第7日 <10月29日(金)>
【行 程】 道の駅:あいお → (K25・R2) → 錦川川原P<錦帯橋見物>(岩国市) → (R2) → 宮島口町営P → 宮島行きJRフェリー(往復)<宮島見物・厳島神社参拝>(広島県廿日市市) → (R2・廿日市ICから山陽道へ) → 小谷SA(広島県東広島市) (泊) <184km>
秋穂町のここは、何と交通量の多い道なのであろうか。早朝からたくさんの車が往復している。通勤の車だけではなく、時々ダンプのようなのも通り過ぎてゆく。ここは一体どういう町なのだろうかと、ちょっぴり不思議に思った。8時過ぎ頃から店に並べる野菜などを運んで、近所の人らしいご老人たち(その殆どは女性)がポツポツ集まってきて、何やら世間話に時を過していた。案内の資料によれば、この道の駅でも近くの海で獲ってきた魚などの海産物を販売するというので待っていたのだが、開店の9時近くになってもそれを運んできた気配は感ぜられず、全くの期待外れだった。野菜類もご老人たちが畑の隅でほんの少し作ったものの余りを持ってきたようなレベルのものばかりで、到底買う気にはなれなかった。
9時過ぎ諦めて出発する。次の大きな目的地はしまなみ海道の島々なのだけど、その途中を久しぶりに錦帯橋や宮島などの観光をしながら行く考えでいる。今日は先ずは錦帯橋を見物して、その後に宮島に渡って厳島神社などを観て回るつもりでいる。通行量の多いと思っていた県道25も、いざその車の中に混ざって走ってみると、さほどでもないのはどういうわけなのだろうか。少し走ってR2を右折して防府方面へ。しばらく山陽道の下を走って、間もなく山際のトンネルの多いバイパス道と思しき状況となり、人家は遠く離れた箇所の通行となった。燃料の補給をしなければならず、少し心配となったが、周南市の旧新南陽市の市街地に入ったので、もう大丈夫。少し安いスタンドを見つけて給油する。この辺りの油の価格は高くて、なんと高速道のスタンドよりも高い所が幾つかあった。石油の小売価格はこの辺りは北海道のそれよりも高いような気がする。因みに旅に出る前の守谷市内の給油所では軽油1Lは丁度100円だったが、中国道の給油所では113円、この辺りでは115円もしているのである。この大きな違いは一体何処から来るのか、謎である。山陽側であれば、少なくともコスト的には茨城県などよりは少ないのではないかと思うのだが、これは間違いなのだろうか。この辺の人たちは皆騙され続けているのではないか。そう思うほどである。どうも給油のこととなると、ムキになってしまう。幾ら高いといっても、入れなければ車は走らないのだから、ムキになったりしても仕方がないことなのだ。とにかく給油を終えてホッとして再出発。
旧徳山市を過ぎ、下松市からは山の方に入り、岩国市に向う。この辺りは初めて通る道なので、全く土地堪が無い。岩国市に近づくにつれて一層山の中を走ることとなった。岩国というくらいだから、ごつごつとした岩肌の山塊が連なる土地が多いのであろうか。錦川という清流が流れているのに出くわし、そういえば錦帯橋はこの川に架かる橋だったと気がついた。錦川に架かる太鼓帯のような形状だから、錦帯橋と名づけられたのかもしれない。今初めてその命名の由来に気づいたように思った。本当のところは分からないけど、無関係ではないような気がした。錦帯橋への案内板がある道を右折して少し行くと、右手の高い山の上に岩国城が見えてきた。そして目当ての錦帯橋も目に飛び込んできた。駐車場は錦川の川原が当てられているらしい。何台かの観光バスが止まっていた。一般車は無料で駐車OKである。凸凹の石の上を走るのには少し気を使ったが、タダだというので文句はない。
