山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第21日(最終日)

2010-12-20 01:20:48 | くるま旅くらしの話

 

21日<11月12日(金)>

 

行 程】 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里 → (K52・R19・R254・R18) → (上田市・小諸市・碓井峠) → ドライブイン荻の家 → (R18) → (高崎市他経由) → (R17・R462・R354) → 道の駅:さかい(茨城県境町) → (R354・K252他) → 自宅  <243km>

 

明け方から天気はあまりよくない。寒さを感ずるのは、この地ではもう当たり前のことなのかもしれない。今日は旅の最終日である。一昨日までは、休日に高速道を利用して帰宅するという固定観念がこびり付いてしまっていて、帰宅は明日のつもりでいたのだったが、よく考えれば、何も高速道などに頼らずとも、一般道を利用しても夕方までには十分に家まで届くではないかと気づいた次第。高速道の千円が今回の旅ではまじないの如く頭に定着してしまっていたようだった。とにかく今日は一般道を通って家に帰るつもりでいる。

 

8時半に販売所が開店。待ちかねていた何人かの人たちが店内に勇んで入っていった。少し遅れて我々も中に入る。魅力的な野菜類が山のように積まれている。どれも買いたいという衝動に駆られるが、家に帰れば何種類かの野菜が畑で待っている筈なので、家にはない物を選ぶことにする。結果としてはセロリを数株と泥ネギを一束買った。セロリは大きな株が200円ほどなのだ。この地に住んでいれば、ベジタリアンの条件は完璧なように思う。漬物類の野菜などは、台車に一杯もの量を買っている人も何人かいた。樽にでも漬け込むのであろうか。とにかくこの道の駅の情景を見ていると元気が出てくるのである。

 

 

 

道の駅の堀金物産センターの看板と営業時間案内。夏期は7時から冬季でも8時からの営業は、活力ある販売拠点であることを示している。農産物を10時から販売しているような道の駅もあるけど、そのような場合の多くは惰性で営業している感じで魅力のない所が多い。

 

    

道の駅の入り口には、地産地消優良表彰の農水大臣賞受賞の看板が誇らしげに掲げられていた。この表彰は真に当を得たものであり、正解だなと思った。

 

9時丁度、いよいよ出発となる。今日のコースは山を越え、上田に出てR18に入り、軽井沢等を通って高崎に出て、そこから先はR50経由にするかそれとも別の道を行くか決めかねている。行ってみて状況を見てから判断するつもりでいる。まずは、R19に出て、少し松本方面に戻り、R254に入って松本トンネルを潜って、山の中を走り、有料の三才山トンネルを潜って丸子町(今は上田市)から上田に向かう。この辺りは温泉が多い。今日は帰りの途中なので、湯ざめなどしてはつまらないので、温泉に行くのは止めにしている。トンネル出た頃はかなりの雨降りとなっていた。

 

上田に出てからは、R18は、浅間山などの高山のかなり高い山裾を走っている。新しく出来た道なのであろう。車社会では、その昔は想像もつかない場所に道路が作られ、その周辺に幾つものショッピングモールが形成されている。下の方の旧市街はシャッター通りと化し始めているのだろうか。小諸の市外辺りで、邦子どのの好きな古布の店らしいのがあったので、ちょっと立ち寄る。30分くらいで出てきたのは、あまり気に入ったものが見当たらなかったということであろうか。勿論自分の方は外の車の中で地図を見ていただけである。

 

軽井沢には寄らない。前に寄ったときは不快な思いをした。駐車場は有料で不親切だし、街のトイレは汚かった。表通りのチャラチャラさに比べて、見えない部分への思いやりのようなものが欠けている町のような気がするのである。邦子どのはあの気取った雰囲気やハム・ソーセージなどに惹かれるようだけど、自分的はあまり好きになれない。今回は今日中には帰宅するつもりなので、横道には入らないで、そのままバイパスの方を通過する。

 

碓井峠を越えて、くねくねとくねった長い下り坂が続く。途中で事故車を目撃する。明らかにスピードを出しすぎでカーブを曲がり損ねたことによる事故だった。大したケガでなければいいのにと思いながらの通過だった。事故を起こした人には同情できない。起こさなくてもいいのに起こしているからである。坂を下って、その昔の横川の駅弁として有名な、おぎのやのドライブインで、久しぶりに峠の釜飯で昼食にする。いつもは家に持ち帰って冷たくなってから食べることが多いのだが、今日は食堂で暖かいのが食べられて良かった。今回の旅で外食するのは、日生のカキオコ以来2度目である。旅の最後は、ちょっぴり豪華(?)に締めくくろうなどと考えたのかも知れない。

 

食事のあとは、ひたすら走って我が家を目指す。高崎近くになって、往路のR50を行くか、それとも、R17からR354を通って館林から埼玉県経由で行くかしばらく迷ったが、前橋の方を回ってR50で行くよりも埼玉経由の方が空いているような気がしてこちらの道を選ぶ。これは正解だった。順調な流れで、茨城県の境町の道の駅:さかいに到着。ここまで来ると我が家まではあと一息である。16時50分我が家に到着。思ったよりも早い到着でホッとした。全走行距離は3,414kmだった。いつものように後片付けに汗を流すことになったけど、先ずは無事我が家に辿りついて安堵する。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第20日

2010-12-19 03:23:44 | くるま旅くらしの話

 

20日<11月11日(木)>

 

行 程】 道の駅:南飛騨小坂 → (K437) → 巌立峡(岐阜県下呂市) → (K437・R41) → 高山市内駐車場(高山市内散策)(岐阜県高山市) → (R158) → 道の駅:風穴の里(長野県松本市) → (R158・K48他) → 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里(長野県安曇野市) (泊)  <128km>

 

昨夜は一時雨降り模様だったけど、朝起きると一面の霧だった。道に沿って近くを流れる川から霧が発生し、それが谷間一帯を真っ白に包んでいた。この辺りの毎日の普通の現象らしい。恐らく霧がかかった時は、いい天気になるに違いない。九州に住んでいた時に訪ねた湯布院の朝を思い出した。しかし、ここは全くの山の中である。道の駅には水汲み場もつくられており、清新な水を汲むことが出来てありがたかった。

 

朝食の後、出発の準備をしていると、軽トラに乗ったご老人と思しきお二人が、派手なウインドブレーカーと帽子をかぶって近くにやってきた。何だか珍しそうなので、側に行って挨拶すると、なんとウインドブレーカーと帽子に「猿追払隊」と書かれていた。この辺には猿が多いのですか?と訊くと、 ああ、猿も多いけど、熊や猪も多くいて、農作物を荒らされる被害が大きいという話だった。それで、それらの獣害を避けるために、主だった所に行って、花火の様なものを用いて、ドカーンと脅しをかけて警告をするのだという。大変だけど面白そうな仕事ですね、というと笑っていた。遊びのつもりでやっておられるのかも知れないなと思った。それにしても飛騨はさすがに山国だなと思った。

 

   

猿追払隊のユニフォーム。鳥獣害の被害はこの地の人たちにとっては、生活に直結する問題である。共存というのは所詮人間だけが描く夢に過ぎないのかも。

 

おじさんたちからの情報として、この先少し行った奥の方に巌立峡というのがあるから、行ってみたらいいよとの話だった。せっかくだから高山に行く前に、ちょっと覗いて見ることにした。10分ほどで到着する。全く知らなかったのだが、イヤア、なかなかの景観だった。御嶽山が何億年か前に爆発した時に流れ出た溶岩が固まった跡とかで、巨大な柱状節理の岩盤が目前に聳え広がっていた。ここからは、御嶽山への登山道もあるようで、近くには温泉もあり、なかなかいい所である。ちょっと立ち寄って覗いて済ませるような場所ではないなと思った。今度来たときは、温泉にも入って、又滝めぐりなどもあるようなので、じっくりと秘境を楽しみたいなと思った。

 

   

御嶽山の噴火の際の溶岩がここまで流れてきて固まったという巨大な柱状節理の岩。傍に立つとその迫力に圧倒されそうだ。

 

巌立峡を後にして、高山に向かう。飛騨の高山には何度も来ており、さほど執着するような魅力もなくなってきているのだが、それでもちょっと寄ってゆきたいと思うのは、自分が茨城県の田舎の山の中で育ったことと何か関係があるのかもしれない。昔の残る山の中の街の風情が好きなのである。邦子どのの方は、もっと別のリアルな目的があるようである。その具体的な中身が何なのかは良く解らない。とにかくここに来たときは、駐車場に車を入れた後は、別行動だから。 時々一緒になることもあるけど、それは朝市を覗く時くらいだ。陣屋も古い町並みも一回りすればもうそれだけで十分という気持ちになってしまうのは、観光ズレということなのかも知れない。とにかく1時間ほどで歩くのをやめ、車に戻って休憩する。今日の高山散策の時間は2時間しか予定していなかったので、邦子どのには不満の残る様子だった。最低でも4時間くらいないと納得のゆく探訪ができないとか言っていた。今度来るときはたっぷり時間を取らなければと思った。その2時間ほどの高山市街の散策を終えて、出発する。

 

   

相変わらずの賑わいを見せている高山の宮川朝市。でも来るたびに賑わいが少しずつ衰え出してきているように感ずるのは、自分ひとりだけなのだろうか。

 

今日は、高山からはR158で平湯トンネルから安房峠下のトンネルを潜り、日本アルプスの横をすり抜けて安曇野市の堀金の道の駅まで行くつもりでいる。高山を出て、少し行った所で昼食休憩。市内の駐車場は有料なので、落ち着いて食事をするには適切でない。昼食のショバ代までが有料というのでは、たまったものではない。郊外のJAの駐車場は無料である。邦子どのは飛騨牛の饅頭を買ってきて大いに期待したらしいのだが、大阪のブタマンにも遠く及ばないと、かなり厳しい批判を繰り返していた。(大阪のブタマンの味のレベルがどうなのかは自分には見当もつかないことである)飛騨牛の饅頭は相当に期待を裏切るものであったらしい。よせば良いのに、やたらに牛などを食べたがるからである。ベジタリアン指向の自分には、単なる愚痴にしか聞こえない。

 

昼食のあとは、いよいよ日本アルプスの谷越えの道に向かうことになる。緩やかに感じて走っていた坂の勾配が次第にきつくなり、体重の重いSUN号にはかなり厳しい走行条件となってきた。朴の木平のスキー場を過ぎる頃から益々勾配は厳しくなる。と、しばらく行くと真っ白に雪を冠した山が現出した。勿論このあたりの低い山(といっても千mは超えていると思う)は、全山紅葉の真っ最中である。この道を通ることにしたのは、今までどこへ行っても中途半端な紅葉しか見ることが出来なかったのを、一気に解消したいと思っていたからでもあった。それはもう、十二分に今叶えられつつあるのである。雪を被った山が何なのかはっきりしないけど、恐らく乗鞍岳ではないかと思った。もう山の頂上近くは完璧に厳冬となっているようである。それどころか、しばらく行くと道の両側には雪が積もっており、既に根雪になり出しているようである。解けた雪が路面を濡らして、こりゃ日中でないと普通のタイヤでは通行は無理かもしれないなと思った。平湯トンネルを潜り、外へ出ると一気に景観は変わって、もうそこは秋の紅葉と冬の雪景色とが同居していた。しばらく道脇の駐車場に車を停め、眺望を楽しんだ。このような妥協を許さない景色を見たかったのである。やはりここを通ってよかったと思った。それにしても今日は天気が良くて助かった。もし寒い曇天なら雪が降り出して、不安を抱えての走行となったに違いない。真にラッキーである。

