山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第4日

2010-12-01 04:57:58 | くるま旅くらしの話

 

4日 <10月26日(火)>

          

行 程】 道の駅:萩往還 → (R262・191) → 萩市内・菊ケ浜駐車場 → 市街地散策 → 菊ケ浜駐車場 → 道の駅:萩しーまーと → ホテル・萩の浜(入浴) → (R191・262) → 道の駅:萩往還 (泊)  <40km>

 

今日は天気が心配である。昨夜から雨がひどくなり、風も次第に強くなってきている。朝になって雨の方は小降りとなり、降ったり止んだりの状態だけど、三方を囲んだ山の樹木たちは時折吹く強い風に大騒ぎをしている。市街散策は傘なしでは無理かなと思いながら朝ごはんを済ませて出発の準備をする。とにかく今日から念を入れて萩の街を歩き回るつもりでいる。

 

9時10分、道の駅を出発。昨日下見をしているので、迷うことはない。先ずは菊ヶ浜の無料駐車場を目指す。駐車場に着いて外に出ると、ものすごい風である。周辺の松ノ木がものすごい音を立てており、その向こうの海は唸り音を発して白波を立て、黄色く濁って歯をむき出している。いヤア、とんでもない荒天だ。幸いなことに雨は止んでいて、走る雲間からは時々青空が見え隠れしている。とにかく来てしまった以上は、一日を無駄にすることは出来ないから、念のために傘を持参することにして散策に出かけることにした。

 

駐車場の道路の向側から先は、直ぐに昔の武家屋敷の一角となっているらしく、細い路地を入って行くと、石垣や白塀に囲まれた家々が並んでいた。かなり広い敷地が多いのを見ると、中級以上の武士達の住まいがあったのかも知れない。その様なことを思いながら散策を開始する。それから12時近くまで歩き回って訪ねた主な屋敷等を上げると、次のようになる。

 1.旧周布(すう)家長屋門

 2.旧繁澤家長屋門

 3.旧益田家物見矢倉

 4.井上剣花坊句碑(数箇所)

 5.旧明倫館跡

 6.旧児玉家長屋門

 7.平安古(ひやこ)

 8.久坂玄端旧宅跡

 9.春日神社

10.高杉晋作旧宅

11.城下苑(萩焼の店)

12.田中義一銅像

13.菊屋家住宅

これらの中で、特に印象に残ったというか、こころを動かしたところを3つほど挙げると、次のようなことがある。

 

先ず一番目は久坂玄瑞の旧家跡にあるこの人の墓碑めいた記念碑の場所である。幕末に活躍した長州藩の数多い人物の中で、その命を永らえることなく若くして動乱の中に消えていった人も多いのだが、その中で自分として最も惜しかった人物といえばこの久坂玄瑞と吉田稔丸(稔麿)ではないかと思っている。久坂玄瑞という人は、これから本番という時に自ら進んで凶禍に遭って落命した人である。松下村塾の中では最も期待されていた人物の一人と聞く。存命だったらなどと歴史の現実を枉げても仕方ないことではあるけど、その後の維新の在り様も変わっていたのかもしれない。惜しい人物だと思う。頭脳明晰で行動力もあるという人物は、師の松蔭がそうであった様に、変動の波を巧みに乗り切るという様な器用さを持ち合わせていなかったのかもしれない。吉田稔麿という人も、激動の歴史の中では久坂と同じ様な命運を辿ったのではないかと思えるのである。

 

次は田中義一という人物である。総理をつとめた人ということだが、今まで自分の中では取り立てて印象には残らない人物であり、ここへ来て銅像を見るまでは全く知らなかったといってよい。それが、銅像の説明文を読んでいて、チョッピリ印象が変わったのである。というのもこの人は維新からは少し後の世代で、昭和の初め頃に活躍したようなのだが、その出身が藩主の駕籠かきの倅だったということに驚いたのだった。馬の骨としては、由緒ある駕籠かきなどというものは俄かに信じがたいのであるが、それにしても時代の大きな変革の中で、立身出世の階段を上り詰めて一国の総理となったというのは、まさに見上げたものといえよう。その生き様に関して急に興味を覚えたのだった。昭和前半のいわゆる戦前の時代は、ある意味では明治や大正の先人たちの遺産を、軍部を中心にした輩が食い潰して、愚かな太平洋戦争を以て国を破滅させたのであるが、この道筋の中で田中義一という人はどのような役割りを担われたのか興味を覚えた次第である。帰宅後調べてみたいなと思った。

