の木が多かったのだと思う。松の木というのは、土壌が肥沃化すると枯れ易くなると聞いており、この辺りは中国大陸から偏西風に乗ってやってくる、何やらの化学物質がもたらす酸性雨によって土壌の肥沃化が進み、息切れした松に松食い虫などが取り付いて、枯らしてしまっているのかも知れない。中国地方に来ると、来る度に山の中に枯れた松が増えるのを見て、いつもその様なことを思うのである。

 

さて、今日は萩を後にする予定である。足掛け4日も費やして萩の街をウロウロしたので、一応は満足したことにしたい。まだまだ訪ねたい場所は幾つもあるし、本当に萩を知るためには、名のある所ばかりではなく、知られざる裏通りや山の中の細道などを歩いてみる必要があると思うのだが、今のところそこまで入れ込んで調べたりするニーズはない。明治の胎動となった人々を生んだ町の面影を、一応はつかむことが出来たように思う。

 

邦子どのが何やら萩名産の夏みかんを使ったお菓子を買いたいというので、9時からの開店まで道の駅にて過した後、その光国本店とか言うところまで向う。近くのスーパーに車を止め買物をしている内に、念願の菓子を手に入れた邦子どのが興奮気味に戻ってきた。その後、道の駅:萩往還に向う車の中で、そのお菓子の作り方などについて、店の人から聞いてきた講釈が始まったけど、その様な食べものにはあまり関心のない自分は、単純にああ、これは学んだことのおさらいをしているのだなと、適当なる相槌を打ち続けたのだった。

 

道の駅:萩往還は今回3度目の来訪となる。今日はこれから山口市の瑠璃光寺を訪ねた後、湯田温泉のかんぽの宿に立ち寄り湯をして、それから秋穂(あいお)町にある道の駅:あいおに行って泊る予定でいる。時間的にかなり余裕があるので、ここで旅の記録の整理などをして昼近くまで過すつもりでいる。いい天気で、車の中に居るのは勿体ない気がするけど、ソーラーが活躍している今の内にパソコンを使うのが電源管理上一番安心である。電気というものを、もっと効率的に貯めておけるツールを、どなたか考え出して頂けるとありがたいと思う。使わない電気は貯めない限りそのまま無駄に消えてゆくというのは実に大きな損失だと思う。今のような重量の大きいバッテリーでは、旅車にたくさん積むことはできないし、外部電源を使えるような環境には殆どなっていないので、この問題はくるま旅くらしでは一番悩ましい。とにかく節電するしかない。ソーラー発電は天気次第だから、雨や曇りの日が続けば、お手上げなのだ。その様なことを考えながらしばらくパソコンに向かい、一段落したので少し早めだけど出発することにした。

 

ここで、一大トラブルが出来(しゅったい)したのだった。邦子どのが助手席に坐り着いて、さて出発!とエンジンキーを回したのだが、これがかからない。何度やってもダメなのである。その内にウンともスンともいわなくなってしまった。いやあ、こりゃあ参ったね。一昨日も一度エンジンがかからずにあせったことがあったのだが、その時は運よく作動してくれて難を逃れたのだったが、あまり深く考えることも無く、ちょっと機嫌が悪かったのだろうと、その程度にしか考えず、そのまま放置していたのである。とにかくどうしようもないので、JAFを呼ぶしかない。電話をして救援を依頼した。30分ほどで到着するとのことだった。

 

待つこと15分。この間にバッテリーを覗いて見たら、3個あるうちのメインのものが液も少なくなっていて、接続部分に白っぽい粉がふいていた。こりゃあ、ダメだなと思った。ここ数年バッテリーを自分でチエックしたことがなかった。メインバッテリーはもう5年ほど経っている筈だ。2個あるサブの方はソーラーを取り付けた3年ほど前に新しくしているので、まだ大丈夫だと思うけど、メインの方は何の手当てもしていなかったので、寿命が来てしまったようだ。思ったよりも早くJAFの人が駆けつけてきてくれて、チエックをして頂いたら、やはりメインのバッテリーがダメになっているとのこと。丁寧に清掃をして、電圧を計って頂いたのだが規定値には満たず、交換が必要とのこと。容量の大きいバッテリーなので、萩には在庫している所が無いかも知れないという話なので、山口まで行って専門店を探すことにした。応急にエンジンを掛けて頂き、とにかく山口市内に向うことにする。JAFにはいつもお世話になっており、このような時には真に心強くありがたい。親切丁寧な対応に深謝、多謝。

