山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

後退するくるま旅の環境

2009-09-26 05:25:02 | くるま旅くらしの話

今年の北海道の旅で改めて思ったのは、くるま旅の環境が更に一歩後退したのではないかということです。リタイア後の人生を活き活きと生きるための手だてとして、くるま旅くらしの持つ意義を大いに強調したい私としては、真に残念なことだと思っています。

くるま旅の環境とは何かといえば、それは基本的には在宅の時と同じ暮らしの条件であり、いわゆるライフラインが確保されているかということが基本になると思います。ライフラインというのも、考え方によってその中身には違いがあるのかもしれませんが、私としては、生命と暮らしを支えるために不可欠な要件というふうに捉えます。具体的には、①水、②エネルギー(ガス、電気)、③食糧、④情報(電話、ラジオ、TV等)⑤トイレ、⑥ゴミ処理等が考えられると思います。⑤と⑥は暮らしの結果としての負の部分ですが、この対応ができなくなると暮らしは極めて不安定となるということから、私はライフラインに加えて良いのだと思っています。地震や台風などの大災害時に、どのようなことで困るかというのを思えば、その必要性は明白ではないかと思います。

さて、これらの中身の現実を見てみますと、くるま旅の中で特に問題があるものとしては、①水②電気⑥ゴミ処理が挙げられると思います。

①の水については、日本国の中では有料で水を汲むという施設の存在は聞いたことがなく、公共施設においては全て無料であるというのが現状かと思います。それ故なのか、これを利用する側には安易感があり、マナーの欠如からその管理サイドを著しく困惑させるような行為を為す者や、或いは利用者が急激に増えることによって想定を超える使用量となって管理サイドのコスト負担の限界を超えるというような現象が生まれて来ています。くるま旅においては、飲料水は購入して確保することは出来ても、洗いものとなれば水道水等を利用しなければならず、相当に工夫しても洗いもの無しというわけにはゆきません。したがって窮すればトイレの水や公園の水などを利用するということになります。くるま旅の実践者が増加することによって、今までさほど問題のなかったエリアでも、次第に問題が表面化し、何らかの対策を講じざるを得ないという状況になりつつあるように思います。

②の電気については、家庭内においては電気の供給が断たれることはまさに生命線を断たれるに等しいのですが、くるま旅においては、それは車の装備の問題であって、それが叶わなければ叶わないなりの対応をすれば良い、というのが常識となっていると思います。しかし、例えば、環境問題が姦しい昨今ですが、車が自車で電気を充足するためには、発電機やエンジンを掛け回すことが不可欠であり、これは排気ガスのみではなく騒音に関しても近隣に多大な迷惑をかけることとなります。ソーラーを取り付けることによって、ある程度は電気不足をカバーすることは出来ますが、これには限界があり、全てをまかなうことは不可能です。有料の簡易電源装置があれば、車の種類の如何に拘らずこの問題はかなり改善されるはずなのですが、未だそのような本格的な取り組みなされているのを聞いたことがありません。これから電気自動車等が出現すれば自ずと改善されてゆくのかも知れませんが、現実は旅車の電気に関しては、ビルダーの思いと車のユーザーの現実には大きなギャップがあり、悩み多い状況にあります。

③のゴミ処理に関しては、一部前向きな検討がなされているのは心強いのですが、総じて見れば後ろ向きの傾向の方が強くなっている感じがします。今回の旅でも今まであった場所からゴミ場所が撤去されたのを散見しましたし、新しい道の駅などでは、高らかにゴミ箱がないことを宣言し、全て各自が持ち去ることを求めています。生産・販売と消費との関係は、全く別のことだと考えるのは、個々の立場ではそうかも知れませんが、トータルで見れば、生産とはゴミの源を作ることであり、販売とはゴミの源を消費者に売ることを意味しているのです。もし本当に消費者が王様なのなら、生産・販売者は王様のためにもっと何かを考えるべきではないかと思います。ま、そのような狭隘な話ではなく、地球環境問題を正視するならば、私はゴミの問題は国家的見地からその処理についての社会システムとしてのあり方を明確に規定すべきだと思います。分別などについても地方自治体に任せるのではなく、環境問題に照らしてそのあり方を国が決め、罰則等も厳しく規制して守り・守らせることを明示すべきと思うのです。環境問題を考える上で、ゴミ処理はキーとなるのではないかと思っています。

以上、3つの事柄について、くるま旅をしている側からの視点で、簡単に現状の問題点等に触れましたが、これへの対応としては、いずれの項目においても相当に後ろ向きであり、年を追う毎に状況は悪化している感じがします。公共施設からのゴミ箱は撤去し、公園の水飲み場の洗い用のコックは取り外して使えないように工夫し、、道の駅などでは一切の水汲み施設はつくらず、等々の施策は、その殆どの管理主体が財政難に苦しむ市町村の地方自治体であり、利用者のマナーの悪さとも相俟って、余計な費用負担を増加させるわけにはゆかないという事情があるのかもしれません。それを考えると防御施策はやむを得ないのかも知れないという気にもなるのですが、しかしそれでは世の中の進展に逆行することになってしまいます。