錦帯橋に来るのは40年以上も昔以来である。広島に出張で来た時に会社の知人が休日に車で連れて来てくれたのだった。当時はマイカーを所有している人は珍しく、知人はその珍しい人たちの一人だった。アンチ車派だった自分はまだ免許も取っていなかった。その時に見た錦帯橋はかなり古びていて、もっと黒っぽい色をしていたように思う。あれから40年以上も経っているので、当然大修理が行なわれたのであろう。詳しいことは知らない。とにかくこの橋が岩国城とセットになって、その昔の国を支えてきたことは明白だ。それにしてもあの城のある山の位置と高さは、如何なものであろうか。戦国時代の名残りを留めているのだろうけど、太平の治世には不便極まりなかったことであろう。以前、九州は竹田の岡城を訪ねた時も思ったのだけど、山の天辺近くにある城というものは、確かに難攻不落ではあっても、天下を取る人物が住むには相応しくないなということである。敵を寄せ付けず、上から見下ろして守って居るだけでは、世の中を手中にして治めることは出来ないからである。岩国城がどのような歴史を持っているのかは解らないけど、観光用としては、今は何の問題もない。
40年ぶりの錦帯橋。太鼓橋の向うの山の上に、小さく岩国城が見える。いかにも日本の昔を偲ばせる景観である。
邦子どのは初めての錦帯橋ということで、歩いて橋を往復していた。自分の方は、橋を渡ることにはあまり興味が無く、橋の下からその構造などを覗くことに時間をかけた。よくもまあこんな複雑で面倒な仕事を先人たちはやってのけたものである。工人の才能を全く持ち合わせていない自分としては、ひたすらに感心するばかりである。
いつの間にか昼近い時間となっていた。邦子どのが、橋を渡ったついでに岩国寿司というのを買ってきたので、お湯を沸かしてお茶を淹れ昼食とする。岩国寿司というのはこの地の名物らしい。ちらし寿司のような押し寿司のような、子供向きのような大人でもゆけるような、なんだか変わった姿と味をしていた。自分にとっては名物に○○なしといった感じだった。酒飲み向きではないということかもしれない。
宮島は錦帯橋からはさほど離れていない。40分ほどで渡船の桟橋近くに到着。どこか適当な駐車場がないかと探したがなかなか見つからない。何しろ幅が2m以上もあり、高さも3mを超えているので、普通車が主体の駐車場ではSUN号は嫌われ者である。一回り回って、町営の駐車場で何とかならないかと覗いたら、バス専用のスペースに停めても良いとの話を貰った。バスがそれほど混んでいなかったのが幸いだったらしい。とにかく安堵して車を停める。宮島観光はこれで3度目くらいだろうか。広島には何度も来ていてもここに来ることはなかなか出来なかった。転勤で四国の高松に住んでいる頃、子供たちを連れて厳島神社に参詣したのが30数年前だったと思うが、それ以来の訪問である。台風などで神社の建物などが甚大な被害を被ったという話を聞いたのも、もう大分前のことのようだ。旅車で来ることになろうとは、30数年前には想像もできないことだった。時は流れ、人は変わるものである。
往復340円也の船の切符を買って乗り込む。国際的な人気スポットとなっているのであろうか、外国からの観光客も多い。北海道などと違って、中国系の人が少ないのに、なぜか安堵する。日本中を中国からの観光客が我がもの顔で歩き回っているのを見るのは、如何に観光立国とはいえ、チョッピリ抵抗を覚える。北海道で見る限りでは、中国からの観光客の人たちのマナーが良いとはお世辞にも言えない気がする。宮島観光は、中国の人たちからはあまり魅力を感じない場所なのだろうか。よく分からない。厳島神社の海中の大鳥居が次第に近づいて、写真を撮るなどしている内に、たちまち宮島の桟橋に到着した。
今日は厳島神社への参拝は最後にすることにして、何時もとは少し違った道を歩いて見たいと思っている。船着場広場前の細道を入って行くと、山辺の小径というのがあった。人一人が通れるほどの幅しかない。かなりの急な坂道を登ってゆくと、小高い丘の上に出て、そこが要害山という所だった。鹿君たちが黙って迎えてくれた。何とかいう神社(今伊勢神社)があったが、ここはその昔の毛利と陶(すえ)との古戦場だったとのこと。この小さな丘に300人余の毛利方が陣を張り、周囲に2万人を超える陶軍が取り囲んだという。毛利方が陣地を死守する内に本軍が陶軍の後背を突いて攻めかかり、陶軍は大敗を帰して壊滅したという。往時の景観がどのようなものだったのか、現在では想像もできないほどの樹木の生い茂る山ばかりの景色ではなかったか。歴史というのは、正確に掘り起こすことが難しい。