 

   

 

平湯峠に向かう途中からの乗鞍岳方面の景観。紅葉の山の向うに、真っ白の雪に輝く山々が迫って見えた。

 

   

平湯トンネルの出口からの山々の様子。そこはもう降り積もった雪が解けて流れる冬の厳しい景観が広がっていた。

 

長い坂道を下り、間もなく安房トンネルを潜る。長いトンネルである。これを出ると、一気に下界に下りてきた感じがする。そのあとは幾つものトンネルを潜って、梓川に沿った道を下り続ける。この道は女工哀史で有名な野麦峠につながる街道である。野麦峠には行ったことがないけど、一度はその景観を眺めながらその昔の少女たちの哀しい話を偲んでみたいと思う。やがて道の駅:風穴の里へ到着。いい休憩所である。ここにはおいしい水があり、今回の旅の最後の飲み水の補給をする。

 

更に坂を下り続けて松本市に入り、左折して今日の宿泊予定地の安曇野市堀金にある道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里を目指す。途中少々買い物などをして、道の駅に着いたのは、16時近くだった。この道の駅はもう何度も泊まらせて頂いている。信州の常宿といって良い。何故かといえば、日本でも有数(と思っている)野菜類等の地場の新鮮で高品質の産物を安価に手に入れることができるからである。それにここから眺める北アルプス常念岳の景観も良い。駐車場は平だし、隣の公園には水もあって、旅の者にはありがたい環境なのだ。ゴミ処理が出来ないのが残念だけど、今のご時世では仕方ないというべきなのかも知れない。ということで、今回もここに立ち寄ることとなった。

 

もう閉店が迫っており、野菜などの殆どは売切れてしまって在庫がない。買うのは朝一番ということにして、しばらく休憩する。ここへ来て気づいたのだが、今朝小坂の道の駅で水を汲んだあと、ポリタンを紐で結わえるのを忘れしてしまい、どこか途中で落として失くしてしまったらしく見当たらない。これじゃあ水も汲めないなと反省しきりである。近くのJAのホームセンターへ行って見たけど、20Lのものしかなく、補填するのは諦めた。明日は帰宅するつもりなので、もう水の補給をしなくても大丈夫である。しかし失くし物をするとあまり気分が優れなくなる。いよいよ俺も老化が本格化したかとちょっぴり反省する。夕刻から風が強くなり、時折雨粒も落ちてきたりして、かなり寒い夜となる感じがした。旅の最後の夜を迎えることとなった。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第19日

2010-12-18 02:37:18 | くるま旅くらしの話

 

19日<11月10日(水)>

 

行 程】 道の駅:伊勢志摩 → (R167・K32) → 伊勢IC → (伊勢道・東名阪道) → 山田東IC → (R41) → 道の駅:日本昭和村(岐阜県美濃加茂市) → (R41) → 道の駅:美濃白川(岐阜県白川町) → (R41・K437) → 道の駅:南飛騨小坂(岐阜県下呂市) (泊)  <293km>

 

快晴の朝だった。高台からの眺望はなかなかのものだが、残念ながら海は見えない。この道の駅には、的矢湾で獲れる牡蠣が売りになっているようだけど、その海はどの辺なのだろうかとしばし探してみたが、見えなかった。道の駅の脇には広大な駐車場が広がっている。しかし、使えないようになっているようだ。こんなムダを作って何なのだろうと脇の方にある建物を覗いてみたら、そこは場外馬券売り場だった。笠松競馬というものらしい。そういえば、昨日のニュースだったかで、笠松競馬の存続について報道されていたのを思い出した。観客数が減って維持が難しいとかいう内容だった。競馬というのはどうもよく解らない。馬が走るのを見るのは好きだけど、博打の部分は好きではない。嫌いといった方が当たっていると思う。楽をして稼ぐというのは、庶民の夢なのかも知れないけど、そんなものは所詮あぶく銭である。万馬券を当てたといっても、決して豊かな人生にはつながらないと思う。ま、一時の満足にはなるには違いないけど。このような場外馬券売り場を見るたびに、行政も大衆もどうかしているのではないかと思うのだけど、世の中の大半の人からは、お前こそどうかしているのではないかと思われてしまう。観客が減ったということは、世の中が不景気であぶく銭を追いかけている暇はないということなのかもしれない。それにしても、数百台もの車が駐車できる場所をこんな山を切り開いて造って、肝心の競馬がダメになったらどうするのだろうか。実質の胴元が行政当局であり、結局は税金が使われることになるのであろうから、競馬に関心のない三重県人にとっては、真に心外なことであろう。三重県に住んでいなくてよかったなどと思ったりした。(失礼)

 

  

左は道の駅:伊勢志摩の駅舎。右はその傍に併設されている笠松競馬、名古屋競馬の場外馬券売り場。馬券売り場の方には広大な駐車場が広がっているけど、普段は一台の車も停まっていない。

 

今日は大移動日を予定している。これから出発して、大都市の名古屋を通り抜け、飛騨川に沿って北上し、高山の近くのどこか適当な道の駅に泊るつもりでいる。見学や見物をする予定はない。考えているのは、温泉博士に載っている下呂温泉の風呂に入りたいということくらいである。

 

8時40分、道の駅を出発。先ずは昨日の道を通って、伊勢神宮の近くから伊勢道に入る。名古屋を通過するまでは高速道を使うのはやむを得ないと思っている。名古屋でR41につながるICで下り、そこからは一路R41を走るつもりでいる。伊勢道は空いていた。空いているときは、この頃はゆっくり走ることにしている。混んでいるときは速く走れないので、ゆっくりになるのは当然である。亀山JCTから東名阪道に入ってもさほど混んではいなくて、マイペースを保ちながら名古屋のエリアに入る。名古屋市内の高速道は道幅が急に狭くなったように感ずるのは、防音壁が連続しているからなのであろうか。首都高速よりも狭くて圧迫感を覚えるのは、通りなれていないからなのかもしれない。山田東ICで下りれば、R41にそのまま入ることが出来るので、そこから下りて一般道へ。名古屋は全くの不案内で、山田というところがどの辺なのか見当もつかない。只ひたすら案内標示に従って進むだけである。大都市は、信号が赤になる度に大渋滞のような錯覚にとらわれる。しばらく高速道の下のような道を走って小牧を通り過ぎ、ようやく大都会の呪いから解放されたような気がした。旅車で大都市へ行きたいとは思わない。

 

更に北上を続けて、美濃加茂市にある日本昭和村という道の駅に寄り昼食休憩とする。寒い。今朝の晴天は、ここまで来ると通用しないのか、小雨のようなものが落ちてきていた。かなり大きな駐車場があり、その殆どが車が停まっていないので、何だか勿体ないような気がした。日本昭和村というのは、いかにも大げさな名前だが、50年ぐらい先を見ての名称なのかもしれない。昭和に因んだ建物などがあるようだけど、まだ売店以外は入ったことがない。昭和のことはかなり知っているつもりなので、生きている間は、ここに来ても覗くのは売店だけだと思う。昼食の後、その売店を覗く。なかなか魅力的なものが販売されていた。その中から鶏肉の燻製などをゲットした。名古屋コーチンという鶏は、このあたりが養鶏の中心地なのであろうか。鶏肉の燻製というのはあまり食べたことがない。鶏の肉だけど、ま、偶には良いだろう。(これは超美味だった)

 

13時少し過ぎに道の駅を出発する。次第に山の中を走る道となる。飛騨川を右下に見たと思ったら、橋を渡って今度は左下にと、めまぐるしく川を巡る景色が変転する。途中道の駅:美濃白川で小休止。道の駅は休業日だった。一息入れて直ぐに出発。しばらく走って下呂温泉の入口へ。一風呂浴びてから今日の宿をどこにするか決めようと思っていたのだったが、その後は大失敗だった。下呂温泉の温泉街に入ったのは初めてである。温泉街というのは、どこへ行っても道路が狭く建物が密集している所が多い。下呂も同じ様な感じだったが、狭い町なので、目的の旅館は直ぐに見つかるだろうと安易に考えていたのである。勿論手元の地図になどは載っていない。何しろ初めての場所なので、全く土地勘などない。書かれている住所にはその旅館は見当たらないので、諦めて来た道を戻ることにした。ところが、来た道は途中から一方通行のようになっていて、元のR41の高山方面へは行けないのである。何だこれは!と思った。仕方がないので、R41を逆戻りして少し行き、コンビニの駐車場でUターンして高山方面へ向かう。こんな道路の造り方に大いに腹が立った。ところが、R41をしばらく行くと、温泉街からの出口の道があるではないか。何のことはない、下呂温泉というのは、R41の脇に膨らんで広がっている街で、その温泉街は通り抜ければその先で再びR41に合流するようになっているのである。そのような地形を全く考えておらず、R41からは横に入った奥まった場所に温泉街があるものと思い込んでいたものだから、とんだお笑い的失敗となったのだった。後で家に帰ってから調べてみると、目的の旅館は、引き返した場所のホンの少し先にあったのである。いやあ、呆れた話だった。

 

せっかくの温泉もすっぽかしを食った感じで、腹立ちを鎮まらせながらしばらく走る。明日は久しぶりに高山市内を歩くことにしているので、高山に近いいくつかある道の駅の中から、南飛騨小坂という所に行って見ることにした。気に入ったなら今日はそこに泊まらせて貰うつもり。初めての道の駅である。30年ほど前のかすかな記憶では、この道を通って鈴蘭高原にある勤務先の保養所へ行ったような気がする。仲間と一緒のタクシーだったので、道のことはよく覚えていないけど、恐らくこの道を通ったのではないか。勿論その当時は道の駅などなく、只ひたすらに山の中の道を車の中から見ていただけだった。この歳になってもう一度ここに来るなんて、思いもよらなかったことである。

 

小坂の道の駅は、R41を御嶽山の方へ向かって少し入った県道に面して造られていた。御嶽山の方から流れてくる清流に沿った道路の両側には、かなりの高さの山々が迫っていた。この辺まで来ると、さすがに紅葉も本格的で、全山紅葉の様子を示していた。16時少し前で、まだ日は残っていたけど、暮れだすと一気に夜の帳が降りて来る感じがした。夜間はかなり冷え込む予感がする。駅舎の売店に行ってみたが、目ぼしい獲物は見当たらなかった。暗くなると急に空が曇って、小雨が降り出してきた。ここは完全にTVの受信は不可能のようだ。付近の民家では恐らく山のてっぺん辺りに共同アンテナなどを建てて受信しているのであろう、どの家にもアンテナなどは見受けられなかった。夕食を済ますと、後はもう只寝るだけである。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第18日

