山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

無計画と無謀

2009-09-14 04:14:04 | くるま旅くらしの話

旅の中で、呆れかえった話があります。モブログ記事にも書きましたが、旅の最終段階になって、高速道に乗る前にR4を通って三戸の知人を訪ねた時のことでした。道の駅にいるという知人を探して三戸の道の駅に車を停めていたら、3人の大学生というのが傍に寄ってきて、そのうちの一人が自分たちはヒッチハイクで九州からやって来て、北海道の札幌まで行き、これから久留米まで戻るのだけど途中どこまででもいいから乗せて行って貰えないか、という話でした。自転車で来たのだけど足が痛くてもうこれ以上は走れないので、何とかお願いしたいということです。確かに疲れているようで、話をしているリーダーらしき子以外の2人は、へたり込んで足を撫でていました。

我々の方はと言えば、これから知人と話した後は一戸ICから高速道に入り、そのまま南下してどこかのSAで泊まって明日帰宅する予定です。無理だと断ったのですが、3人はしつこくて一戸のICまででもいいから、乗せて行って欲しいと諦めません。体だけなら何とかOKしてもいいとは思いましたが、何しろ自転車が3台もあるのです。後ろのバイクキャリアには荷物入れの箱を積んでおり、それを外せば2台を載せることは可能で、あと1台は無理すれば室内に入れるのもできるかも知れないけど、旅車はトラックではなく、室内は居住空間であり、いわばダイニングやリビングに自転車を持ち込むことになり、歓迎は出来ません。

話をしている内に彼らはだんだん勝手なことを言うようになり、自転車3台を縦にすれば車に入るとか、分解すれば何とか積める等と言い出しました。自分たちの願望というのか要望というのか、相手のことなどあまり考えずに自分たちの都合の良いようなことばかり言うのです。自転車で来たと言うので、出発する前にどれくらい訓練したのか聞くと、そんなことは全然していないといいます。シュラフなどを積んでいるのかと聞くと、そのようなものは何も持ってきていないといいます。幾ら若いといっても、それは無謀というものだと話すと、自分たちは無謀が好きなのです、などというのです。これには呆れかえりました。

私が52歳の時、半月ほど休暇を貰って四国の八十八箇所を自転車で回ったことがありますが、そのときは半年以上も前から20kmほど離れた勤務先まで毎日自転車で往復通勤し、休日には往復100kmほどを休みなく走って足腰を鍛えて実行したのでした。お蔭でへたることもなく1,300kmを12日間で走破し、無事目的を達することが出来ましたが、自転車の旅と言うのは歩くよりも厳しいものなのです。たとえヒッチハイクといえども、車に乗せてもらえないときには自転車で行かなければならず、その距離は20~30kmになることなど当たり前でありましょう。幾ら無謀が好きとはいえ、北海道まで行くのなら多少は自転車で走りこんで足腰を鍛え、野宿も覚悟してシュラフやテントくらいは持参するのが当然だと思います。

それがこの3人は、全く何もしていないというのです。先ほどから話している自転車が見当たらないので、訊くと下のコンビニの前に置いてあると言うので、それを見ましたら、何と使い古したようなママチャリではありませんか!変速ギア付きの自転車かと思っていたので、これには又々あきれ返りました。と同時に次第に腹が立ってきました。乗せるというのは即刻止めることにしました。このようなバカ者どもを乗せるなんてとんでもないと思ったのです。それまで多少あった同情心は一気に吹き飛び、怒鳴りつけたいような衝動に駆られました。

以前にも、北海道への旅でヒッチハイクの一人旅をしているという、沖縄からの青年を拾って乗せたことがありますが、彼は自転車ではなく歩きでしたが、シュラフは持っており、道の駅のトイレの前の地べたに寝ていたのでした。少し気の毒になった相棒がその青年を連れてきて乗せることになったのでしたが、家内が得体の知れない人を乗せるのは不安があるなどと話すと、彼の方でも乗せて貰う側にも同じような不安があるのですということで、なるほどお互い知らないもの同士ではそうなのだろうなと思ったのでした。本当に困っている善人ならば、何とかして同乗させてあげようという気持ちは我々にもあるのですが、この3人のあり方については、同乗の余地など殆どありません。無謀が好きなら、無謀の結果がどのようなものなのかをトコトン楽しんだらいいと思っただけでした。

3人で旅をしているというのも、主体性がなく気に入りません。リーダーと思しき者は折衝のために口を利いているので、多少は鍛えられると思いますが、他の二人は泣き言だけを言っていて、下等な同情心を煽ろうとしているだけです。一人で出来ないことを3人でやるというのは必ずしも悪い考えではないと思いますが、反面一人ひとりではやる度胸がなく、もたれあった依存心が不安の解消に役立つだけで、本人たちの本当の力にはならないと私は考えます。若者が旅に出て自分を鍛えることについては、大いにエールを送りますが、大学生とも思えぬこのような無謀にして幼稚な遊びに対しては、同情心も激励心も全くありません。あきれ返るのを通り越して腹が立ったというのが本当のところです。

良くもまあこのような奴らを札幌まで運んでやった人がいるものだと、その騙され易い運転手たちを気の毒に思うと共に、これから先は誰も乗せてやらないことを願ったのでした。

ところで私どものくるま旅くらしは、無計画というか、あまりきっちりとスケジュール化されていないことの大切さというか、面白さというようなものを強調していますが、これは無謀とは関係ありません。無謀というのは、旅のための基本事項を何も考えずに、その場その場で行き当たりバッタリに対処してゆくようなやり方を言うのです。例えば旅のライフライン(電源、トイレ、給排水、情報通信、ガス、予算など)に関して杜撰(ずさん)なまま旅に出かけるというのは、無謀というものです。必ずいつかどこかで旅が成り立たなくなり、破壊されてしまうに違いありません。このときに他人に依存するというのが最後の手段となるのでしょうが、他人頼みの旅は本道とは言えないでしょう。ヒッチハイクというのは最初から他人頼みの旅であり、旅する本人に己を律する厳しさがないのならば、そのような旅はするべきではないと私は思います。無謀と無計画とは旅の根本精神に於いて全く異質のものだと思います。

その後の3人がどうなったのかわかりませんが、誰かに拾われてのうのうと久留米まで帰り、今年の無謀の旅は面白かった、又来年も是非やろうなどということには決してなっていないことを願っています。世の中は無謀を安易に許すほど甘くないということを学べなかったのなら、彼らのこれから先には幾つもの挫折の陥穽が待ち受けているに違いないと思うのです。基本的なことをいい加減にした無謀の結果は、一般的には天罰と呼ばれているようです。基本をいい加減にした生き方には、必ずどこかで天罰が下されるということを、この70年近い人生経験の中で、たくさん見てきました。つい先日も同じ北海道大雪山で大勢の遭難者を出していますが、これなどもどこかに無謀の要素が侵入していたように思います。

コメント
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