 

それから後の運転者の心理は、一言でいえばヒヤヒヤの連続である。とにかくエンジンを切ったり、エンジンが停まったりしてしまったら一巻の終わりで、その場所でもう一度JAFにお願いするしかない。萩から山口までは坂道ばかりの連続で、慎重な運転を心がけ続けた。ようやく山口市内に入ったのだが、直ぐに見つかると思った専門店がなかなか現れないのである。R9はバイパスとなっていて、もしかしたら旧道の方にその様な店があるのかもしれない。迷いながら10kmも走った辺りにようやくイエローハットがあるのを見つけた。在庫が無かったときのことを考えて、念のためエンジンを掛けたままにしておいて、店の人に交換をお願いする。幸いなことにOKとのこと。やれやれである。いやあ、反省しきりである。旅に出る前には、バッテリー以外の部分は入念に点検整備をしてもらっているのに、何という手落ちだったか!これからはしっかりと見るようにしようと改めて心に誓ったのだった。

 

30分ほどで交換完了。14時になっていた。まだ時間は十分あるので、来た道を戻って瑠璃光寺に行くことにする。瑠璃光寺は五重の塔が美しい。以前に来たのは何年前だったろうか。もう5年以上も経ってしまっているような気がする。案内表示に従って行って見ると、以前の駐車場とはかなり違っていた。場所も以前は確か最初に鴬張りの石畳とか言うのを歩いて五重の塔に向ったように記憶している。あの時よりはずっと広くきれいになっていて、ここが人気スポットであることを証明しているようだった。

 

先ずはお寺に参詣して般若心経を唱える。その後は五重の塔の写真などを撮りながら、ゆっくりと境内の中を散策した。その昔の西国の雄だった大内氏のことをもっと知らなければいけないなと思いながら、家に帰る頃にはすっかり忘れ果ててしまうのがいつもの自分だけど、今回もまた同じ結果となるのかもしれない。境内に建っている大内弘世公が馬上に跨った像を見ながら、又同じことを思った。確か大内氏に引導を渡したのは、毛利氏だったのではなかったか。歴史の変転は、今の時代とは無関係のように思えるけど、やっぱり知ることは興味深い。少し離れた鴬張りの石畳という所にも行って、足を踏み鳴らして音が響くのを確認した。とてもウグイスというわけには行かないけど、確かに鈍い反響があって、恐らくその昔であれば、今よりは遙かに周辺が静かだったであろうから、随分と評判になったのであろう。いい時間だった。

 

     

 

山口市にある瑠璃光寺・五重塔。この池に映る姿が美しいのだが、今日は少し風があって、いい写真が撮れなかった。ここに来ると、毛利の前の時代の歴史の雅のようなものが漂うのを感じるのである。

 

1時間ほどで瑠璃光寺に暇を告げて出発。次は温泉に入るつもりである。かんぽの宿というのに立ち寄り湯が出来るのを調べておいたので、そこへ行くことにしたのだが、住所までは調べなかったため、これがなかなか見つからない。湯田温泉というのはそれほど大きくも無いと思うし、かんぽの宿というのは全国各地にあって、大抵は分かりやすいように案内板などが掲出されているので、行けば分かるだろうと高を括っていったのだが、湯田温泉外の中心道路を往復しても見つからない。諦めかけてR9に出ようと十字路を曲がって少し行った途端に、案内表示が目に飛び込んできた。ヤレヤレである。とにかく見つかったので大急ぎ入浴の準備をしてフロントへ。お一人様500円也。ま、普通の値段である。ここも温度の低いお湯だったが、よく温まってまあまあの温泉だった。小一時間ほど入って、先ずはリラックスする。何といっても今日はとんだトラブルを招来して反省しきりである。反省はお湯に流して気分転換が何よりも大切、などと自分に言い訳をしてお湯を出る。

 