2010-12-17 01:31:59 | くるま旅くらしの話

 

18日<11月9日(火)> 

 

行 程】 道の駅:飯高駅 → (R166・368・42・K13・37) → 伊勢神宮(内宮)(三重県伊勢市) → (K32・R167・K17) → ホテル・夕雅伊勢志摩(入浴)(三重県志摩市) → (K17・R167) → 道の駅:伊勢志摩(三重県志摩市) (泊)  <96km>

 

 

朝起きて外を見たら、隣に旅車らしいワンボックスの車が留っていた。我々が寝てしまった後に来られたらしい。今日も天気は大丈夫のようだ。昨夜はかなり風が吹き、雨もぱらつくという荒れ模様の天気だったが、それは日中のあのあまりにも不気味な無風状態の反動ではないかと思ったりしたのだった。朝になって鎮まったのは、お伊勢さんのお力なのかも知れない。食事の後、出発の準備をしていると、邦子どのがお隣の方と話をしており、それが千葉ナンバーの方だった。千葉ナンバーだと、邦子どのが黙って見過ごすはずがない。彼女は千葉市出身だからである。お話では、四街道にお住いのIさんご夫妻だった。まだお若い方のようで、仕事をリタイアされてさほど時間が経っていないとのこと。これからくるま旅のことを考えてみたいとおっしゃっていたので、持参していた自著(「くるま旅くらし読本」)をプレゼントした。一人でも多く、くるま旅くらしの仲間が増え、人生の終盤のステージを心豊かに過して欲しいと願っている。

 

今日は伊勢神宮に参拝し、その後は志摩の方まで足を延ばし、温泉博士のおかげに甘えて立ち寄り湯をして、近くの道の駅にお世話になるつもりでいる。9時半過ぎ出発。ここから伊勢神宮までの道は、以前も同じコースだったので、迷うことはない。ナビなし主義は詳細な場所には弱いけど、大まかなコースであれば、さほど困るようなことはない。地図を良く見るおかげで、いろいろな情報が頭に入り、今のところさほどナビの必要性を感じていない。道に迷うことがあっても、迷った分だけ新しい見聞が増えて、旅全体としては何の支障もない。(多少の負け惜しみもあるけど)

 

10時50分、伊勢神宮の内宮に到着。今日は平日のはずなのだが、やたらに混んでいる。いつもだと車を留めるのに苦労することは少ないのだが、駐車場の普通車のエリアは満車状態だった。係りの人の誘導で、バスエリアの隅の方に停める事ができた。考えてみると、いつも9時ごろにはここに来ていたのに、今日はかなり遅い到着だった。混んでいるのはその所為なのかも知れない。何しろ伊勢神宮は全国からの参拝者が引きも切らぬ日本一のお宮なのだから、これが普通の状態なのであろう。大型バスが何台もやって来て、続々と参拝者が降りて来ていた。その90%以上は年配の人たちであり、その又大半はいわゆる老人と呼ばれる人たちのようだ。若い人たちはマイカーで来ているようで、今日は七五三のお詣りらしい子供連れも何組かあって少し目立った。

 

   

伊勢神宮(皇大神宮=内宮)の大鳥居と五十鈴川に掛かる橋を渡る人々の賑わい。引きも切らず行き交う人たちで溢れている。

 

車を留めた後は、いつものように長い玉砂利の道を踏みしめながら、うっそうと繁る境内の木立の中を歩いて、本殿に参拝する。ここへ来るといつも思うのだが、20年ごとに本殿を移し変える遷宮というのが煩わしい感じだ。恐れ多くも畏くもということになるのかもしれないけど、今の時代では遷宮の度に寄付然のことを求めており、何もそんなに早くお宮さんを造りかえることもあるまいと思うのである。どうして20年毎なのか全く解らないけど、何か理屈のようなものがあるのであろう。伝統とか由緒とかいうものには当たり前と考える理屈とは違う別の正統(?)の理屈があるようだ。とにかく人が多いので落ち着いた参拝が難しい。流れに任せての参拝となった次第。

 

参拝を終えた後は、邦子どのとは別行動となる。おはらい町とかおかげ横丁とか言う場所をさ迷い歩くのが、古来よりお伊勢さん参りの人々の最大の楽しみなのかも知れない。このさ迷い方は個人差が大きいと思うので、夫婦であろうとも一緒に歩いてそれぞれの思いの違いを確認することもなかろうと、我々の場合は、このような観光地では、いつも別行動とすることが多い。車に戻る時間を決めておけば、何の問題もない。このような場合、たっぷり楽しんで、時間不足を実感するのはいつも邦子どのの方である。自分の場合は、時間を持て余して、早々に車に戻って、地図を眺めたり、甚だしき時は寝床に潜り込むことなどがある。今回も又同様な状況だったが、寝床に潜り込むことはなかった。おかげ横丁の中の太鼓櫓で若者たちが何とか太鼓の演奏をするのを見た後は、特に買い物などもないので、車に戻っていつものように地図などを眺めていた次第。

 

 邦子どのがコロッケなどを買って戻って来たので、それを食べたりしていい加減な昼食を終らす。もう14時近くになっていた。その後思い立って邦子どのは松阪牛を買いに行った。せっかくここに来たのだから好きな肉を買ったらと勧めた次第。というのも自分はどちらかといえばビジタリアン指向だけど、邦子どのは時々肉派となるので、自分に付き合っているとどうにも耐え切れずに叫びたくなるらしい。お肉が食べたい!と。その気持ちを解らない自分なので、真にお気の毒としか言いようがない。好きなようにすればといっているのだけど、なかなか自分勝手というのは、難しいようだ。結局戻ってきた時には大した肉も買わずに、松阪牛のスキ焼のタレというのを買ってきたのをみて、可笑しいというよりも、何だか申し訳ないような可哀想な気がした。しかし、肉を食べたいとは思わない。自分のような変な連れ合いを持ってしまって、真に気の毒なお人ではある。

 

14時半近く伊勢神宮を出発して志摩の方に向かう。志摩といえば伊勢と並んでの有名観光地だが、まだ観光目的で訪ねたことはない。南紀方面へ旅する際に一度だけ遠回りをして通過しただけだった。今回も温泉に入りに行くだけの目的なので、同じ様なものかも知れない。志摩は今では志摩半島の5つの町が合併して志摩市となっている。今日行くのはその一つの旧浜島町にあるホテル夕雅伊勢志摩という所である。温泉博士の温泉手形を利用しての訪問である。伊勢からは近道となる県道32を通っての道を選んだ。鳥羽の方は通らない。志摩にはスペイン村などのテーマパークもあるけど、今日はただ風呂に入りに行くだけと割り切っている。

 

20km少し走ると英虞湾の一角に入り海の側を通る道となる。英虞湾はリアス式の入り組んだ地形をしており、海なのか湖なのか良く判らない感じがする。英虞湾といえば真珠の養殖が有名だけど、真珠ばかりではなく、その地形を利用して牡蠣の養殖なども盛んなようだ。いずれにしても今日のところは自分達とは無縁である。少し風が強いようで、外海に近い場所では、かなり白波が立っていた。少し遠回りしながらホテル夕雅伊勢志摩に到着する。

 

ホテルは旧浜島町の中心街から少し外れた海を見下ろす高台に建っており、どの部屋からも太平洋の雄大な景観が望めるようにつくられている。温泉も大海を見下ろしながら湯に浸るという贅沢な時間だった。1時間あまりその贅沢な景観を味わいながら温泉を楽しませて頂いた。感謝、多謝。入浴後駐車場に戻った時、近くの山の中に、ツワブキがたくさん自生していたので、その中の一株だけを家に連れてゆくことにした。我が家の庭には、何年か前宮崎は日南の海の側から連れて来たツワブキが一株だけあって、ちょっぴり淋しそうな感じなので、仲間を増やしてあげたいという思いからである。ツワブキは絶滅危惧種ということでもないから、いいんじゃないかという判断なのだが、ま、ご容赦あれ。

  

入浴の後は、今日の宿を予定している道の駅:伊勢志摩へ向かう。30分ほどで到着。もう暗くなりかけていて、付近の様子は良く判らなかった。何台かの旅車らしいのが先着していた。キャブコンはSUN号だけだった。17時を過ぎており、駅舎の売店も事務所ももう終了していた。この道の駅はかなりの高台につくられており、ここならTVも大丈夫だろうと設定してみたら、どこかの局で鬼平犯科帳をやっていた。久しぶりにドラマを見た。鬼平犯科帳はドラマなどよりも、池波先生の本を読んだほうが遙かに面白い。ま、時には覗くのもいいだろうということか。バッテリーは辛うじて大丈夫だった。明日からは帰途が本格化する。

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AC(Auto Camper)誌(2011・1月号)に載りました

2010-12-16 10:35:34 | くるま旅くらしの話

今日は旅の話はお休みして、ちょっとしたお知らせです。

 

昨日(12/15)はこの頃の旅日課(?)の一つとして、毎週支障の無い限り訪れている石岡市(旧八郷町エリア)にあるRVランドの農園(フルーツ・ランチ)へ行ってきました。この農園行のことは度々ブログでも紹介させて頂いておりますが、私の家(守谷市)からは50kmほど離れた所にあります。日帰りも出来ますが、それはなるべく避けて、旅車で出かけて泊まるようにしています。農作業を終えて慌しく帰途につくというのは、農事の楽しみ方としては賢くないなと思っているからです。現役時のように時間に追われている暮らしならば、それも止むを得ませんが、私にとっての農事は仕事の処理事項ではなく、楽しみそのものなのです。その楽しみをたっぷり味わった後に、親しき知人と酒を汲み交わしながら語り合う一夜を過ごすのは、これ又無上の楽しみというものでありましょう。

 

 というわけで、毎週いそいそと出かけているわけなのです。車での長旅の場合は、家内と一緒の暮らしとなるのですが、RVランドの農園行の場合は、家内には今のところ農事に耐えうる体力が不足しているため、私一人で行くことになります。これは実のところ私にとっては一人旅に出掛けているようなものです。泊まることを前提に旅車(=キャンピングカー)に乗ってしまうと、それはもはや旅に出掛けたことと同じことになります。家内と一緒というのが嫌というわけではないのですが、偶には一人で旅車全体を好きなように扱えるというのも、楽しみというものではありませんか。

 

 今年の5月からこのような小さな旅を楽しんでいましたら、AC(Auto Camper)誌の取材を受けることとなりました。AC誌というのは、キャンピングカーに係わりのある方ならどなたでもご存知の有名月刊誌です。この話をお聞きしたのは、西日本方面への旅の途中で、RVランドのAさんからでした。どうして私なのだろうと不思議に思ったのですが、同誌の「自・遊・人」というコーナーに旅車を用いて農作業に勤しんでいる人を取り上げたいとの相談があり、Aさんが私を推奨したいというお話でした。果たして自分のような者でいいのかとの迷いもありましたが、自分たちの他にも顔見知りのIさんご夫妻もご一緒されるというお話なので、それならば安心(?)とお受けした次第です。Iさんご夫妻には、時々この農園でお目にかかっています。

