山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第11日~13日(その1)

2010-12-09 00:28:09 | くるま旅くらしの話

 

第11日~13日の各日の行程】

 

第11日 <11月2日(火)>

 

行 程】 道の駅:しまなみの駅御島 → (K21・51) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (多々羅大橋を大三島から瀬戸田PAまで歩いて往復散策) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (K51) → 盛港広場 → (K51・21) → 道の駅:しまなみの駅御島 (泊)  <23km>

 

第12日 <11月3日(水)>

 

行 程】 道の駅:しまなみの駅御島 → (K21・51) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (多々羅大橋を大三島から瀬戸田PAまで歩いて往復散策) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (K51) → 盛港広場 → (K51・21) → 道の駅:しまなみの駅御島 (泊)  <24km>

 

第13日 <11月4日(木)>

 

行 程】 道の駅:しまなみの駅御島 → (K21・51) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (多々羅大橋を大三島から生口島まで歩いて往復散策) → 道の駅:多々羅しまなみ公園 → (K51) → 盛港広場 → (K51・21) → 道の駅:しまなみの駅御島 (泊)  <26km>

 

<11月2日~4日の島暮らしの様子>

 

11月2日から4日までの3日間は、その各日の行程を書いてみると全く同じ様なものとなる。要するに同じ様な暮しのリズムでこの3日間を過したことになる。勿論その個々の内容は全く同じというわけではないけど、その内容を一々書いてもつまらないので、3日分をまとめて島暮らしの凡そを書くことにしたい。

 

◇何故大三島なのか?

 

先ず最初に今回の旅で、島暮らしに何故しまなみ海道の大三島を選んだのかということなのだが、それには幾つかの理由がある。しまなみ海道には計6つの島がある。そのどの島でも滞在しての島暮らしは可能だ。先回しまなみ海道を訪れたときには、その6つの島の全てに足を延ばして、下見のつもりで、それぞれの島の様子を見て歩いたのだった。大三島には二つの道の駅があるけど、他の島にも道の駅はある。したがって必ずしも道の駅があるからというのは選ぶ理由にはならない。というのも、どの島にも車を止めての宿泊可能な場所は幾つもあるのである。

 

この島を選んだ最大の理由は、入浴施設、即ち温泉が3ケ所もあるからだ。旧上浦町に二つ、それに旧大三島町にも一つ温泉入浴施設があるのである。その他の島には今のところ新しく温泉入浴施設などが出来たという話を聞いたことが無い。旅をしていて、満たされた心情になるのは、何と言ってもゆったりと湯に浸って、心身の疲れを洗い流すことであろう。温泉でなくとも差支えは無いのだけど、入浴施設がないというのは困ったことなのである。

 

次にこの島を選んだ理由は、多々羅大橋の存在だ。この美しい橋を毎日歩くという楽しみをもう一度実現させたいと思ったのである。しまなみ海道には計10本の橋が架かっているけど、その中で最も美しいのがこの多々羅大橋だと思っている。橋の長さでは来島海峡大橋(3本の橋で構成されているが、その内の2本は多々羅大橋よりも長い)の方が歩き応えがあるのだが、3本を通して歩くとなると往復8kmにもなり、気象条件などを考えると毎日歩くというわけにはゆかない。この点往復3kmの多々羅大橋は、真に歩きには最高の条件を備えているように思う。橋の上から瀬戸内の島から島への、いかにも瀬戸内らしい景観をじっくりと味わうことが出来るのである。

 

それからもう一つある。それは大山祇(おおやまづみ)神社の存在である。この神社の歴史は古く、全国の山祇神社、三島神社の総本社であり、且つ山の神、海の神そして戦の神として、今日まで多くの武将・武官の人たちの崇敬を受けてきている。現在でも自衛隊関係者等の参拝が続いているようだ。社の宝物館には武具に係わる多数の国宝と重文が収納されている。しかし自分が何よりもこの神社をありがたく思うのは、社を取り巻く楠木の大木群があるということだ。ここは本物のイヤシロ地なのだと信じて疑わない。

 

というようなわけで今回はこの地に足かけ5日ほど滞在させていただいたのだった。

 

◇毎朝の大山祇神社への参拝

 