さて、後は今日の宿を予定している秋穂町の道の駅に向うだけ。小郡町を通り抜け、R2沿いに行くと案内表示があったのでそれに従って秋穂町に向う。秋穂と書いてあいおと読むのは難しい。秋という字をあいと読むのは、例えば宍道湖の湖畔に秋鹿と書いてあいかと読む道の駅があるので知ってはいたけど、穂をおと読むのは気づかなかった。赤穂というのがあるから、あれと同じなのかも知れない。地名にはそれなりの謂れの様なものがあるのだと思うが、さて、秋穂とはどういうところから来ているのだろうか。なかなか興味あることである。そんなことを考えている内にたちまち道の駅に到着。

 

まあ、想像していたよりも遙かに小さな道の駅だった。駐車場も狭くて、普通車の所に止めるのは難しいので、道路の向側にあるもう一つの駐車場の少し大きいエリアに車を停めることにした。道の駅は小さいけど、ここの県道の車の通行量はかなりのもので、ひっきりなしに車が通過して行く。スピードを落とさないままの直線道路なので、横断には神経を使う。泊るのがこの道の駅で本当に良かったのか、チョッピリ反省したが、後悔先に立たずである。とにかくお世話になることにした。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第5日

2010-12-03 04:45:35 | くるま旅くらしの話

 

 

5日 <10月27日(水)>

       

行 程】 道の駅:萩往還 → (R262・191) → 萩市内・菊ケ浜駐車場 → 市街地散策(指月城・鍵曲他) → 菊ケ浜駐車場 → 萩市内散策(湯川家・桂宅~松蔭神社) → 道の駅:萩しーまーと (泊)  <36km>

 

探訪の第2日目はお城と昨日行けなかった城下町の史跡、それに松下村塾などを回ろうと考えている。昨日は夜遅くまで荒れ狂った天気も、朝方にはすっかりおとなしくなって、四方の山の木々たちもホッとしている感じがした。それでもまだ雲は多く、青空はほんの少ししか見えなかった。昨夜は夜中に目覚めた後、起き出すことをしなかったので、その後なかなか寝付けず、それが仇になってようやく眠った後は、今度は眠り過ぎたようで、目覚めたら8時近くになっていた。旅先でこんなに遅く起きるのは滅多にあることではなく、ま、今日ものんびりと萩の町を歩くだけという気楽さからそうなったのかも知れない。

 

食事の後あれやこれやとやっているうちに、出発は9時半近くになってしまった。昨日と同じ菊ケ浜の駐車場に車を入れて、散策用の靴に履き替え、カメラをチエックして出発となる。昨日は終日唸り続けた防砂林の松たちも今日は静かで、その向うにある海もまだ少しうねりは残っているものの、次第に穏やかな表情となってきていた。やはり町の散策には天気は穏やかな方が良い。先ずは指月城跡を目指す。ここからは歩いて10分ほどの所である。車でも行けるのだろうけど、駐車場探しなどが厄介なので、遠くない場合はなるべく歩くようにしている。

 

萩城(=指月城)は、海に突き出た143mの高さの指月山の麓にあって、丁度海からの風を避けられるような位置に造られていた。といっても城郭の建物が現存しているわけではなく、残っている建物といえば、神社や移築された茶室くらいしかなく、あとは幾つかの記念碑などが点在しているだけだった。現在は城址全体が有料の公園になっているようである。萩城は、阿武川のつくり出した扇状地を千切って、指月山の麓に城を造ったという感じがした。れ故に扇状地の城下町に住む人たちにとっては、この城は格別な場所であったに違いないと思った。残された城郭の石垣には、往時の多くの人たちの労苦が滲み込んでいるに違いない。何しろ西国八国の大大名であった毛利氏が、関が原の戦に破れて、防長二国という貧地の、しかも日本海に面した小さな湿地帯に新たな居城を築かなければならなかったのだから、輝元公を初めとする一団の武士たちの思いは、ことばでは言い尽くせないほどに厳しいものだったと思う。その中心的なシンボルとしての萩城は、豪壮さというよりも、城下に住む人々が、安心してそれを望めるような存在のものであったに違いない。天守閣の跡地に登って、眼下に広がる町や遠くの山々を眺めながらそう思った。

 