 

 11月半ばの当日は、玉ねぎの植え付け、サトイモの収穫などを行ないました。楽しいひと時でした。農作業は何をしていても楽しいのですが、特に種蒔きや苗の植え付け、それに収穫というのが心を弾ませます。種蒔きや植え付けは、これから彼らがどのような生長を辿るのかという一杯の期待が膨らみますし、収穫時は、これはもう文句なしに嬉しさを伴った楽しみそのものです。今回はその双方を楽しんだという次第です。(その様子などはAC誌をご覧あれ)

 

 今、これから、RVランドの農事で目指していることは、無農薬・無肥料をベースとする自然栽培です。青森県のりんご栽培での自然栽培を成功された木村秋則さんを密かに師と仰ぎ、そのお知恵を垣間見ながらに拝借して、農園の主力である果樹の栽培とそれから蔬菜類についても、この栽培法をこの地なりに見出せればいいなと思っています。

 

何しろメンバーの全員が農業にはど素人といってよい存在なので、何をするにも試行錯誤の連続です。無農薬も無肥料もただそれだけを守って実行していれば、それは何もしないということになり、農業にはなり得ないことになります。何もせずに果報は寝て待てなどという農業の現実があるわけがありません。基本は如何にして果樹や野菜類の土(=土壌)をつくり上げるかにあるのです。恐らくこのテーマは、コンセプトは同じでもその実際は全て個別に実現しなければならないものであり、それは試行錯誤の繰り返しであり、自分たちが生きている間には実現できないかも知れないことなのかもしれません。まだ緒に就いたばかりであり、苦労が何かすらも分かっていない状況なのですが、とにかく目一杯苦労をも楽しんで、自然栽培を皆で見出すことができればありがたいなと思っています。

 

私は欲張りなので、週に1回の一人旅の農事だけでは満足できず、市の菜園を借りての野菜作りも行っています。又農事だけではなく、本命のくるま旅くらしや書き物にも執着があり、このままの暮らしぶりがうまく行けば、もしかしたらPPK(ピン、ピン、コロリ)と逝けるかな、などと思っています。昨日、遂に名実共に高齢者の仲間入りをしました。満70歳です。めでたくも無し、めでたくもなしの心境です。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第17日

2010-12-15 01:44:36 | くるま旅くらしの話

 

17日<11月8日(月)>

 

行 】 道の駅:宇陀路大宇陀 → (R370・166・K37) → 談山神社(奈良県桜井市) → (K37・R166・370) → 道の駅:宇陀路大宇陀 → (R166) → 道の駅:飯高駅(三重県松坂市・飯高町) (泊)  <89km>

 

 昨夜は少し雨がぱらついたようだったが、大したことはなかったようで、朝方には天気は回復していた。今日が関西エリアの最後の日となる予定である。明日からは本格的な帰途に入ることになるけど、ちょっと寄り道をして、伊勢神宮に参拝した後、志摩の方へ行って温泉に入ることにしたいと考えている。その後名古屋をパスして飛騨の高山から信州へ向かうつもりでいる。

 今日は、関西エリアの最後として談山(たんざん)神社を訪ねることにしたいと思っている。談山神社は昨日の大神神社と同じ桜井市にあるけど、そのロケーションはかなり離れている山の中だ。ここは平安時代に権勢をふるった藤原氏の祖である藤原鎌足を祀った神社である。紅葉の名所であり、先日のTVで紅葉がかなり進んでいるようなことを伝えていたので、それも楽しみである。5年ほど前に訪問して以来である。

 朝食の後片付けなどをして、出発の準備を終えたのは9時近くなっていた。ここの道の駅でも地元の野菜などが販売されている。黒豆の枝豆も何度か買っているので、もしかしたらと思ったのだが、やっぱり並んではいなかった。もう11月も半ば近くに迫っているのだから、やはり無理というものであろう。それにしても昨日は本当にラッキーだったと改めて思った。

 9時に出発する。桜井市の市街地近くまで戻ってから、明日香方面への道に入り、次第に狭くなる坂道を登り続けて走ること十数キロで談山神社の駐車場に到着する。途中離合が厳しい箇所が幾つかあり、観光バスなどが来たら困るななどと思ったが、その心配は無用だった。それほど紅葉も進んでいないようで、駐車場には数台の車が留まっていただけだった。

 談山神社に祀られている藤原一族の祖の鎌足という人については、その名を知らない人は少ないのではないかと思うけど、今の世は受験のための暗記ばかりの学習だから、もしかしたら試験が済めばさっぱりと消え去ってしまって、誰、その人?というようなことになっているのかもしれない。奈良時代の一つ前の飛鳥時代、つまり聖徳太子の活躍された時代であるけど、その後中央集権の体制は蘇我一族にないがしろにされる(皇室の一部から見た時)こととなり、これを打ち破ったのが、中大兄皇子(=その後の天智天皇)でありこの変革を大化の改新と呼んでいるわけである。この大化の改新の立役者となったのが、中大兄皇子であり、その補佐役(=相談役?)として活躍したのが中臣鎌足(後に天皇より藤原の姓を賜う)という人だった。その蘇我一族の横暴を排除すべく主役の二人が密談を凝らして計画を練ったのが、多武峰(とうのみね)と呼ばれるこの談山神社のある場所であったという。そのことを記念して鎌足の長男の定慧和尚が鎌足亡き後、他の場所に葬られていた遺骨の一部を移して、ここに寺を建立して改葬したとのこと。更にその後神殿が建てられ、神像を安置したとのことである。つまり、この地が実質的な大化の改新の発祥の地であるともいえるということなのであろう。そのようなことが、神社の由緒書きの中に書かれていた。

 藤原一族はその後隆盛を極め、平安時代には道長などという人は、「この世をば我が世とも思う望月の欠けたることもなきと思えば」などと思い上がった歌を詠んでいることは、歴史の記録の示すところである。以前来た時に全国の藤原一族の姓一覧のようなものがあり、それを覗いてみたら、山本という姓もその中に入っていたので驚いた。しかし現在の姓は、明治になって国民の全てが苗字を戸籍に登録する必要から生まれたものであり、何と名づけるか困っていい加減な坊さんなどに頼んで作ったものもかなりあるらしいので、山本などといっても単に山の下に住んでいたから山本とした等々、由緒などとは関係のない苗字は掃いて捨てるほどあるに違いない。馬の骨としては、我が祖先が藤原一族だったなどとは夢にも思わない。笑っちゃいますよ、という印象だったのを覚えている。

 さて、駐車場を出て、細い坂道を下って参道に入り、少し歩くと神社の社殿につながる階段の入口となる。ここに受付があり、金500円也を納めることとなる。どこへ行っても拝観料とか入山料とかを納めなければならないので、名所旧跡の探訪は真に窮屈で面白くない。維持保全のための必要悪だと諦めて入るけど、どうもお寺さんなどがやたらに賽銭箱などを置いて、銭を欲しがるのは衆生の功徳には違反するような気がして気に入らない。いつも同じ様なことを考えるのは、老人の末期症状なのかも。

 かなり急な石段を登ってゆくと重文の拝殿と神廟拝所の二つの建物が、山の中腹を拓いて建てられている。その他にも大小幾つもの建物があるけど、それらを正確に覚えるのは自分には不可能だ。なんといってもこれらの建物の中で一際目立つのは十三重塔である。678年に創られ、1532年に改修されたというその建物は、木造十三重塔としては現存する世界唯一のものだと説明板に書かれていた。この十三重塔というのは、定慧和尚が亡き父の供養のために創建した塔婆とのことである。普通の塔婆は小さな板切れで作られているけど、それに比べると、この塔婆は塔婆とはとても思えないなと思った。

 

   

談山神社境内の十三重塔の景観。世界唯一の木造の十三重塔とのことで、創建は678年、現存の物は1532年に再建されたとか。十三の屋根が何を意味しているのか解らないけど、何とも重厚な佇まいは、始まった紅葉の木立の中で、圧巻の存在だ。

 

談山神社は山もみじの紅葉が有名なのだが、まだ紅葉は始まったばかりで、ほんの数本がようやく頬を染めているという感じだった。最盛期になるまでにはあと2週間くらいは掛かるのではないかと思った。あれこれ素直でない思いなども駆け巡るのだけれども、神社全体をうっそうと包んでいる森の樹木たちの作り出す静寂の空気は、なんともいえない落ち着いた味がする。ここはまさにイヤシロ地だなと思った。

 参拝が終わり、車に戻る。途中から邦子どのが見えなくなったと思ったら、駐車場近くに新しくオープンしたらしい何やらの店に寄って、捉まったというよりも店の人を捉まえたらしい。何をしているのだろうと、諦めて車の中で地図などを眺めていたら、何やら手に持って戻ってきた。何を買ったのだろうと思ったら、買ったのは手作りのエンピツのようなもの1本だけで、大きな包みはクレソンを貰ってきたのだという。話をしているうちにお店の人がクレソンを取り出してプレゼントしてくれたとのこと。クレソンとは洋芹(せり)のことである。肉料理などに添えるあれである。どういうわけなのか知らないけど、このクレソンは美味しかった。何やら損をしないお人である。(その分、相手には損をさせているということになるのだけど)

 久しぶりの談山神社訪問は、もみじの方は紅葉には至らずガッカリしたけど、いい空気をたっぷり吸って、心にも身体にも薬になるいい時間だった。一先ず今朝の大宇陀の道の駅に戻ることにする。20分ほど走って、道の駅の手前に森野薬草園の売店があり、そこで名物の葛を買う。大宇陀は古い町並みが残っており、その昔薬草園も設けられていた。その森野薬草園では、現在は葛の製造販売などが行なわれている。ここの葛はジャガイモなどのデンプンではなく、天然の葛粉である。我が家では、薬をいただくようなつもりで、その葛を使わせて貰っている。今回は少し値が高くなっていたとのこと。このような産業は継続するのが難しい世の中になってきているということであろうか。

 道の駅に着いて、昼食にする。久しぶりに奈良名物の柿の葉寿司を食べる。今日で奈良エリアともおさらばだ。というよりも昨日来て、今日去るのだから、掠めて通るに等しい感じだ。今日はこれからR166を通って三重県の飯高町(現在は合併して松阪市)の道の駅に行き、そこの温泉に入ってゆっくり休むつもりでいる。以前はR369からR368を通ってR166を少し戻り、飯高の道の駅へ行ったのだったが、途中御杖村までは良かったのだが、美杉村に入ると離合も難しいほどの山間谷合の細道となり、これでも国道なのかと恐れ入ったのを覚えているので、今日はR166を行くことにしている。国道番号も、300桁以上となった場合の山間部を通る道は要注意である。地図には赤い太い線が描かれていてもその実際は安易なものではないからである。特に関西エリアでは要注意のように思う。