 

三番目は、高杉晋作という人物である。この人物の幕末に果たした役割は大きい。その内の最大のものは、何と言って奇兵隊の組織と運用であると思う。武士以外の者を戦力として活用するという発想は、太平の世が長く続いた江戸時代には無かったのではないか。身分制度などを乗り越えて実効性のある軍隊を組織し、それを自らが率いて勝利の実践を示したことが、長州が維新に貢献できた基盤となっていると思うからである。惜しくも若くして病に倒れ、その後の世界を見ることが出来なかったけど、この人物の存在感は実に大きなものがある。

 

その生家は萩城城下町のほぼ中心辺にあり、現在残っているのは往時500坪あったという屋敷のホンの一部だった。維新で活躍した人たちの中にあって、高杉家は200石だったというから中堅くらいの家格だったのではないか。それにしてもあの大胆な発想と行動力はどのようにして培われたのであろうか。興味津々である。彼の行動力の源泉となったのは、藩命による上海渡行の経験だったように思っている。上海の現状から世界の動きを知ったとき、目からウロコで自分が日本のために何をしなければならないのかという決心が現出したに違いない。薩長連合の坂本龍馬の申出でに逸早く賛同したのも、海外の情勢を目の当たりにした経験が大きく影響しているのだと思う。

 

 ま、そのようなことを想いながら、わずかに残っている座敷などを見学した。「西へ行く人をしたひて東行く心の底そ神やしるらむ」との一首が書かれていたけど、まあ、この時代の人はやたらに変名を使ったりして、自分というものを分身させているように感じた。それにしてもこの人が何故西行を敬慕したのか良く解らない。やはりこの時代の多くの人には、無常の感覚は大切なものだったのだということであろうか。近々すぐ近くの小さな公園にこの人の銅像が建つというのを、生家近くにある城下苑という萩焼の店の方から伺った。行ってみると、もう既に除幕式を待つ準備が出来上がっているようで、業者の人たちが最後の仕上げ工事をしているようだった。幕に包まれたその中にどのような姿・表情が用意されているのか興味を覚えたのだが、それは今度来たときの楽しみとなる。

  

以上が今日感じたことである。とにかくずーっともの凄い風で、歩くのに往生した。先ほどの城下苑という店で、今夜も一杯やる時のためにと、萩焼の徳利を買った。良い酒には良い徳利と良い盃が不可欠である。コップ酒も悪くは無いけど、幕末の人を想うて酒を飲む時には、コップはあまり相応しくないように思う。12時半頃まで街中を散策した後車に戻り、もう一つの道の駅:萩しーまーとへ行き昼食休憩。ここは直ぐ裏が海であり、もの凄い風に大波が打ち寄せていた。駅舎の中に魚介類を販売する市場のようなものがあり、その内の一つの店で、金太郎と呼ばれている魚の南蛮漬けを買った。今夜の肴にするつもり。維新の志士たちもこの魚を食べたのであろうか。

 

食事の後はしばらく休憩して、3時ごろに先ほどの菊ケ浜にあるホテルの温泉に入りに出向く。ホテルは海の直ぐ傍にあり、窓から見る日本海は、今まで見たこともないほどに荒れ狂っていた。そのような景色をなるべく見ないようにして、ゆっくりと久しぶりの温泉を楽しむ。温(ぬる)めの湯だったけどよく暖まって、良い湯だった。風呂から出て、今夜の泊りは面倒でももう一度道の駅:萩往還にすることにして移動する。海の傍のこの風では、眠るのには少しばかり勇気が必要だ。そのような勇気はなるべく使いたくない。

 

20分ほどで昨夜と同じ道の駅に。泊りの人など誰もいないようだ。山の中の一台ぽっちの泊りというのも、些か心もとない気がするけど、もう馴れているので、大丈夫である。先ほど買った金太郎という魚の南蛮漬けは酒にはぴったりの獲物だった。金太郎という魚は関東では見たことが無い。萩に住む人たちは恵まれているなと羨ましく思いながら、今ここでその美味と美酒を味わえる自分も幸せ者だなとしみじみ思ったのだった。

 

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