海に面した石垣の上から東の方の山を眺めていたら、公園の受付をされている方が上がってこられて、東の方を指差しながら、あの辺りが昔松本村と呼ばれていた所です。松下村塾という命名は、その松本村にあった塾というところから来ているのです、と教えてくれた。なるほどと納得した。長州藩が一時は内部分裂をしながらも最終的には藩が一つにまとまって維新に大きな役割を果たし得たのは、このお城を中核とした二百数十年にわたる抑圧されたエネルギーが噴出したからなのであろう。歴史を動かしていたのは個々人であったのかも知れないけど、全体の流れの中では、その個人を生み出しているものは、もっと大きな集団の力なのではないか。公園を一回りして、後にしながら様々なことを思った。

 

お城を出た後は、もう一度城下町の方を歩いてみようと足を向ける。特に邦子どのが鍵曲というのを見たいというので、堀内鍵曲というのを目指す。鍵曲というのは、「かいまがり」と呼び、これは城下町特有の敵の侵攻を防ぐための鍵辻のことであり、突き当たりに強い壁塀を作った直角に曲がる道路のことをいう。どうしてそのようなものを見たいのか良く分らないけど、彼女の関心の対象らしい。そこへ行く途中に口羽氏住宅というのがあり、そこへ寄った。口羽氏というのは毛利家の庶流に辺り、藩の中では1,018石を給される寄組士で、代々三の丸に居住していた、と説明板に書かれていた。現存する屋敷をざっと見学したが、昨日の幾つかの屋敷とさほどには変わらず、なるほどと思うだけだった。邦子どのは以前東京江戸たてもの園で古民家などのガイドをしていたことがあり、この種の建物のことについては、何やらうるさい人なので、熱心に見学をしていたようだった。その後鍵曲の方も歩いたけど、これはもうただなるほどと見るだけである。その他ぶらりと気の向くままに歩いているうちに昼時近くとなったので、車に戻り昼食休憩とする。

 

昼食の後は、同じ城下町内ばかりでなく、少し離れた所にある桂太郎の旧宅とその近くにある旧湯川家屋敷というのへ行ってみることにした。ここからはかなりの距離があるので、これは車で行くしかない。阿武川が二手に分かれて扇状地をつくっているその分かれ目に近いあたりにそれらの建物はあった。指月山からは一番遠い距離にある場所である。川沿いの細い道を進んでゆく時はヒヤヒヤしたけど、どうにかことなきを得て、旧湯川家屋敷の駐車場に着くことが出来た。この家は、藍場川という城下町を通って流れる小さな運河を利用する形で作られており、台所も風呂場も川の水を利用できるように、「ハトバ」というのが作られており、なかなか面白いものであった。藍場川という運河は、大へん綺麗な水が流れており、コイやハヤなどの川魚が何匹も元気に泳いでいるのが見られた。人と自然との共生の一つの姿のようなものをそこに見ることが出来る。ハトバでは、人が使った水も浄化したものを排水するようにつくられており、先人が自然との関係を大切にしていたことが伝わってくる。

 

すぐ近くに桂太郎の旧家というのがあった。この人のことはあまりよく知らない。軍人出身で総理大臣を3度も勤めた方だということぐらいは承知しているけど、幕末の維新においてはどのような働きをされたのか良く分らない。庭の中に、拓大創立100年に際して寄贈された銅像が建っており、その脇に中曽根康弘書の拓大校歌の刻まれた碑があった。拓大創立に関わりがあった方らしい。明治から大正に移る辺りの時代は、軍部の暗躍が際立った頃であり、自分としてはそのような時代に生まれなくてよかったと思っている。桂太郎という方は、この時代では功罪相半ばしているのではないか。勝手な推測判断であるけど。

 