 ということで、12時15分大宇陀を出発。旧菟田野町を通り、次第に山の中に入って東吉野村に入り、三重県との県境の高見山の下を潜る高見トンネルを通過すると、もうそこからは三重県松阪市飯高町となる。しばらくの間長い下り坂が続き、やがて櫛田川に沿った渓谷が展開してくる。この渓谷を香肌峡という。トンネルを抜けたあたりから紅葉が目立つようになって来たのだが、ここで不思議な体験をしたのだった。

 高見トンネルを潜る手前辺りの坂道を登るころから感じ出したのだが、周辺の草木が全く動いていないのである。普通だと少しでも風があれば、道端の草木は揺れ動くし、この季節だと風がなくても落葉樹からは落ち葉の一つ二つは山道ならば落ちてきても不思議ではない。ところがそのような動きが全くないのである。まるでそのままの状態で時間が止まっているような感じだった。その中を自分の車だけが音を立てて走っているのだ。前後に車など全く走っていない。まるで突然見知らぬ世界に突入した感覚に捉われたのだった。これはほんの一瞬のことかなと思いながら、トンネルを潜り坂道を下っていったのだが、ずっと同じ様な状態が続いて、やがて何軒かの家のある集落に来たのだったが、そこまで来ても周辺の全く動かない景色は変わらないのである。家には誰もおらず、犬猫も鶏も姿も全く見えず、音と動きの無い世界がそこに止まっている感じだった。真っ白なすすきの穂や竹藪でさえもピクリともしないのである。重力で落ちてくる枯葉の一つくらいはあってもいいはずなのに、何一つ動いているものはない。どうなっちゃっているんだろうと、少し不気味になってきた。動物は見当たらず、植物さえも一切の動きを停止している世界は、何かを暗示しているかのようだった。以前、「沈黙の春(Silent Spring)」(レイチェル・カーソン著)という本を読んだことがある。この本は人間の環境破壊の行為の終局的な様相を描いて、その恐ろしい危険に警告を鳴らしている内容なのだが、タイトルの「沈黙の春」というのは、植物だけが生い茂る中で、春なのに小鳥も蛙も昆虫さえもすべての動物が絶滅して何の音もしないという情景を表わすイメージなのである。ふと、それに似た思いを描いたのだった。

 20分ほど走って、ようやく民家の中に人を発見し、その脇に犬がいるのを見てホッとしたのだった。人間がたくさん集まって動き回っているのにはうんざりすることがあるけど、このまるで時間が止まってしまったような音も動きもない世界を垣間見ると、やはり背筋が寒くなり出すのは、自分も人間の端くれなのであろう。邦子どのはこの不思議をどう捉えたのだろうか。とにかく不気味で不思議な時間だった。

 道の駅:飯高駅に着いたのは、13時30分だった。思ったよりも早く着いたのだけど、明日は伊勢神宮に参拝する予定なので、先を急ぐこともない。ここでゆっくり過すことにする。ここに来るのは二度目である。いい温泉があり、駐車場も広く、すぐ近くに公園もあって、水を汲むことも出来る。ただ、周辺は山に囲まれており、SUN号のTV装置では、電波の受信は殆ど不可能だ。これは最初から諦めている。少し休憩した後、とにかく温泉に入ることにする。

 いいたかの湯は、ありがたいことに65歳以上は200円安くなって400円での入浴がOKだった。老人が医療費を無駄遣いしないように、安い料金で温泉に入り、その分元気になって貰おうという発想は優れていると思う。全国を回っていると、時々このような温泉施設に出会うことがある。甘えるつもりはないけど、年金暮らしの者にとっては、ありがたい措置である。風呂の方もいろいろ工夫が凝らされていて、何種類かのお湯を楽しむことができるようになっていた。いつもだとそのようなものがあっても利用しない、首だけ出して坐って全身を蒸す木製の蒸し風呂にも入った。晒し首になるのもいいかという感じだった。生きていればこその話である。1時間半ほど温泉を楽しむ。いい時間だった。

 温泉のあとは、車を公園近くに移動させて、水の補給を行ったりして、いろいろ車の面倒を見たりした。バッテリーが不調のため、パソコンの使用をやめ、その代わりに早めに一杯やることにした。16時を過ぎると、一気に日が暮れだして、周辺は暗くなり出した。公園の方で泊まる車は自分たちだけのようだ。今日は少し夜が長くなるけど、休めるときには休めるだけ休んでおくことが旅には不可欠である。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第16日

2010-12-14 05:10:21 | くるま旅くらしの話

 

16日<11月7日(日)>

 

行 】 道の駅:アグリの郷りっとう → (R8・K55) → 栗東市郊外コインランドリー → (K55・12・R307) → 紫香楽宮跡地(滋賀県甲賀市・信楽町) → (R307・R24) → 平城京跡見物(車窓より)(奈良県奈良市) → (R24・25・169) → 大神神社(奈良県桜井市) → (R169・166・370) → 道の駅:宇陀路大宇陀 (奈良県大宇陀市)(泊)  <121km>

 

 遅い到着だったので、周辺の状況が判らないところがあった。朝、起き出して周辺を少し歩いてみた。市街地なのだけど、この辺りの周囲は畑と田んぼばかりのようで、賑やかなのは国道の両側の50m以内くらいだけのようである。野菜の栽培などが盛んなように見えた。道の駅では地産品が売られているようなので、9時の開店が楽しみである。このあたりだと、黒豆の枝豆がまだあるかもしれない。それが楽しみである。

朝食を終え、後片付けなどをしていると、外に出ていた邦子どのが戻ってきて、売店に野菜などを運んできていた農家の人に声を掛けて黒豆のことを訊いたら、もう先週で終っているという情報を持ち込んできた。なあんだ、もうダメなのかとガッカリしたのだったが、しばらくすると、その話をしたらしい人が自転車でやって来て、片手に引き抜いた枝豆を2~3株持って来られたので驚いた。自分は黒豆の枝豆の大ファンなのだという話をすると、その方は、少し固くなっているかもしれないけど、まだ食べられると思うからと、無料でプレゼントしてくれるという。それではあまりにも申し訳ないと、とっさにポケットにあった300円を気持ちですから受け取って欲しいとお願いした。後でよく考えると、300円ではあまりにも少な過ぎたのではなかったかと気づいた。いやあ、感激だった。

確かに頂戴した枝豆は、見たところはもうすっかり黄色っぽくなっていて、普通の人ではとてもそのまま食べるなんて思わないに違いない。しかし、自分の場合は、大丈夫なのだ。殻が固くなっていても、完熟して固くなるにはまだ時間が掛かるので、その前であれば、少し時間をかけて茹でれば、豆は柔らかくなるのである。

黒豆の枝豆を知ったのは、関西方面へ旅をするようになってからだから、6,7年前だろうか。最初にそれを見つけたのは、確か夜久野の道の駅(福知山市)だったと思う。枯れた黄色っぽい枝豆のようなものが、野菜売り場の端の方に置いてあったので、これは何だろうと目に留まったのだった。試しに買って茹でて食べてみたら、何とまあ、これが超美味だったのだ。何しろ10月の下旬近くであり、この季節に関東では枝豆なんてとても考えられない。それを知って以来、関西ではその他奈良県でも同じ枝豆が道の駅の売り場に並べられており、それを買うのが楽しみとなっていたのだった。

今年は、来るのが少し遅かったので、どうなのかと心配していたのだったが、ともかく今日ここでそれにありつけたのは真に幸いだった。邦子どののおしゃべりの偉力を目の当たりにしたのだった。頂いた枝豆から豆の莢を外す作業は、その後20分ほど掛かったけど、嬉しさに溢れていたので、ちっとも煩わしくも面倒でもなかった。大き目の笊に溢れるほどの量となり、こりゃあ買ったら大変な値段になるなと、改めて運の良さを思ったのだった。

 嬉しい枝豆騒動が終るころに店が開店したので、ちょっと覗きに入る。野菜類にはあまり関心がなく、好奇心はそれ以外の地産物に向かう。あった!赤こんにゃく。これは関東にはない。2つほどゲット。もう一つ感動したのは、たった千円で念願の鮒寿司が売られていたことだ。昨日の鮎家では、最低でも5千円近い値段なのである。一度食べてみたいと思っていたのだが、幾らなんでもそんなに高いものを食べるつもりはない。もし食べてみてガッカリするような味だったら、取り返しがつかなくなるではないか。しかし、小さくてもまあ千円くらいなら、我慢が出来るというものである。ということで、これは邦子どのの力強いおことばで、2個も買って貰ったのだった。この先の夕食などが楽しみである。

朝からいいことばかりが続いて、今日はこの先も何かいいことがあるのかもしれないなどと、ちょっぴり浮ついた気分になった。さて、今日の予定といえば、まずはどこかで洗濯をしたあと、奈良の方面へ向かうことにしている。コースは昨日引き返した道をもう一度辿って信楽(しがらき)に向かい、山道を通り抜けて木津川に出て、その堤防にある道を奈良市方面に向かうつもりである。奈良エリアでは、最終的には大淀か大宇陀の道の駅に泊ろうと考えている。気がつけば旅ももう16日目となり、最終期間に入りつつあるのだった。これからは、走りの多い日が続くことになる。

まず洗濯だが、昨日道の駅:こんぜの里りっとうから引き返した道の途中にコインランドリーが2つあるのを見つけており、その一つにすることに決めている。これは邦子どのの世界なので、自分としては洗濯物を運ぶくらいの仕事しかない。9時半に目当てのコインランドリーに着いて、洗濯が終了したのは11時少し前だった。この間、自分はヒマなので、今朝頂いた枝豆を茹でることにした。コンロを外に出して大型の鍋にほぼ満タンの枝豆を入れて茹でる。傍を通る人は、何をしているのだろうと不思議に思うかもしれない。しかし、歩いて通る人は殆どいない。今の世の中は、人が歩いているのは都会の真っ只中だけのようだ。外を歩かない人間の世界なんて、いずれは自然から阻害され、人類は酷いしっぺ返しを受けるに違いないと思う。自動車は便利だけど、その依存症になってしまうと、本末転倒の結果となるのだと思う。くるま旅においても、車に乗ってばかりいないで、毎日たっぷりの歩きを取り入れることが大切なのだと思う。(又、話がずれてしまった)

洗濯終了の後は、昨日来た道を行って、道の駅:こんぜの里りっとうを通過し、やがて信楽町へ。「こんぜ」とは何のことだろうと、昨日道の駅の人に訊いたら、この近くに金勝寺(こんしょうじ)というお寺があり、それからきたのではないかという話だった。地名のいわれは古老にでも話を聞かないとわからないけど、今の時代古老などというお人がまともに存在するのだろうか。老人は皆化石扱いである。斯くいう吾も。

信楽では、今日はせっかく来たのだから、紫香楽宮跡へ行くことにしている。狸の焼き物は通過しながら見るだけで良い。というのも、先日TVで奈良の東大寺の大仏建立のドラマを放映したときに、東大寺の前に大仏を造ろうとした場所があり、それが紫香楽宮だという話があった。その後地図を見ていたら信楽町に紫香楽宮跡というのが書かれており、機会があればそこへいってみようと思っていたのである。少し道に迷ったけど、その跡地近くの駐車場に着いて車を停める。