要害山の今伊勢神社からの急な石段を降りると、町家通りというのがあった。この島の人々が普通に暮らしている居住エリアなのだと思うけど、何しろ道幅が狭い。そこをひっきりなしに車が行き交うものだから、歩くだけで神経を使い疲れてしまう。ここに住む人たちはもう慣れておられるので、どうってことないのかもしれないけど、初めての者には大変だった。ぶらぶらと歩いてゆくと、厳島神社の裏手の方に出る手前に、五重の塔への道があり、朱色の建物が眼前に聳えていた。五重の塔は後回しにして、先ずは紅葉谷の方へ行って見ることにした。
紅葉谷はまだ紅葉が始まってはおらず、かなりの数のカエデ類もほんの少し赤みを帯びたものが目立つ程度だった。ロープウエイの所まで行って見ようとしたのだが、邦子どのは最初からギブアップで、あたしはもうだめだから、ここまでで引き返すようなことを言っていた。お好きなようにとしばらくそのまま坂道を登ったのだが、少し気になって引き返すことにした。勿論元の場所にいるわけもなく、既に何処かへ消え去っていた。
まあいいいやとしばらくは自分ペースで歩くことにした。ともかく五重の塔の所へ行くことにして、坂を登ってゆくと千畳閣という大きな建物があり、秀吉公が造られたとかの説明があった。何でも大きいものを造りたがる人ではある。こんな狭い所に何もこんなものを造らなくてもいいものを、などと現代人の感覚で批判したりしながら、五重の塔近くに行くと、邦子どのがいるではないか。なあ~んだと思った。写真などを撮っていると、風が吹いて寒いので、あたしは先に下の方に行くといって、階段を下りて行ってしまった。自分の方は、その後はもう一度千畳閣の縁の下などを眺めながら、厳島神社の脇の方へ出ることにした。参拝は有料なので一緒にした方が良かろう(というよりも、実は財布を車に置いてきてしまって、殆ど無一文なのだった)と思っていたら、邦子どのから電話があり、どこにいるのかという場所の確認だった。一応知らせたのだったが、その後がどうもいけません。幾ら待っても、何度も電話をしているくせに、場所の見当がつかないらしく、現れそうもないのである。仕方なく、大回りをして厳島神社の陸の方にある大鳥居をくぐっての道を行き、社務所の方に行ってみることにした。すると社務所の受付で入場料を払っている邦子どのの姿が見えるではないか。50mほどの距離で、声を掛けようかと思う間もなく、すっ飛んで中の方へ行ってしまった。というのも、丁度結婚式があったらしく、この際に舞う能面と古式の衣装を身につけた舞い手が、今丁度その舞を始めたらしく、その写真を撮ろうと一心のようだった。周囲のことなどは全く目に入らない様子だった。
宮島の側から見た厳島神社の海中の大鳥居。実物はやはり雄大で荘厳である。
こちとらは何しろ入場料の300円すらも持っていないのである。入るのは諦めて、別の道を行くことにした。しばらく経って、電話があったけど、もう後の祭りである。おまけに携帯のバッテリーが突然赤表示になり使えない状況となってしまった。仕方がないので、遠くから厳島神社を拝み、渡船の駅まで行って待つことにした。30分もすると、紅葉饅頭を抱えた本人が何事もなかったような顔でやって来た。自分が財布を忘れるのは常習犯的なことなので、ただ呆れ返られただけだった。それにしてもお金がないと真に不自由なものだなと改めて思った。帰りのフェリーは、何だか満たされない気持ちだった。
車に戻り、今日の宿に向け出発。今日の宿は山陽道のどこかのSAを予定している。広島近郊には道の駅は無く、あるとしてもかなりの山の中の方となってしまう。明日はしまなみ海道入りをしたいと思っているので、直結している山陽道のどこかのSAに泊るのが好都合という考えである。廿日市ICから入って、最初に宮島SAというのがあったが、まだ17時前で明るく、泊る準備をするのは早過ぎるので、次のSAにすることにした。その小谷SAに着いたのは、17時40分だった。もう辺りはすっかり暗くなっており、丁度良いタイミングである。山陽道は中国道とは大違いで、何処のPAもSAも車が一杯である。小谷SAもかなりの混雑ぶりだった。トラックもかなりの数が停まっており、一般車も相当の混みようである。これじゃあ今夜は安眠は難しいかなと、半ば諦めての泊まりとなった。観光地を歩き回ったので、疲れもかなりあり、食事の後は寝床に入り、あっという間の眠りとなった。