1時間ほど過した後、もう一度菊ケ浜の駐車場に戻り市内を散策することにした。やはり今回は萩城城下町といわれるエリア辺りを中心に歩いて見ることにした。昨日も歩いているけど、とても全部というわけには行かない。菊屋家住宅というのがあり、これは往時の豪商の屋敷ということだけど、入場料が高くて面白くないので、その向かい側にある久保田家住宅というのを見学することにした。こちらは酒造と呉服を商っていたということである。どちらか一つ見れば、商家のありようがある程度見当がつくのではないかと思った次第。かなり大きな家で、幾つもの部屋があり、それらをざっと見て回ったが、個々を見ていると全体を忘れてしまいそうになり、このような見学もなかなか大変なものだなと思った。一番印象に残ったのは、台所の片隅に並べられていた往時使われていたらしい酒を入れる甕や大形の徳利だった。欲しいのである。一升くらい入る大形の奴があったらいいなと、常日頃思っている。住宅の見学を終えて外に出るときに、近々萩で行なわれるイベントの事前視察で訪れたらしい県と市のお偉いさんらしい人から声を掛けられた。どこから来たのですかという問に、茨城県のつくばからだと答えると、たくさんお金を落としていって下さいといわれた。しばし唖然とした。こんな正直な役人を見たことが無い。役人というのは、本当のことをなかなか言わないで、遠まわしの物言いをする人が多いように思っていたけど、ここは直截的らしい。しかしまあ、それにしても老人に対して金を使って行けという言い様は、如何なものであろうか。

 

その後は萩城城下町と呼ばれるエリアに、幕末から明治にかけての活躍の大きかった人物の生家や旧宅などを訪ねた。木戸孝允、青木周弼(しゅうすけ)、などである。それらの所感を述べることは省略したい。まだ少し時間があるので、やはり松蔭神社には参拝しなければなるまいと、車に戻って神社に向け出発する。

松蔭神社は何回か訪れている。言わずもがな、吉田松陰を神と祀った神社である。菊ケ浜からは車で10分足らずの距離である。行ってみると、もう16時を少し過ぎているというのに、大変な混雑ぶりである。観光バスが何台も止まっている。中学生くらいの子供たちが多いようだった。その内の一人に訊くと、長崎県大村からだという。修学旅行なのか、子供たちはきゃあきゃあ言いながら動き回っていた。この中で吉田松陰という人物に、本当に関心があって見ている子供は何人ぐらいいるのだろうかと思った。歴史関係の試験で、松下村塾関連の出題に備えなければならないなどと思って見ている子供もいるのかもしれない。試験が不要になればシャボン玉が破裂するように、歴史のことなど忘れ果ててしまう人が多いのが世の常であるのだから、子供たちに多くを期待して説教めいたことを考えるのは、化石爺様の戯言(たわごと)というべきであろう。神社の境内にある松下村塾の貧しい建屋と松蔭が幽閉されたという家屋を見ながら、時代のあまりの変わり様を思ったのだった。

 

急ぎ参拝した後は、せっかくなので近くにある伊藤博文の生家と東京から移築したという別邸を見に行く。ここは初めてである。伊藤博文は初代の総理大臣として著名であるけど、そこに至るまでのプロセスには並々ならぬ刻苦の努力のあった人のように思う。それは生家を見てそう思うのである。身分制度の厳しい時代に低い身分に生まれ、その垣根を乗り越えてこれだけ活躍するためには、半端な生き様では到底為しえないことは明らかである。生家の脇には功なり遂げた後の象徴のような別邸が移築されていたが、自分としては麦わら屋根の質素で小さな生家の方に、この人物の本物の姿を感ずるような気がした。

 

伊藤博文の生家に行く途中に、吉田稔麻呂()の誕生の地という石柱があったが、若くして池田屋の変で命を落としたこの人物の無念を思った。17時近くになっており、かなり暗くなりだしたので、今日はここまでにして車に戻る。これで凡その萩の様子は呑み込めた感じがする。とりあえず今回はこの程度にしておこうと思った。

 

今日の宿は海の傍の道の駅:萩しーまーとにすることにして、そこへ向かう。直ぐに到着。もう風はすっかり収まっており、泊るのに不安は無い。自分たちの他にも、何台かの旅車が泊るようだった。とにかく歩き疲れているので、夕食後はまっしぐらに寝床に潜り込むこととなった。

<お詫び> 写真を載せたいのですが、文字数に制限があるため、掲載できません。余裕が生まれた時だけ挿入するようにします。

 

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第4日

2010-12-01 04:57:58 | くるま旅くらしの話

 

4日 <10月26日(火)>

          