奈良の東大寺の大仏建立よりも前にここに都を作り、大仏を造ろうとしたというのであるから、もしそれが実現していたならその後のこの地は大きく変わっていたに違いない。歴史のタラレバは、ゴルフのタラレバと同じ様に何の価値もない話だけど、想像心を掻き立てられるのは、人間の常であるようだ。この跡地を取り囲む地形の全体がよく判らないため、その遺跡としての都のスケールの大きさなどの見当がつかないのだが、実際に歩いて見ると、思っていたよりはかなり規模の小さな感じがした。説明板によると、どうやらここは都としての住まいというよりもお寺であったということらしい。その名を甲可寺というとのこと。1300年近くも昔の本当のところは判らないようだ。推定するしかないということであろう。

 

伽藍跡の礎石などを見学しながら、奈良時代あたりの最高権力者集団の生き様というか、統治の姿勢というものが、何を拠り所にしたものなのか、やはり理解し難いなと思った。ここでの大仏建立を中止したのは近くの山での山火事が頻発したというようなことがその理由だったと書かれていたが、天災地変や疫病などに対する人間としての恐れが、次々と先の思い付きを取り止めさせ、又新しい思いつきを生み出したということなのかも知れない。2~3年の間に都と呼ばれる権力者の住いが次々と変わるなんて、現代では想像もつかないことである。ここはいわばそのような往時の権力者のリーズナブルな気まぐれの犠牲となった地であるとも言えるのかもしれない。馬の骨としての感想は、いつもの通りややネガティブである。

奈良時代のことを現代の感覚でコメントすることはナンセンスだとは思っている。推定では奈良時代頃のわが国の全人口は6~700万人ほどだったというのを読んだことがある。現代のように国の隅々まで電気が通じ、ラジオやTVが見聞できる環境ではない。未開地ばかりだったといって良い時代だと思う。そんな中で、都というものの持つ意義というのは、現代の都会などとは違った、国家そのものの求心力の核となったのであろう。それゆえ、往時の聖武天皇という方は、その地を定めるのに苦心されたに違いない。同情できる部分もあるのではある。

一通り史跡を見て回った後は、丁度昼時となったので、車の中で食事とする。1時間ほど休んで、これからは一挙に奈良まで走るつもりである。13時少し前出発。信楽の町を走るR307の両側には、信楽焼きの狸たちが、大小さまざまな大きさやスタイルで通る車を迎え、見送ってくれている。毎日どれくらい生産されるのか知らないけど、それほど買い手がつくわけではないだろうから、このまま行けば在庫は増える一方で、その内に店の外は狸で溢れてしまうのではないか、などと愚にもつかない思いを巡らしながらの運転だった。

 しばらく山の中の道を走って、宇治田原町に入る。ここいら辺は宇治茶の産地のようで、左右に茶畑が多い。綺麗に刈り込まれた茶の木の畝が、丘を幾筋も彩っていた。茶の名産地といわれる所は、皆共通した地形のようだ。小高い山に囲まれた谷を川が流れており、夜間は気温が下がるけど日中は日当たりの良い、そのような自然環境である。朝方には川霧が谷を白く包みやがてそれが晴れて穏やかな日差しが谷一帯に降り注ぐような、そのような場所に格別の銘茶が生み出されるようである。この地もそれに適う地形のようだった。

坂を下ると、ようやく平地が開けてきて、やがて木津川の堤防にぶつかり、これを左折すれば奈良に向かうR24となる。これをどこまでも南下すると1時間ほどで奈良市内に入る。奈良市内に入って、ちょっこし平城宮跡を覗いて見ようと思った。もし駐車できるような場所があったら、少し歩いて見たいとも思った。しかし、行ってみると、駐車場どころではない。よく考えれば今日は日曜日なのである。竣工なったばかりの大極殿や朱雀門を見ようと、その広大な敷地の周辺は車と人で溢れ返っていた。人間誰も皆思いは同じで、新しいものには一日でも早くお目にかかりたいという本能のような心理が働くのかも知れない。かく言う自分だって同じ様なものだ。イヤア、それにしてももの凄い人、人、人である。これじゃあ到底見物なんて無理だと思った。それどころか渋滞から抜け出すのだって難儀な感じだった。とにかく少し近づいて、車の中からでもいいから、写真くらいは撮らせて貰おうと周辺を一回りする。渋滞のおかげでそれは可能だった。

喧騒地帯を抜け出した後は、邦子どのがいつも行っている桜井市の大神(おおみわ)神社脇の、古布や手芸品などを扱っている店に行くことにする。今回は奈良市街は素通りすることにした。15時40分大神神社の駐車場に到着。邦子どのが店に入れば1時間くらいは必要なので、この間、大神神社に参詣する。ここは毎年歩いている山辺の道の石上神宮に向けての出発点でもある。今回は山辺の道を歩くのは止めることにしている。大神神社は我が国の中でも古く、伝統歴史のある神社の一つである。三輪山山麓の鬱蒼と繁った大木の中にあり、ここに来ると真に穏やかな心に満たされるのである。今日は七五三も近いのか、小さな子供連れの参詣者が目立った。1時間近くかけて境内をゆっくり散策し、車に戻る。間もなく邦子どのも戻って、今日の宿は大宇陀の道の駅にすることにして出発。

17時近くになり、もう辺りは暗くなりだしていた。本当は大宇陀ではなく明日香の先の吉野川近くにある大淀町の道の駅に行こうと思っていたのだが、今朝の騒動で、黒豆の枝豆はもう時期を外れてしまっていることを知ったので、行先を近い方の大宇陀にしたのだった。大淀の道の駅の野菜売り場には、新鮮な地元の野菜が溢れんばかりに並べられるので、いつも黒豆の枝豆はそこで求めるようになっていたのだったが、今年は真に残念である。

大宇陀に着いた頃は既に暗くなっていた。日が暮れるのが次第に早くなり、今はもう17時になれば日は沈んでしまうようだ。空模様が少し怪しくなっており、小雨のようなものが落ちてき出した。今夜は雨になるのかもしれない。結構走り回り、歩き回ったので、温泉にでも入りたいと思ったが、今日は休日なので、恐らく又大混雑だろうと、入浴よりも早寝の方を選んだのだった。大宇陀も気に入りの場所であり、いつもの場所に車を留め、枝豆を味わいながら一杯やって夕食。そして長い夜を迎える。

 

<※字数制限のため写真が掲載できませんでした>

 

 

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第15日

2010-12-13 04:37:56 | くるま旅くらしの話

第15日<11月6日(土)>

 

【行 程】 三木SA → (山陽道・中国道・舞鶴若狭道) → 小浜西IC → (R27) → 若狭フィッシャーマンワーフ(福井県小浜市) → (R27) → 瓜割の滝・名水(福井県若狭町) → (R27・303) → 道の駅:若狭熊川宿(熊川宿散策)(福井県若狭町) → (R303・161・477・K11・R8・K55・K12) → 道の駅:こんぜの里りっとう(滋賀県栗東市) → (K12・55・R8) → 道の駅:アグリの郷りっとう(滋賀県栗東市) (泊)  <278km>

 

今日もいい天気のようだ。三木SAのある場所がどんな所なのか良くわからないのだけど、広い駐車場に一杯詰まった大型トラックの向うから太陽が昇る様は、自然界の海や山からの旭日とは又違った現代風朝ぼらけのムードがあった。昨夜は思ったよりも静かで、何日か前のような隣の車のエンジン音の迷惑を被ることはなかった。要するに隣人の心がけの問題なんだなと思った。大型トラックも半分以上はエンジンを止めていたように思う。

 

 さて、今日はいよいよ関西の本場(?)に向かう日である。神戸を通って大阪を抜けて奈良に行くのはどうも気が進まない。高速道の下の道やわけのわからないバイパスなどを幾つも通らねばならず、渋滞も予想されて気が進まないのである。地図を見ながらどうしたものかと考えている内に、そうだ、何も神戸経由で行かなくても、舞鶴経由で小浜の方から琵琶湖を経て奈良に行けばいいじゃないかと気がついた。来るときに通って来た道なので、考えの中に入っていなかったのである。ここからだと、一旦中国道に出て、少し反対方向に走った後、舞鶴若狭道に入れば良いのである。それに今日は土曜日なのだ。よし、これで行こうと決めたのだった。邦子どのが洗面に行っている間のことだった。このような突然の変更には馴れているので、彼女は驚きもせず、あ、そうといっただけだった。小浜を通れば、もう一度鯖寿司や鯖の串焼きにお目にかかれるという楽しみも増え、且つ瓜割名水の汲み場で、少なくなった水の補給も出来るのだ。我ながら良い思いつきだった。

 

 9時20分出発。一度来た道を走るのは少し安心感がある。とはいっても上りと下りとでは、周辺の景色は全く違う。実際は初めて走る道なのである。同じなのは、舞鶴若狭道という名称だけだ。往路の時から2週間ほどが経って、道の両側の山の景色は、わずかだけど紅葉の度が増している感じがした。2時間ほど走って、小浜のフィッシャーマンズワーフに到着。今回の旅でもう一度ここに来れるなんて、何という良い思いつきなのだろう。思わず自画自賛である。市場の中を歩き廻り、しっかり吟味の上、特大の鯖の串焼きを一本買う。邦子どのは寿司のようなものを買っているようだった。こんなときはいつも別行動で、自分の好きなものを買うのが我々の旅の仕方である。何はともあれ、気に入った串焼きを手に入れて大満足である。今から、早や今夕が楽しみである。

 

 小浜を出た後は、若狭町にある瓜割りの滝の名水を汲みに向かう。実は先に買った水は、邦子どのの話では臭いがあって使いたくはないのだとか。まだ数本が残っていたのだが、これらを全部捨てて新しく瓜割り名水に詰め替えることにした。水汲み場は、今日は平日とあってさほど混んではいなかった。SUN号の水槽も含めて水関係はすべて瓜割り名水で満たしたのだった。その後は、ここで昼食休憩とする。邦子どのは先ほど小浜でゲットした寿司、そして自分の方はジャガイモを蒸かして食す。この大幅な差には疑問を抱く方も居られるかも知れないけど、自分にとっては寿司よりもジャガイモの方がご馳走なのだから、仕方がない。ジャガイモ大好き人間なのだ。先日北海道の知人から送っていただいたジャガイモは、はっきり言って小浜の寿司よりもずっと美味いのだ。変な夫婦ではある。

 

     

瓜割の滝の傍にある名水汲み場の様子。若狭には名水が多い。初春の行事、奈良東大寺二月堂のお水取りの水は、若狭の神宮寺から送られるとか。瓜割りの名水は、通行手形を買って汲むことになっている。

 