泊りを道の駅:しまなみの駅御島(みしま)ばかりにしたのは、何といっても直ぐ隣が大山祇神社であるからだ。この道の駅も神社の境内に在るといってもいいほどなのだ。ここは古来から日本の総鎮守として崇められてきた場所なのである。社はうっそうとした楠の大木群などに囲まれており、なんともいえない爽やかで清らかな空気に満たされている。

 

毎朝食事を終えた後は、歩いて5分足らずの大鳥居を潜って、神殿に参拝することにした。大鳥居を潜ると新築の立派な門が建っていた。これを何と呼ぶのか判らない。お寺ならば山門に相当するのであろうか。神社の中にこのような建物があるのをあまり見たことが無い。とにかく総檜作りの感じの立派な門だった。まだ左右の阿吽像を収めるには至っていないようだった。

 

    

大山祇神社の境内に新しくつくられた山門。まだ未完のようであった。

 

それを潜ってしばらく境内を歩むと、正面に乎知命(おちのみこと)手植えの楠というのがある。樹齢2,600年との説明があった。乎知命というのは、この神社の祭神である大山積大神を祀った人で、この神の子孫といわれている人とか。そんな古いことなど判るはずもないけど、ともかく信じておくことが大切だなと思った。それにしても2,600年の生命を長らえ保っている樹木には圧倒されるものがある。2,600年といえば、かの縄文杉とさほど変わらぬというレベルである。ここへ初めてきた時には、縄文杉に会ったときと同じような感動を覚えたのだった。それは今回会っても少しも変わらないことである。この樹の他にも能因法師雨乞いの楠というのがあり、こちらは樹齢3,000年だとか。少し枯れかかっているようで、何だか痛々しさを感ずる姿だった。掃き清められた境内の庭には周辺に祀られる神々の優しげな光の眼差しが満ち溢れているように感じた。正面の神門を潜り拝殿に参拝する。8時を過ぎたばかりの時間帯では、参拝者は少なく打つ拍手(かしわで)の音も神殿に響いて気持ちよかった

 

 

大山祇神社の境内にある楠の大木。左は乎知命手植えの楠。右は能因法師雨乞いの楠。いずれも樹齢2千年を超える老木である。

 

参拝の後は、宝物館脇の宮浦港からの参道につながる遊歩道を歩いて、鶴姫公園という所まで散策する。このあたりはまだ秋を感じさせないのどかな景観が広がっている。瀬戸内の島々にはごつごつしたむきだしの岩山が多くて、それを松などの樹木が辛うじて覆い隠しているようなのだが、この頃はその松の木が枯れ出していて、かなり目立つのが不気味である。のどかさの中に何やら怪しいものが忍び寄ってきている感じがするのである。

 

鶴姫公園の主人公の鶴姫というのは、450年ほど前の三島水軍と大内氏との戦において、女性ながらに三島方の陣代(=首将に代わって軍務を統べた役)を努めた人で、戦が終った後、その戦で恋人を失ったことを悲しみ、母の形見の鈴を胸に抱いて自ら海に沈んでいったという実在の人物のようである。「我が恋は 三島の浦のうつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」という悲しい歌が残されているという。前に来たときにはこの公園を知らず、この話も知らなかった。やはり旅というのは歩くということが大切だなと思った。

 

翌日も勿論参拝したが、この時には何か神事のようなことが行なわれていて、数人の神官と巫女二人が神前に舞を奉げていた。神主の祝詞が終ると、二人の巫女が神官たちの奏でる舞楽に合わせて、両手に鈴のようなものを持って舞を奉納していた。どんな意味があるのか判らないけど、ある種の神々しさを感じ厳粛な気持ちになった。邦子どのはこのような神事に関心があり、熱心に見学をしていたようだ。神事が終ったあとで邦子どのが社務所の方に聞いたところでは、今日は明治祭だとか。そういえば今日は11月3日の文化の日だった。何か関連があるのかもしれない。かなりの数の写真を撮ったのだが、安いデジカメは動きのあるものを撮るのが苦手で、シャッターを切るまでの時間が掛かりすぎて碌な写真が写っていなくて残念。

 

その翌日も参拝する。この日は何も無く、境内の清新な空気を胸いっぱいに吸っただけ。それだけでもう十二分に満たされたのだった。

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