私は、くるま旅というのは、車社会が生み出した新しい旅のスタイルであり、新しい文化なのではないかと思っています。車社会が到来してもうどれほど時間が経ったのでしょうか。私が子供の頃は、自動車を個人が持つというのは、限られた人びとだけでした。それが当たり前になり出したのは、40年くらい前からではなかったかと思います。その時代にはくるま旅の発想など殆どありませんでした。仮にそうしたいと願っても、働かねばならず、くるま旅をしている時間も余裕もなかったのです。それは基本的に今でも変わってはいないと思います。現役世代(仕事をしながら世の中を動かし・動かされている世代)でのくるま旅は、行き先も期間も限定されるからです。くるま旅が可能なのは、現役をリタイアした世代、もっと明確に言えば、高齢化の入口、もしくは高齢化の中にある人びとだと思うのです。40年前はそれらの世代の人々は、くるま旅という発想を持つことが出来なかったといえると思います。しかし、40年経った今は、暮らしの中で車を使うのが当たり前の人たちが高齢化の入口に立ち、高齢化を迎えています。これらの人びとが、車を使って旅をしようと考えるのは当然のことだと思います。特にここに来て、いわゆる団塊の世代と呼ばれる人びとが大量にリタイアする時期を迎え、ようやく旅の出来る時間を獲得して、長年の夢を実現しようとするのは、これ又当然のことではないでしょうか。私は、そのような時代認識から、くるま旅は新しい旅のスタイルであり、これから新しい旅の文化が創られてゆくものなのだと思っています。

ところが、世の中はどういうわけなのか、それを認知してはいません。依然としてくるま旅などというのは、物好きな人の気まぐれな遊びに過ぎないくらいの考え方が普通で、旅の文化などとんでもないという捉え方です。世の中全体が不況に喘いでいるのに、リッチな年金暮らしの者がつべこべ贅沢なことを言うなど何ごとか!くらいの認識かも知れません。もしそうだとしたら、今まで汗水たらして働いてきてようやく夢の実現に辿り着いた人たちは、一体何に報われることになるのでしょうか。年金暮らしの範囲の中でのくるま旅が許されない、などというバカげた話はないと思います。当然、そのようなことにお構い無しに、リタイア後の人たちはくるま旅の実現を目指すのだと思います。これは、一つの歴史の必然ではないでしょうか。この流れを止めることは不可能ではないかと思うのです。

世の中全体の旅の中では、くるま旅は真にマイナーの存在であって、旅といえば昔からの個人旅行やツアーのような、車だけに依存しないスタイルのものしか認知せず、旅車などは胡散臭さの中に捉えられていますし、キャンプ場などにおいてもわずか2~3日間を過す客のためのオートキャンプ施設だけしか考えておらず、長期滞在の旅車を受け入れる発想は殆ど生まれてはいません。

時代を読めば、そこにビジネスチャンスがしっかり潜んでいるのに、それをものにしようという新たなビジネスモデルは一つも生まれていないように思います。車社会というものの捉え方が観念的であり、旧態依然であるように思うのです。

このことはやがて様々な問題を生起するに違いないと思います。増え続けるくるま旅の志願者は、受け入れる環境がないままならば、社会的な迷惑と思われる行為を加速化させるに違いないと思うからです。マナーの問題が重視されていますが、今の日本国では、人びとの公共心や道徳心は注意喚起すれば守られるというようなレベルには無いと思えるのです。厳守が当然と考えている人はホンのわずかで、大半はそれが悪いことと知っていても、状況によってはちょっとしたことくらいならやっても構わないと思っているでしょうし、最初からマナーなど無視して行為に及ぶ人間は、厳守当然人間よりも多いのではないでしょうか。

このようなことを考える時必要なのは、くるま旅の環境整備をすることなのだと思うのです。その前提には、くるま旅は車社会が生み出す新しい旅のスタイルであり、それは歴史の必然なのだという認識が必要です。これがないかぎり、問題の本質的な解決にはつながらないと思います。環境整備には、コストも掛かるし、いろいろな切り口があると思いますが、基本的にはくるま旅のコストは旅をする者が負担するという発想が必要だと考えます。100%負担を求めるかは別として、全くタダで旅をするというのはムシが良過ぎるというものでしょう。

今年の北海道の旅では、町の公園などの駐車場に、やたらに押しかけてくる旅車を持て余し、水飲み場の水栓を取り外して埋めてしまったり、公園や展望所のゴミ箱を撤去してしまったりしている公共の場所がかなり増えたように思いました。又スーパーやホームセンターなどでもゴミは一切お断りというのが増えています。ちゃんと受け入れているのはコンビニくらいのものですが、これとて、今後大量のゴミを受け入れるわけにはゆかないでしょうから、守りの体勢に切り替えた時には、たちまちゴミ箱は消え去るに違いありません。

どんどん悪化するくるま旅の環境に、ため息をつきたい思いで家に戻ったのでした。まとまらない話ですが、環境づくりへの話がまとまって動き出す日が来るのを夢見ています。

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