行 程】 道の駅:萩往還 → (R262・191) → 萩市内・菊ケ浜駐車場 → 市街地散策 → 菊ケ浜駐車場 → 道の駅:萩しーまーと → ホテル・萩の浜(入浴) → (R191・262) → 道の駅:萩往還 (泊)  <40km>

 

今日は天気が心配である。昨夜から雨がひどくなり、風も次第に強くなってきている。朝になって雨の方は小降りとなり、降ったり止んだりの状態だけど、三方を囲んだ山の樹木たちは時折吹く強い風に大騒ぎをしている。市街散策は傘なしでは無理かなと思いながら朝ごはんを済ませて出発の準備をする。とにかく今日から念を入れて萩の街を歩き回るつもりでいる。

 

9時10分、道の駅を出発。昨日下見をしているので、迷うことはない。先ずは菊ヶ浜の無料駐車場を目指す。駐車場に着いて外に出ると、ものすごい風である。周辺の松ノ木がものすごい音を立てており、その向こうの海は唸り音を発して白波を立て、黄色く濁って歯をむき出している。いヤア、とんでもない荒天だ。幸いなことに雨は止んでいて、走る雲間からは時々青空が見え隠れしている。とにかく来てしまった以上は、一日を無駄にすることは出来ないから、念のために傘を持参することにして散策に出かけることにした。

 

駐車場の道路の向側から先は、直ぐに昔の武家屋敷の一角となっているらしく、細い路地を入って行くと、石垣や白塀に囲まれた家々が並んでいた。かなり広い敷地が多いのを見ると、中級以上の武士達の住まいがあったのかも知れない。その様なことを思いながら散策を開始する。それから12時近くまで歩き回って訪ねた主な屋敷等を上げると、次のようになる。

 1.旧周布(すう)家長屋門

 2.旧繁澤家長屋門

 3.旧益田家物見矢倉

 4.井上剣花坊句碑(数箇所)

 5.旧明倫館跡

 6.旧児玉家長屋門

 7.平安古(ひやこ)

 8.久坂玄端旧宅跡

 9.春日神社

10.高杉晋作旧宅

11.城下苑(萩焼の店)

12.田中義一銅像

13.菊屋家住宅

これらの中で、特に印象に残ったというか、こころを動かしたところを3つほど挙げると、次のようなことがある。

 

先ず一番目は久坂玄瑞の旧家跡にあるこの人の墓碑めいた記念碑の場所である。幕末に活躍した長州藩の数多い人物の中で、その命を永らえることなく若くして動乱の中に消えていった人も多いのだが、その中で自分として最も惜しかった人物といえばこの久坂玄瑞と吉田稔丸(稔麿)ではないかと思っている。久坂玄瑞という人は、これから本番という時に自ら進んで凶禍に遭って落命した人である。松下村塾の中では最も期待されていた人物の一人と聞く。存命だったらなどと歴史の現実を枉げても仕方ないことではあるけど、その後の維新の在り様も変わっていたのかもしれない。惜しい人物だと思う。頭脳明晰で行動力もあるという人物は、師の松蔭がそうであった様に、変動の波を巧みに乗り切るという様な器用さを持ち合わせていなかったのかもしれない。吉田稔麿という人も、激動の歴史の中では久坂と同じ様な命運を辿ったのではないかと思えるのである。

 

次は田中義一という人物である。総理をつとめた人ということだが、今まで自分の中では取り立てて印象には残らない人物であり、ここへ来て銅像を見るまでは全く知らなかったといってよい。それが、銅像の説明文を読んでいて、チョッピリ印象が変わったのである。というのもこの人は維新からは少し後の世代で、昭和の初め頃に活躍したようなのだが、その出身が藩主の駕籠かきの倅だったということに驚いたのだった。馬の骨としては、由緒ある駕籠かきなどというものは俄かに信じがたいのであるが、それにしても時代の大きな変革の中で、立身出世の階段を上り詰めて一国の総理となったというのは、まさに見上げたものといえよう。その生き様に関して急に興味を覚えたのだった。昭和前半のいわゆる戦前の時代は、ある意味では明治や大正の先人たちの遺産を、軍部を中心にした輩が食い潰して、愚かな太平洋戦争を以て国を破滅させたのであるが、この道筋の中で田中義一という人はどのような役割りを担われたのか興味を覚えた次第である。帰宅後調べてみたいなと思った。