 1時間ほど休憩の後出発して、すぐ近くの熊川宿に向かう。熊川宿というのは、その昔から京都と若狭とを結ぶ鯖街道と呼ばれた道の中にある宿場の一つで、現在でも往時の面影を多く残している場所だ。ここには道の駅もあり、何度か訪れているのだが、実はその宿場の様子をじっくりと見たことがなかった。道の駅に停まって、ほんの一部を覗く程度だったのである。それで、今回は時間に余裕もあるので、少し時間をかけて歩いてみようと思ったのである。

 

   

熊川宿の景観。往時を偲ばせる家並みが道の両側に1kmほどに亘って続いている。

 

 道の駅の手前の駐車場に車を置き、散策開始。宿場町は一本道の両側に宿屋や商売の店などが櫛比(しっぴ)しているが、鍵形の曲がりがあるのは、やはり戦国の時代の名残りなのであろう。熊川宿は、家の軒先を急流の小川が流れており、それが生活に役立っているようで、見たこともないイモ洗いらしい水車のようなものが回っている所があった。凡そ1kmほどの長さがあり、その先が道の駅とつながっている。邦子どのが往復して駐車場まで戻るのは厳しかろうと、途中で自分だけ引き返して駐車場に戻り、道の駅の方へ車を移動させる。その後、今度は道の駅側から邦子どのに会うまで歩くことにした。番所などを脇に見ながら少し歩くと、向うから重そうにカメラを抱えたその人がやって来た。

 

    

左は道路の側を走るかなり流れの早い清流に仕掛けられている芋などを洗うための水車。右は熊に注意の警告表示。

 

 熊川宿は馬篭や妻籠ほど特徴的な印象はなかったけど、一つだけ驚いたのは、「熊が目撃されています。熊に注意」という警告表示が出されていたことだった。熊川というくらいだから、この地は熊に縁があるのかもしれない。宿場町の裏奥の方には、かなり深い山が壁のように連なっているから、そこには何組かの熊君たちが住んでいるのかも知れない。ま、日中大勢の人間どもが歩き回っているときは出てはこないだろうけど。1時間ほど見物をしたあと、今日の宿を予定している道の駅:こんぜの里りっとうへ向かって出発。

 

 R303をしばらく走って、琵琶湖の湖畔近くに出て、今津でR167へ入り、琵琶湖大橋を目指す。新旭町も安曇川町も今では皆高島市となってしまった。近江商人の中では、湖西の高島商人は著名だから、元々この辺一体は高島というイメージがあり、このネーミングは納得できるような気がした。その高島市を通過し、今は大津市になった志賀町から湖西道路に入る。比良の山々が間近に見えるけど、まだそれほど目立った紅葉は見られないようだった。しばらく走って、真野ICから琵琶湖大橋につながるR477に入る。直ぐに大橋となり、200円也を払って、琵琶湖を横断する。そのまま真っ直ぐ行けばR8やR1に出られるのだが、少し時間に余裕があるので、この辺に来るといつも寄っている鮎家という近江近郊の名物などを商っている店に行って見ることにした。行ってみたけど、とりたたてて書くほどのこともない。行く度にだんだんと店の魅力が少なくなってゆくのを実感しただけだった。

 

 元の道に戻り、県道を通ってR8を目指す。途中、油価の安い店を発見し給油をする。その後は、R8、R1経由で再度県道に入り、道の駅:こんぜの里りっとうに着いたのは、16時半過ぎで、少し暗くなりかけていた。ここに泊るつもりでいたのだが、行ってみると駐車場がとんでもない坂ばかりなのである。坂の駐車場であっても、大概は何とかなるものなのだが、ここは全くいけません。寝るに適した角度の坂は全くない状況だった。単に車を止めておくだけなら、どんな坂でもさほど気にならないと思うけど、寝るとなると頭よりも足の方がずっと高いというのでは、これはもう話しにならない。この道の駅は、どこをどう選んでも眠るのに適した場所が見当たらないのである。これではどうしょうもないので、他に移ることにした。手元の資料では、栗東にはもう一つ道の駅があり、それは先ほど案内板を見て通り越してきた所なのである。アグリの郷りっとうというその道の駅は、街の賑やかな場所に位置しているので、静かな方をと選んだのだったが、こんな坂の状況では我慢がならないので、とにかくそこに戻ってお世話になることにする。

 

ところがその入口の案内板が不明確で、なかなか判らず間違えてしまった。その結果、とんでもない大渋滞に巻き込まれて、うんざりするほどの時間を食って、ようやく到着したのは、18時30分だった。あたりはもうすっかり日が暮れて暗くなっており、こんなに遅い到着は今回の旅では初めてのことだった。読み違えの恐さを改めて実感した次第である。ナビをつけておればこのような失敗はしないのかもしれない。でも、間違えるたびにそのエリアの状況に詳しくなるから、まあ、いいやと思っている。

 

この道の駅は思ったよりもメインのR8からは離れており、静かな雰囲気だった。但し、300mほど先を新幹線が走っており、それが通過する度にその音が伝わってくるので、ちょっと寝付くまでは気になるかもしれない。新幹線はトラックとは違い、深夜は走っていないので大丈夫だと思う。数台のキャンカーなどの旅車が泊るようだった。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第14日

2010-12-11 04:54:53 | くるま旅くらしの話

 

14日<11月5日(金)>

 

行 程】 道の駅:しまなみの駅御島 → 大三島IC → (西瀬戸道) → 尾道IC → (R2・ブルーライン) → 道の駅:一本松展望公園(岡山県瀬戸内市) → (ブルーライン・R250) → 五味の市(岡山県備前市日生町) → (R250・R2・K261) → 閑谷学校(岡山県備前市) → (K261・R2) → 伊部駅前(備前焼窯元) → (R2) → 備前IC → (山陽道) → 三木SA(兵庫県三木市) (泊) 

 <263km>

 

かけ5日間に亘る大三島での島暮らしも、今日で終わりとなり島を去ることとなった。再び移動の時を過すこととなる。今日の予定は、日生(ひなせ)(岡山県備前市)の五味の市を訪ね、カキオコを食べ、その後はどうするか今のところは未定である。次のメイン訪問地は奈良エリアなので、その途中に昨年訪れたこの地を再訪したいと思っている。途中のどこかで良い場所が見つかったら、そこに泊ってもいいなと思っている。

 

昨日の邦子どのの話では、9時まではこの辺の高速道は通勤割引というのがあり、通行料が半額となるということなので、少し早めに出発することにする。みかんやレモン、それに新顔のライムなどは昨日の内に手に入れているので心配は無い。7時15分道の駅を出発する。今日もいい天気のようだ。このところいい天気が続いていて、ありがたい。これから後も帰るまで好天が続いてくれればいいなと思った。大三島ICから入って、今日は車での多々羅大橋の走り収めである。あっという間に生口島の瀬戸田に入ってしまった。西瀬戸自動車道をしまなみ海道と呼ぶのだが、大三島からは尾道までは15分くらいの走りだっただろうか。

 

さあ、それから先はR2をひたすらに岡山方面に向かって走る。途中本来ならば倉敷に寄るのだけど、昨年は駐車場が見つからなくて往生したので、今回は最初からパスすることに決めている。再チャレンジしても又探すのに無駄な時間を多く取られるに違いないからである。大した渋滞もなく倉敷、岡山を過ぎて、岡山市の郊外からブルーラインと呼ばれる準高速道のような道を走る。出発してから3時間ほどノンストップで走って、道の駅:一本松展望公園に到着する。この少し先にもう一つ黒井山グリーンパークという道の駅があるのだが、早く着ける方を選んだだけ。10時20分になっていた。約200kmを3時間で走ったことになる。少し疲れたので、30分ほど休憩。店の野菜や果物売り場を覗いてみたけど、大三島に比べて高すぎるので、とても買う気にはなれない。みかんなどは3割以上高い値がついていた。

 

再び走りに戻って、ブルーラインからR250に入り日生の五味の市という海産物市場を目指す。25分ほどで到着。元日生町は小豆島を結ぶフェリーの発着所がある所で、今は合併して備前市となっている。ここには五味の市という一般の人を相手とする魚や貝類などの海産物を販売したり料理して食べさせてくれる大きな市場がある。

 

昨年来た時には、ここで買ったシズ(=エボ鯛)の天ぷらのあまりの美味さに大感動したのだった。今年もあわよくばもう一度、との期待が大きかった。11時を過ぎた今頃が市場が一番賑わう頃らしく、観光バスなどを含めての来訪者が多く、市場は活況を呈していた。早速去年の揚げ物屋さんに行ってみたのだが、残念ながらシズの天ぷらは無いようだった。店の人の話では、今日は入っていないとのこと。時期によってなのか、或いは日によってなのか、入らないことがあるという。ま、諦めるしかない。その代わりといっては何だけど、去年はあまり見かけなかったワタリガニが、かなり多く並んでいた。今回は既に沼隈の道の駅でゲットして、腹に収まってしまっているけど、もう一度良いことがあっても何の不服も無い。というわけで、ワタリガニを買う。なんと、小ぶりだけど生きて手を振り上げている奴が5匹も皿の上に載っていて、たったの千円だという。これを買わないというのは、目の前の当り籤を知っていながら宝くじを買わないのと同じことである。冷凍されて切り分けられ、味噌汁に入れる奴とはレベルが違うのである。

 

我がSUN号には、いつでもこのような出来事に備えての大型の鍋が用意されているのは、既に沼隈のケースで披瀝した通りだけど、今回はその鍋がもう一度活躍することとなった。早速車に持ち帰り、鍋と蒸し器を取り出して蒸かすことにした。近くにグランド付の公園があり、その端の方にベンチがあって誰もいないので、そこへコンロを持って行ってカニを蒸かすことにした。約20分ほど付きっ切りで鍋を見守る。カニを蒸かすときは数滴の酢をたらすのが邦子どの流であり、それはもちろん今回も守られている。好い色に蒸しあがって車に戻る。直ぐには食べない。これは今夜の食卓の殿様肴なのである。しかし、今夜の宿をどこにするかは決まっていない。まだ決められないのだ。

 

 

左は日生五味の市の大きな看板。この左手に市場の建物がある。右は湯煙の中のカニたち。思わず蓋をあけてシャッターを切った。

 

カニ蒸かし騒動が鎮まった後は、お昼はカキオコと決めているのでその店へ。日生にはカキオコの店が幾つもあるので、どこへ行ったら良いのか見当がつかず、先ほど邦子どのが魚屋さんに聞いて紹介して貰った店に行くことにした。フェリー乗り場のすぐ近くの、JR赤穂線の向こう側の店だった。カキオコというのは、牡蠣が入ったお好み焼きという物である。去年初めてここに来た時、あちこちにカキオコと書かれた看板や旗がはためいているのを見て、何だろうと思ったのだが、牡蠣入りお好み焼きと知って、邦子どのは何とか食べてみたいと考えていたようだった。しかし、そのチャンスを逃してしまい、今年は何としてもと意気込んで来たのである。自分の方は、お好み焼きにそれほど関心があるわけではない。酒も一緒に飲めるのなら、より積極的になれると思うけど、そうでないのなら麺類を選ぶかも知れない。今回は邦子どのの欲求を満たさないととんだことになる恐れがあるので、素直に一緒に食べることにしている。

