山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第5日

2010-12-03 04:45:35 | くるま旅くらしの話

 

 

5日 <10月27日(水)>

       

行 程】 道の駅:萩往還 → (R262・191) → 萩市内・菊ケ浜駐車場 → 市街地散策(指月城・鍵曲他) → 菊ケ浜駐車場 → 萩市内散策(湯川家・桂宅~松蔭神社) → 道の駅:萩しーまーと (泊)  <36km>

 

探訪の第2日目はお城と昨日行けなかった城下町の史跡、それに松下村塾などを回ろうと考えている。昨日は夜遅くまで荒れ狂った天気も、朝方にはすっかりおとなしくなって、四方の山の木々たちもホッとしている感じがした。それでもまだ雲は多く、青空はほんの少ししか見えなかった。昨夜は夜中に目覚めた後、起き出すことをしなかったので、その後なかなか寝付けず、それが仇になってようやく眠った後は、今度は眠り過ぎたようで、目覚めたら8時近くになっていた。旅先でこんなに遅く起きるのは滅多にあることではなく、ま、今日ものんびりと萩の町を歩くだけという気楽さからそうなったのかも知れない。

 

食事の後あれやこれやとやっているうちに、出発は9時半近くになってしまった。昨日と同じ菊ケ浜の駐車場に車を入れて、散策用の靴に履き替え、カメラをチエックして出発となる。昨日は終日唸り続けた防砂林の松たちも今日は静かで、その向うにある海もまだ少しうねりは残っているものの、次第に穏やかな表情となってきていた。やはり町の散策には天気は穏やかな方が良い。先ずは指月城跡を目指す。ここからは歩いて10分ほどの所である。車でも行けるのだろうけど、駐車場探しなどが厄介なので、遠くない場合はなるべく歩くようにしている。

 

萩城(=指月城)は、海に突き出た143mの高さの指月山の麓にあって、丁度海からの風を避けられるような位置に造られていた。といっても城郭の建物が現存しているわけではなく、残っている建物といえば、神社や移築された茶室くらいしかなく、あとは幾つかの記念碑などが点在しているだけだった。現在は城址全体が有料の公園になっているようである。萩城は、阿武川のつくり出した扇状地を千切って、指月山の麓に城を造ったという感じがした。れ故に扇状地の城下町に住む人たちにとっては、この城は格別な場所であったに違いないと思った。残された城郭の石垣には、往時の多くの人たちの労苦が滲み込んでいるに違いない。何しろ西国八国の大大名であった毛利氏が、関が原の戦に破れて、防長二国という貧地の、しかも日本海に面した小さな湿地帯に新たな居城を築かなければならなかったのだから、輝元公を初めとする一団の武士たちの思いは、ことばでは言い尽くせないほどに厳しいものだったと思う。その中心的なシンボルとしての萩城は、豪壮さというよりも、城下に住む人々が、安心してそれを望めるような存在のものであったに違いない。天守閣の跡地に登って、眼下に広がる町や遠くの山々を眺めながらそう思った。

 

海に面した石垣の上から東の方の山を眺めていたら、公園の受付をされている方が上がってこられて、東の方を指差しながら、あの辺りが昔松本村と呼ばれていた所です。松下村塾という命名は、その松本村にあった塾というところから来ているのです、と教えてくれた。なるほどと納得した。長州藩が一時は内部分裂をしながらも最終的には藩が一つにまとまって維新に大きな役割を果たし得たのは、このお城を中核とした二百数十年にわたる抑圧されたエネルギーが噴出したからなのであろう。歴史を動かしていたのは個々人であったのかも知れないけど、全体の流れの中では、その個人を生み出しているものは、もっと大きな集団の力なのではないか。公園を一回りして、後にしながら様々なことを思った。

 

お城を出た後は、もう一度城下町の方を歩いてみようと足を向ける。特に邦子どのが鍵曲というのを見たいというので、堀内鍵曲というのを目指す。鍵曲というのは、「かいまがり」と呼び、これは城下町特有の敵の侵攻を防ぐための鍵辻のことであり、突き当たりに強い壁塀を作った直角に曲がる道路のことをいう。どうしてそのようなものを見たいのか良く分らないけど、彼女の関心の対象らしい。そこへ行く途中に口羽氏住宅というのがあり、そこへ寄った。口羽氏というのは毛利家の庶流に辺り、藩の中では1,018石を給される寄組士で、代々三の丸に居住していた、と説明板に書かれていた。現存する屋敷をざっと見学したが、昨日の幾つかの屋敷とさほどには変わらず、なるほどと思うだけだった。邦子どのは以前東京江戸たてもの園で古民家などのガイドをしていたことがあり、この種の建物のことについては、何やらうるさい人なので、熱心に見学をしていたようだった。その後鍵曲の方も歩いたけど、これはもうただなるほどと見るだけである。その他ぶらりと気の向くままに歩いているうちに昼時近くとなったので、車に戻り昼食休憩とする。

 

昼食の後は、同じ城下町内ばかりでなく、少し離れた所にある桂太郎の旧宅とその近くにある旧湯川家屋敷というのへ行ってみることにした。ここからはかなりの距離があるので、これは車で行くしかない。阿武川が二手に分かれて扇状地をつくっているその分かれ目に近いあたりにそれらの建物はあった。指月山からは一番遠い距離にある場所である。川沿いの細い道を進んでゆく時はヒヤヒヤしたけど、どうにかことなきを得て、旧湯川家屋敷の駐車場に着くことが出来た。この家は、藍場川という城下町を通って流れる小さな運河を利用する形で作られており、台所も風呂場も川の水を利用できるように、「ハトバ」というのが作られており、なかなか面白いものであった。藍場川という運河は、大へん綺麗な水が流れており、コイやハヤなどの川魚が何匹も元気に泳いでいるのが見られた。人と自然との共生の一つの姿のようなものをそこに見ることが出来る。ハトバでは、人が使った水も浄化したものを排水するようにつくられており、先人が自然との関係を大切にしていたことが伝わってくる。

