山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

電子辞書をもらう

2010-12-25 00:15:43 | 宵宵妄話

 

たち夫婦には二人の男の子がいます。私は彼らが独立してからは、基本的に自立を前提とした親子関係を重視しています。つまり本当に本人が困り、悩んでいるときに助け合うことは当然ですが、普段の暮らしぶりについては、干渉をしないという考え方です。一般に、子どもが元気な親に対して干渉するというケースは少ないようですが、元気な親が(或いは元気でなくても)子どもに対してあれこれ干渉する(或いはしたがる)という事例はかなり多いように思います。やはり何かと心配なのでしょう。

 

で、私は子どもに対して何の心配もないのかといえば、実のところは大ありです。子どもの現在や将来を全く心配しない親なんているはずがありません。もしいたとしたら、それはもう親などというものではないでしょう。ですから、子どもに対してちょっかいを出したがるというのは、本来許されて然るべきことなのかもしれません。

 

しかし、私は子どもの自立にとって一番大切なものは、本人がそのことを意識や行動においてしっかりと確立することだと思っています。そのためには親の干渉というものは百害あって一利なしと心に決めているのです。これはとり様によっては、随分と冷たい考えとなることは重々承知の上のことです。子どもの何ごとに対しても最初から丁寧に助言して、本人が正しい道を選択できるようにしてやるのが親の務めだとも思いますが、その務めの時期は最大限社会人となる前までであり、それから後の出来事は、子ども自身が己の判断・決断で進めるべきもので、例えその結果が誤っていたとしてもその責任は自分で取るべきと思うからです。

 

何でも親の言う通りに従って、何ごとも誤らないなどという人物がいたとすれば、それはロボットに近いというべきでしょう。人間というのは、自分で考え、自分で悩み、苦しみ、悲しみを存分に味わって、それを乗り越えて初めて成長するのだと思います。それらのプロセスを脇で黙って見ている親の気持ちというものは、相当に辛いものですが、これは子どもの成長のために親が耐えなければならない試練の一つなのだと思います。手助けをするのは、本人の成長のためにその手助けが本当に必要なのだと心底思った時だけです。この判断はかなり困難だと思いますが、本人を見ていれば自ずと気づくように思います。

 

さて、偉そうなことを述べましたが。親というのはやはり平凡な人間であり、親子関係での建前と本音とのギャップはそれほど大きくはありません。どんなに難しげな理屈でも、それを現実に当てはめれば、その殆どは当たり前のこととなります。私の倅は、二人ともとっくに成人して自立している現在では、普段の親子関係はお互いを労わりあうなどというものではなく、親子共々それぞれが元気で暮らしていれば良いというだけの関係となっています。

 

ところで、閑話休題。タイトルに戻るには少し長すぎる前置きでした。電子辞書をもらうという話でした。

 

先日突然長男から話があり、食事会をしたいけど都合はどうかという申出ででした。一瞬何のことだと不可解に思ったのですが、言われた日時は、毎日が休日の身には不都合である筈もなく、勿論OKと答えたのでした。何の食事会なのかと聞くと、親父の古希の祝いだというのです。それで二男の方もやって来て一緒にということでした。いやあ、少なからず驚きました。かつてこのような申出でがあったのを記憶していません。嬉しいなんぞという感情が湧いてきたのは、それからしばらく経ってからのことでした。どうやら食事会のことなどについては、事前に家内と相談していたらしく、知らないのは自分だけだったようでした。

 

で、プレゼントをしたいというのです。何がいいのかといわれても、思いつくものなどありません。すると電子辞書はどうかという話でした。その提案は、家内の助言らしく、私が最近愛用の電子辞書が時々言うことを利かなくなって来ていて、愚痴っているのを聞いていたからなのでしょう。そう来ると思っていたらしく、用意していたカタログを取り出しました。悪い話ではないなと思いました。とにかくカタログを見て、考えることにしました。

 

翌日良さそうと思われるメーカーと機種等を、カタログを参考にして家電の店に見に行きました。何種類もの製品が並んでいましたが、10年ほど前に買った現在のものとはその機能が飛躍的に拡大されているのを知り、驚きました。辞書などという言葉の持つイメージを超えています。音声や動画までが入っているのです。これ1台持っていれば、日常の大抵の出来事を調べたり、解決するには十二分といえるほどのものでした。価格も10年前に買った、当時の最高性能の製品の半分ほどなのです。あれこれ見比べて気に入ったのを決め、お願いすることにしました。

 

食事会はイタリアンレストランでした。これは私よりも家内を重視したようで、酒飲みの私にはワインはちょっぴり嬉しくもあり・なしという感じでした。会食の会話の中では、昔から外食をしない主義の親父が、子供の頃辛うじて連れて行った蕎麦屋の話などが持ち出され、それが又妙に詳しく覚えているらしく、子供というものは外食に憧れるものなのだなというのを知り、ちょっぴり苦い薬を飲まされたような感じがしました。日曜日に子供連れのファミレスなどが流行るのは、親の手抜きだと思い込んでいるのですが、これは少し修正しなければならないようです。ま、我が家の場合は既に手遅れということでありましょう。

 

何はともあれ、最近では超珍しい我が家の親子4人水入らずの会食が終って、改めてその電子辞書のプレセントを頂戴したのですが、渡す方も渡される方も照れくささの方が優先しているために、その受け渡しは真にブッキラボーの省略的なものでした。女の子でしたら、随分とムードが違うのでしょうが、男同士では、ま、このようなものだろうと思っています。

 

滅多にない出来事は事件のようなものですが、倅共がついに親父のロートル入りを確信し出したのだなと思いました。この事件は、嬉しさよりも寂しさの方が少し勝っているという気持ちですが、同時に自分自身もこれから先の老いの自立をしっかりしなければと思った次第です。子どもたちにとっての親への思いが、どのようなものであるのかはわかりませんが、老いたからといってやたらに擦り寄ってきたり、もたれかかってこられるような存在であって欲しくないということは言えるのではないかと思います。家内の方は可愛い母親ということでいいと思っていますが、自分の方は、もうしばらく、PPKの時までは、かわゆくない親父でいいと思っています。

   

倅どもから古希のプレゼントとして頂戴した電子辞書。さて、今の自分の人生のロケーションはどういうものかといろいろ辞書を引いてみたけど、どうやら現代では、古希ではなく、ロートル(=老頭児~中国語)の入り口に居るといった状況なのではないかと思った。

コメント (2)
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