山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2日間の動かない旅

2010-12-24 00:43:41 | くるま旅くらしの話

 

 

久しぶりの霍乱(かくらん)に、隔離された部屋(=旅車のバンクベッド)で2日ほどゆっくり寝て過し、今日は少し揺れている身体の芯を元に戻すべく、10kmほど歩いてきました。もう大丈夫です。ところで霍乱といいますのは、本来の意味では現代の熱中症みたいなものを言うらしいのですが、ま、今は冬ですから、ここでは少しばかり身体の調子が狂ったという程度の意味で使っています。元々寝るのは大好きなのですが、2日間も寝ていると、身体というものは寝ている方が当たり前のようになってしまうらしく、立って歩くと身体の芯が定まらなくなってしまって、どうも歩きにくくてたまりません。やっぱり生きているというのは、寝過ぎてはダメなのだなと改めて気づいた次第です。

 

本当はこれらの日を含めて、近場の旅に出掛ける予定でしたが、一人車の中に隔離されて(念のため風邪が移らない様にと、自分で自分を隔離したのですが)、日中ベッドの中で読書などしながら眠り呆けていると、夜になると眠りが足りすぎてしまい、なかなか眠られなくなって、いやはやその夜の長いこと。旅で過すときの夜の時間の倍ほどの感覚となってしまいました。

 

二日目は終夜の雨で、これは眠れない夜の退屈を紛らわすためには、却ってありがたいことでした。どうしてかといえば、寝床からは50cmほどしかない天井を叩く雨音は、結構刺激的で、天意と言うか、大自然が空の上から落とす水の勢いの告げるものが何なのかを、あれこれと思ったりしていると、退屈はどこかに忘れてしまうからなのです。今日はこの話です。

 

今頃まともに雨音を聴いている、いや、聴くことの出来る日本人がどれほどいるのか?と、ふと思うことがあります。かく言う私自身だって、普段家の中に居れば雨音どころか、窓を閉めカーテンを閉めれば、雨が降っていることさえも気づかないという状況なのです。住いの環境が子供の頃の5~60年前とは大きく変わって、人間は、大自然と素直に向き合うような暮しからは断然抜け出し、暑さ寒さを自由にコントロールできる住環境を普通と思うようになってしまっています。それが悪いなどとはとても思えませんが、時々昔のことを思い出し、何だか少し行き過ぎてしまっているような感じにとらわれるのです。

 

人間は本来大自然の中の小さな一存在に過ぎないはずなのに、今や人間のための利得の追求に溺れて、地球を荒らしまわって、何でも思いのままに動かそうとしている感じがするのです。数十億年の地球の歴史の中で、何度も繰り返されているある種の生物(=動植物)の思い上がり現象が行き着く先が、すべて破滅や滅亡であったことを想うと、人間という生き物の可能性にも、このままでは限界が遠からず必ずやって来るに違いないと、そのように思うのです。

 

ま、このような話は最近では温暖化やエコなどといういわゆる地球環境問題として、全世界が危機感を抱くというテーマとしては、一応共有化に向かっているようですが、現実の暮らしの中で自分が何をどうするかについては、危機感からは凡そ遠い意識レベルの行為に埋められており、誰もそれを止めることができないのが現状です。本来個人を守る筈の国のレベルにおいても、危機に対する問題意識の宣言と実際行動には腹背と断言しても良いほどの落差があり、しかもそれが超大国なのですから、もはや地球は救われることはないのだと想わざるを得ません。

 

雨音を終夜聴きながら、時折強い風を伴って吹き付けるフォルテの天意は、これは悪意なのかそれとも忠告なのか。判断に迷います。今年一年の間に各地に起こった天災地変は、その多くが人災なのだと言われることが多いように受け止めていましたが、雨音を聴き続けていると、いや、あれは皆人災などではなく、天からの警告だったように思うのです。

 

しかし、この警告を受け止める資格のある人間がどれほどいるのでしょうか。環境破壊を一切しないで暮しを成り立たせている人間がどれほどいるのでしょうか。私自身だって、生きている間は自分が知る知らないに関係なく、環境を破壊し続けるのだと思います。雨音の告げる警告を受け止めたとしても、もはや世界全体が環境を破壊しなければ成り立たない、人間の生存システムを作り上げてしまった以上は、もはやこの動きは止まらないように思うのです。今のところこれが結論です。

 

2日間の動かないくるま旅の中で、今回は眠れぬ悩ましい一夜を過しました。それは天井を叩く雨音がもたらしたものでした。雨音といえば、私の最も好きな音楽家の一人、F・ショパンの作品の中の雨だれのエチュードが有名ですが、研ぎ澄まされた感覚の中に表現された、雨音のリズムの哀愁の中にも、よく聴くと、天からの警告とも思える箇所があるように思うのです。しかし、今から170年前の雨音を通しての天の警鐘は、随分と今よりは優しかったような気がするのです。

コメント
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