 

すぐ近くに桂太郎の旧家というのがあった。この人のことはあまりよく知らない。軍人出身で総理大臣を3度も勤めた方だということぐらいは承知しているけど、幕末の維新においてはどのような働きをされたのか良く分らない。庭の中に、拓大創立100年に際して寄贈された銅像が建っており、その脇に中曽根康弘書の拓大校歌の刻まれた碑があった。拓大創立に関わりがあった方らしい。明治から大正に移る辺りの時代は、軍部の暗躍が際立った頃であり、自分としてはそのような時代に生まれなくてよかったと思っている。桂太郎という方は、この時代では功罪相半ばしているのではないか。勝手な推測判断であるけど。

 

1時間ほど過した後、もう一度菊ケ浜の駐車場に戻り市内を散策することにした。やはり今回は萩城城下町といわれるエリア辺りを中心に歩いて見ることにした。昨日も歩いているけど、とても全部というわけには行かない。菊屋家住宅というのがあり、これは往時の豪商の屋敷ということだけど、入場料が高くて面白くないので、その向かい側にある久保田家住宅というのを見学することにした。こちらは酒造と呉服を商っていたということである。どちらか一つ見れば、商家のありようがある程度見当がつくのではないかと思った次第。かなり大きな家で、幾つもの部屋があり、それらをざっと見て回ったが、個々を見ていると全体を忘れてしまいそうになり、このような見学もなかなか大変なものだなと思った。一番印象に残ったのは、台所の片隅に並べられていた往時使われていたらしい酒を入れる甕や大形の徳利だった。欲しいのである。一升くらい入る大形の奴があったらいいなと、常日頃思っている。住宅の見学を終えて外に出るときに、近々萩で行なわれるイベントの事前視察で訪れたらしい県と市のお偉いさんらしい人から声を掛けられた。どこから来たのですかという問に、茨城県のつくばからだと答えると、たくさんお金を落としていって下さいといわれた。しばし唖然とした。こんな正直な役人を見たことが無い。役人というのは、本当のことをなかなか言わないで、遠まわしの物言いをする人が多いように思っていたけど、ここは直截的らしい。しかしまあ、それにしても老人に対して金を使って行けという言い様は、如何なものであろうか。

 

その後は萩城城下町と呼ばれるエリアに、幕末から明治にかけての活躍の大きかった人物の生家や旧宅などを訪ねた。木戸孝允、青木周弼(しゅうすけ)、などである。それらの所感を述べることは省略したい。まだ少し時間があるので、やはり松蔭神社には参拝しなければなるまいと、車に戻って神社に向け出発する。

松蔭神社は何回か訪れている。言わずもがな、吉田松陰を神と祀った神社である。菊ケ浜からは車で10分足らずの距離である。行ってみると、もう16時を少し過ぎているというのに、大変な混雑ぶりである。観光バスが何台も止まっている。中学生くらいの子供たちが多いようだった。その内の一人に訊くと、長崎県大村からだという。修学旅行なのか、子供たちはきゃあきゃあ言いながら動き回っていた。この中で吉田松陰という人物に、本当に関心があって見ている子供は何人ぐらいいるのだろうかと思った。歴史関係の試験で、松下村塾関連の出題に備えなければならないなどと思って見ている子供もいるのかもしれない。試験が不要になればシャボン玉が破裂するように、歴史のことなど忘れ果ててしまう人が多いのが世の常であるのだから、子供たちに多くを期待して説教めいたことを考えるのは、化石爺様の戯言(たわごと)というべきであろう。神社の境内にある松下村塾の貧しい建屋と松蔭が幽閉されたという家屋を見ながら、時代のあまりの変わり様を思ったのだった。

 

急ぎ参拝した後は、せっかくなので近くにある伊藤博文の生家と東京から移築したという別邸を見に行く。ここは初めてである。伊藤博文は初代の総理大臣として著名であるけど、そこに至るまでのプロセスには並々ならぬ刻苦の努力のあった人のように思う。それは生家を見てそう思うのである。身分制度の厳しい時代に低い身分に生まれ、その垣根を乗り越えてこれだけ活躍するためには、半端な生き様では到底為しえないことは明らかである。生家の脇には功なり遂げた後の象徴のような別邸が移築されていたが、自分としては麦わら屋根の質素で小さな生家の方に、この人物の本物の姿を感ずるような気がした。

 

伊藤博文の生家に行く途中に、吉田稔麻呂()の誕生の地という石柱があったが、若くして池田屋の変で命を落としたこの人物の無念を思った。17時近くになっており、かなり暗くなりだしたので、今日はここまでにして車に戻る。これで凡その萩の様子は呑み込めた感じがする。とりあえず今回はこの程度にしておこうと思った。

 

今日の宿は海の傍の道の駅:萩しーまーとにすることにして、そこへ向かう。直ぐに到着。もう風はすっかり収まっており、泊るのに不安は無い。自分たちの他にも、何台かの旅車が泊るようだった。とにかく歩き疲れているので、夕食後はまっしぐらに寝床に潜り込むこととなった。

<お詫び> 写真を載せたいのですが、文字数に制限があるため、掲載できません。余裕が生まれた時だけ挿入するようにします。

 

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