 

今、NHKの連続TVドラマで「てっぱん」というのが放映されているけど、丁度あのドラマに登場してくるような鉄板が店の中央に鎮座していた。早速カキオコをオーダーする。一体どのような手順で作るのかとしっかり見守った。普段作っていれば参考になるのだろうけど、我が家ではお好み焼きというのは作ったことがないので、結局判ったような分らないような曖昧な手順の理解となった。ただ印象に残ったのは大きな牡蠣の身とそれが溢れんばかりにたくさん入っていたことである。その辺のスーパーで売られているのであれば、1人前で優に2パック分ぐらいはあったのではないか。聞くと、日生の牡蠣は大型なのだという。初めての味だったが、グーだった。邦子どのはすっかり満足したようで、これを食べた後、急に元気が倍増したようである。こんなことなら去年も何としても食べて貰っていた方が良かったなと思った。

 

 

 左は町の至る所で見かけるカキオコのポスター。右は出来上がったカキオコ。この膨らみの中にたっぷり牡蠣が入っている。

 

カキオコですっかり満腹になった後は、もう一度五味の市に戻って、しばらく休息する。その後どうするかいろいろ検討した結果、まだ時間があるのでせっかくだから閑谷(しずたに)学校へもう一度行ってみようということした。そのあとで伊部に寄り備前焼の焼玉を買うことにした。そして今夜は備前ICから山陽道に入り、明日の関西入りを考えて神戸の手前の三木SAで泊ることにしようと決める。明日は一応神戸に出て、海辺を走って大阪を抜け、奈良エリアのどこかの道の駅に泊ろうと考えた。

 

五味の市からの閑谷学校への道は、去年通っているので、迷うことはない。30分足らずで到着。平日だというのに思いの外の混雑ぶりである。中高年の人が圧倒的に多いように思った。ここに来るのは去年に続いて2度目である。ここは池田の殿様が一般庶民を対象につくった学校で、津田永忠という人がその創設や維持に尽力されたとのこと。武士のための学校は多く聞くけど庶民のためのこのような立派な施設があるのを去年初めて知り、いたく感動したのだった。

 

今年は去年よりも1週間ほど遅い訪問だったので、正門の正面にある聖廟の前に植えられた左右2本の楷(かい)の木が見事な紅葉を見せていた。ここの楷の木は、中国は曲阜の孔子の墓にある楷の木の実を持ち帰って植えたものだそうで、1915年に植えられたとか。もう100年近い年月を経て、益々その樹勢は盛んなように見えた。先回の訪問では構内には入らず、外回りに専念したのだったが、今回は学校の中に入って講堂他をじっくり見学した。又資料室も訪れて様々な関連資料を拝観した。どっしりと構えた講堂の中は深閑としており、まさに閑谷という名の学び舎に相応しい雰囲気が溢れていた。ここに学んだ先人たちの、向学に対する若いひたむきな姿勢がそこに映されているように感じた。閑谷学校は多くの偉人を輩出しているけど、やっぱり人間にとって、人間社会にとって一番大切な社会政策は教育なのだと思う。自分も現役時代は、企業内ではあったけど、多少なりとも教育の仕事に係わっており、その思いは今でも変わることがない。どんな企業でも組織でも国でも、人づくりこそがそれらの成長や前進の基盤となるのである。

 

左は今や閑谷学校のシンボルともなっている楷の木の見事な紅葉。右は講堂内部の様子。心落ち着く本物の学びの空間があった。 

  

鮮やかな紅葉の楷の木に別れを告げ、備前焼の中心地の伊部に向かう。JR伊部駅横の美術館の駐車場に着いた時は16時近くなっており、そろそろ黄昏が迫ってきていた。今日は焼き物の見物や買い物ではなく、備前焼きの土を丸めて焼いただけの焼玉を買うのが目的である。ここには江戸時代後期の天保時代に築かれた天保窯が残っているのだが、その脇にある窯元へ出向く。先回もここで焼玉を買っている。焼玉は、ご飯を炊くときやお湯を沸かすときにその中に入れて用いるのである。どんな働きがあるのか判らないけど、とにかくお湯もご飯も味が一等ランクアップするのだ。今回は1個100円のものを10個買い入れた。これでしばらくは美味いご飯とお湯にありつける。昔から、変なことに関心を持っている夫婦なのである。

 

焼玉を手に入れた後は、来た道を戻って、備前ICから山陽道へ。1週間ぶりの高速道の走りとなる。山陽道は、中国道に比べて交通量が圧倒的に多い。それも関西の中心地に近づくにつれて車の数は多くなる。三木SAに着いたのは、18時少し前だったが、広い駐車場は、数多いトラックとそれを遙かに上回る一般車で埋まるほどだった。このような場所にはあまり泊りたくないのだが、一般道を走れば遅くなってしまい、道の駅などの適当な宿泊箇所が見当たらないのである。一晩だけの我慢なので、やむを得ないということである。

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2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第11日~13日(その3)

2010-12-11 04:29:30 | くるま旅くらしの話

 

のんびり暮らすのは難しい

 

今回の旅の思惑としては、何よりも瀬戸内の島でのんびりと過ごしたいというのが第一だった。神社や橋の散歩をした後は、あまり人の来ない公園のようなところに行って、そこで好きな本を読み、音楽などを聴いてのんびりと過したいと考えていたのである。それで、今回はその場所として盛港の波止場の傍にある公園を選び、そこで過すことにしたのだった。橋の散歩が終るのが、お昼少し前なので、散歩の後は、この盛港の公園脇の駐車場に車を止め、そこで昼食を食べた後、のんびり過すことにしたのである。ところがこの「のんびり」というのが曲者で、これがなかなかそうはならないのだった。このことについてちょっぴり自虐的な反省をこめた話をしたい。

 

最初ののんびり作戦は、第1回の多々羅大橋の散歩を終えた後、昨日下見をしておいた盛港の公園脇の駐車場から始まった。13時少し前にそこへ着いて、まだ昼食前だったので、まずは昼食の準備に取り掛かった。くるま旅では食事は原則として外食なしで過すことにしているので、日に3度作らなければならない。毎回ご飯中心ではつまらないので、特に昼食はうどんやソバ等麺類にすることが多い。我がSUN号には電子レンジは積み込んでいないので、我が家の旅の間の喫食には冷凍食品は無用なのである。利便性を考えると今の世に逆行しているとは承知しているけど、エンジンをかけたり、発電機を回して近隣に迷惑を振り撒くのは善しとするところではないからである。

 

それで今日は後ろのボックスに積んで持参したジャガイモと沼隈の道の駅で買った安納芋を蒸かして食べることにした。粗食だけど考え方によっては、かなりの贅沢とも言える食べ物である。何故なら安納芋などは超高級品であり、宮島で売っていた焼き芋は、今蒸かしているものよりも小さめでもかなりの高額だった。ま、焼くのと蒸かすのとではかなり大きな差があるのかも知れないけど。30分ほどで出来上がり、少し遅めの昼食となった。

 

食事が済んだ後は、公園の水汲み場から水を汲んできて、SUN号の水を補給する。車からは少し遠いけど、運動になるので遠いのは気にならない。どこだったかの駐車場では、500mも離れた水飲み場まで、10Lの水を満タンにしたポリタンを持って5往復したことがある。歩くのはすべて楽しみなのである。こんなときに水を補給しておかないと、いざという時に困ることが多いからである。水汲みが終った後は、しばらくの間パソコンに向かい記録の整理をする。このところサブバッテリーの調子が悪いようで、パソコンを使用していると、以前よりはかなり速いスピードで蓄電の容量が減ってきているのが気になる。いつもだと今日のように天気がいいときには、ソーラーの発電だけで日中のパソコンの使用などには何の差支えもなかったのに、ここに来てどうも調子がおかしい。無理して使うと旅の途中で又おかしくなっても困ると考え、1時間ほどで止めることにした。

 

そのようなことをしているうちにいつの間にか風が次第に強くなってきたようで、波止場の堤防に釣に来ている人たちも止めて帰り出したようだった。町の漁業関係者向けの大型のスピーカーから、強風警報が出ているので注意せよという警告放送が何度か流れていた。海の天気は変化が大きいのを実感した。16時近くになったので、今夜も道の駅:しまなみの駅御島に泊ることにして盛港を引き上げる。駅に落ち着く前に、駅の少し先のマーレ・グラッシアという名の塩の温泉の方へ海を見に行った。夕陽が今まさに沈もうとしている景色をしばし眺めた後、道の駅に。この、のんびりのための時間には、さて、どこにのんびりがあったのかなと、あとで不思議に思った。

 

次の日も同じ様な過し方のパターンだった。違ったといえば、橋の歩きから戻った後は、盛港の公園脇駐車場に行って、昼食としたのだが、その内容がサツマイモなどではなく、ご飯と味噌汁となったということくらいだろうか。この日は多々羅温泉に入るつもりなので、食事の後は昨日と同じように水の補給やパソコン作業などをして15時近くまで過し、そのあと温泉に向かった。1時間あまりの入浴の後、3泊目となる道の駅:しまなみの駅御島へ。いつもより早い到着だった。その分夜が長くなるということになった。のんびりという点では、温泉に入ったことなどがそれに該当するのかも知れないけど、その実際といえば、休日のためかなり混んでいて、洗い場の空きを待つなど、何だか落ち着かない入浴だったのである。やはりのんびりには程遠い感じがした。

 

最後の滞在日も同じ様な生活パターンだった。多々羅大橋の歩きの後の盛港での過し方も、今日はサツマイモなどを蒸かして食べたのだったが、地元で買った鳴門金時は、我が家で今年採れたベニアズマよりもかなりレベルが下だということに気づいたくらいだろうか。のんびりといえばのんびりなのだが、蒸かす作業というのは、結構落ち着かないものである。この日の多々羅温泉は来訪者も少なくて、こちらの方は本格的なのんびりの時間だった。

 

と、まあ、このような暮らしぶりであり、どう考えてものんびりしたという実感は湧かないのである。これは一体どういうことなのであろうと、改めて自分の行いを振り返ってみたのだが、結論としては、自分はどうやらのんびりを苦手としている生き物のようなものに思える。じっとしていることが出来ないタイプの人間なのかもしれない。じっとしているのは眠っているときくらいで、その他の時間は何かをしていないと不安を覚えるのである。長い間のサラリーマン暮しの感覚が一向に改まっていないというか、むしろこびり付き染み渡ってしまっていて、もはや終生この習性は取り去れなくなっているのかも知れないと思った。邦子どのののんびりさに比べて、自分のそれは足元にも及ばないなと思った。時間を自在に延ばして使える人は幸せ者だと思う。自分の場合は常に時間を縮めて使うことばかりを考えているようだ。サラリーマンというのはそのような人種である。効率の枷(かせ)からは恐らく終生抜けられないのではないか。そう思った。

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