 

三番目は、高杉晋作という人物である。この人物の幕末に果たした役割は大きい。その内の最大のものは、何と言って奇兵隊の組織と運用であると思う。武士以外の者を戦力として活用するという発想は、太平の世が長く続いた江戸時代には無かったのではないか。身分制度などを乗り越えて実効性のある軍隊を組織し、それを自らが率いて勝利の実践を示したことが、長州が維新に貢献できた基盤となっていると思うからである。惜しくも若くして病に倒れ、その後の世界を見ることが出来なかったけど、この人物の存在感は実に大きなものがある。

 

その生家は萩城城下町のほぼ中心辺にあり、現在残っているのは往時500坪あったという屋敷のホンの一部だった。維新で活躍した人たちの中にあって、高杉家は200石だったというから中堅くらいの家格だったのではないか。それにしてもあの大胆な発想と行動力はどのようにして培われたのであろうか。興味津々である。彼の行動力の源泉となったのは、藩命による上海渡行の経験だったように思っている。上海の現状から世界の動きを知ったとき、目からウロコで自分が日本のために何をしなければならないのかという決心が現出したに違いない。薩長連合の坂本龍馬の申出でに逸早く賛同したのも、海外の情勢を目の当たりにした経験が大きく影響しているのだと思う。

 

 ま、そのようなことを想いながら、わずかに残っている座敷などを見学した。「西へ行く人をしたひて東行く心の底そ神やしるらむ」との一首が書かれていたけど、まあ、この時代の人はやたらに変名を使ったりして、自分というものを分身させているように感じた。それにしてもこの人が何故西行を敬慕したのか良く解らない。やはりこの時代の多くの人には、無常の感覚は大切なものだったのだということであろうか。近々すぐ近くの小さな公園にこの人の銅像が建つというのを、生家近くにある城下苑という萩焼の店の方から伺った。行ってみると、もう既に除幕式を待つ準備が出来上がっているようで、業者の人たちが最後の仕上げ工事をしているようだった。幕に包まれたその中にどのような姿・表情が用意されているのか興味を覚えたのだが、それは今度来たときの楽しみとなる。

  

以上が今日感じたことである。とにかくずーっともの凄い風で、歩くのに往生した。先ほどの城下苑という店で、今夜も一杯やる時のためにと、萩焼の徳利を買った。良い酒には良い徳利と良い盃が不可欠である。コップ酒も悪くは無いけど、幕末の人を想うて酒を飲む時には、コップはあまり相応しくないように思う。12時半頃まで街中を散策した後車に戻り、もう一つの道の駅:萩しーまーとへ行き昼食休憩。ここは直ぐ裏が海であり、もの凄い風に大波が打ち寄せていた。駅舎の中に魚介類を販売する市場のようなものがあり、その内の一つの店で、金太郎と呼ばれている魚の南蛮漬けを買った。今夜の肴にするつもり。維新の志士たちもこの魚を食べたのであろうか。

 

食事の後はしばらく休憩して、3時ごろに先ほどの菊ケ浜にあるホテルの温泉に入りに出向く。ホテルは海の直ぐ傍にあり、窓から見る日本海は、今まで見たこともないほどに荒れ狂っていた。そのような景色をなるべく見ないようにして、ゆっくりと久しぶりの温泉を楽しむ。温(ぬる)めの湯だったけどよく暖まって、良い湯だった。風呂から出て、今夜の泊りは面倒でももう一度道の駅:萩往還にすることにして移動する。海の傍のこの風では、眠るのには少しばかり勇気が必要だ。そのような勇気はなるべく使いたくない。

 

20分ほどで昨夜と同じ道の駅に。泊りの人など誰もいないようだ。山の中の一台ぽっちの泊りというのも、些か心もとない気がするけど、もう馴れているので、大丈夫である。先ほど買った金太郎という魚の南蛮漬けは酒にはぴったりの獲物だった。金太郎という魚は関東では見たことが無い。萩に住む人たちは恵まれているなと羨ましく思いながら、今ここでその美味と美酒を味わえる自分も幸せ者だなとしみじみ思ったのだった。

 

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