山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

旅の準備

2008-02-19 05:27:13 | くるま旅くらしの話

今日(2/19)から千葉県南部をウロウロしてくる予定です。旅の報告は1日遅れとなります。ですから、今日は休みなのですが、チョコッと準備の様子などを紹介させて頂きます。

昨日からそれなりに準備しています。今回はせいぜい4日ほどの日程ですから、準備といっても大したことはなく、本当は特にそのような大げさなことは考えなくとも大丈夫なのですが、ご参考までに敢えて紹介させて頂きました。

先ず車の方ですが、これは車検が済んだばかりですので、ハードの部分は大丈夫でしょう。オイルや冷却水などの点検は省略しました。チエックとフォロー事項として、①ガスボンベ(5kg×2)②バッテリーとソーラーの稼働状況③給水タンクへの水の注入とポンプの稼働状況④カセットトイレの給水と消臭剤のチエック⑤冷蔵庫の予冷⑥TV他電源等の確認などがあります。これらを出発前に終了させることにします。

持参品ですが、普段旅に出ない時には、食材や調味料などは車内には保管していませんので、先ずはこれらの用意をします。食材は、原則として旅先でゲットすることにしていますので、今回は家からは畑から採ってきたほうれん草を持参するのみです。旅の食卓には調味料は大切な役割を果たすと思っており、味噌・醤油・酢・ポン酢・コショウ・七味・削り節・だしの素・昆布などを忘れないようにします。これらは旅先でも補充できますが、家から持ってゆくのが安心です。食材と食器はつながっており、うっかり忘れないように車内の戸棚の中をチエックします。今回は土鍋も持参した方がいいかな?酒類なども我々には必需品ですので、用意します。又、飲料水はペットボトルを途中で買うことにします。

次に着衣ですが、今回は期間が短いこともあり、洗濯無しで行けますので、下着類を少々持参する他は防寒の用意と、後は夜間の寝巻き類など、それから相棒は湯たんぽを持参することを忘れないようにしています。冬の期間の湯たんぽは万能選手のようですが、私はしたことがありません。入浴関連は、千葉ではあまり期待できませんが、念のためその必要品は持参します。

次の持参品としては、情報収集・記録関係です。パソコンとその付属品、携帯電話と充電器、カメラと三脚・充電器、CDMD(音楽)、記録メモ、地図、道の駅案内書、「千葉県の歴史散歩」書、などがあります。注意しなければならないのは、充電器やカードリーダーなど各種ツールの補助用具です。これを忘れると肝心の本体が使えなくなってしまうことがありますので、特に入念にチエックします。

私の場合は、旅が終わってから(今回はわかりませんが)記録を作ることにしていますので、旅の途中で必ず写真のような旅の行程記録のメモを持参し、途中の要所でメモを書き込むようにしています。書き込む項目としては、日付、場所、時刻(到着・出発)オッドメーター数、メモ内容です。これを作っておけば、後はデジカメ日記と連動させて、旅のプロセスと主な出来事を思い出すことが出来ます。

 

 旅の行程記録(これは1枚目。2枚目以降はタイトルなしのものを使用する)

また、どのような旅の場合でも忘れないで持参するようにしている資料として、そのエリアの地図は勿論ですが、その他に「○○県の歴史散歩」という山川出版発行の小冊子(今回は「千葉県の歴史散歩」)と道の駅の案内書(月刊誌「オートキャンパー」の付録)を持参します。この他にも目的に合わせて何種類かの資料を準備するようにしています。又辞書の持参も不可欠で、これは専ら電子辞書に頼っています。各種筆記用具を忘れないようにするのは勿論です。

   

     基本持参資料(今回は「千葉県の歴史散歩」と道の駅案内書)

 その他の持参品としては、薬類(今頃では花粉症対策が肝要か?)や保険証、細かなものではメガネや拡大鏡などがあります。何やらドタバタしている内に結構忘れてしまって、旅先でムダ買いをすることもあるので、要注意です。リストを作ってチエックしてもポカをするタイプなので、我ながらしょうもない奴だと思っています。さて、今回の旅はどのようになりますやら。まだ具体的なスケジュールは全く未定で、今日はとりあえず佐原の街中を歩いてみようということだけを決めています。泊まりも何処になるのかワカリマセン。花の方をめがけて真っ先にそこを目指すというようなことは決してしないのが、我々のくるま旅のスタイルです。では。

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旅車の車検終わる

2008-02-18 06:33:32 | 宵宵妄話

我が旅車のSUN号が3回目の車検を今日(2/17)終えた。走行距離が9万8千キロ近くとなり、6年間の使用期間としては、まあ良く走ってくれていると思う。SUN号は沖縄県を除く全国各地を殆ど訪れていると思う。特に毎年北海道へは欠かさずお邪魔しているので、今までの走行の半分近くは北海道内が占めているのではないかと思う。去年の7月にオッドメーターが9万キロを超えたのも北海道の美瑛町近くだった。この時は道端に車を停め、記念の写真を撮ったりした。

      

          去年7月オッドメーターが9万キロに達した。もうそれから8千キロ近く走っている 

我が旅車は基本装備以外には、殆ど何も備えていない。それでも6年近くになった去年の年末に、とうとうソーラーとサブバッテリーを追加した。それくらいで、電子レンジも音響の設備もない。電源のことを考えると、ソーラーだけはどうしても具備する必要があると考え、思い切って追加したのだが、もうこれ以上望むものはない。

旅車の考え方には、かなりの個人差があると思う。それはユーザーの楽しみであり、過剰な装備であろうと、不足が目立つ装備であろうと自由であるといえる。ただ大切なのは、車を愛車として扱っているかどうかということだろう。不満ばかりを車にぶつけながら車を扱っている人を時々見かけるが、気の毒だなあと思う。その人だけではなく、車に対しても抱く感情である。

私は自分の旅車は最高だと思っている。装備など不足していても、それは車の所為ではなく、皆自分の所為なのだ。だから、今までソーラーがなくて電源に不安が大きかったのを、車に対して申しわけなかったと思っており、更にソーラーだけでは問題が解決できなくても、それは車の所為ではないと思っている。

  

          北海道、十勝岳を遠望する上富良野町白銀荘のSUN号 

 世に存在する全てのものには、長所と短所があるに違いない。完璧などという存在はない。神様にだって長所と短所があるに違いない。大切なのは長所がより多いということではなく、長所と短所があるということを認めることなのだと思う。そして短所をカバーし、長所をより活かした対応を考えることなのだと思う。

キャンピングカーにもいろいろあって、夢のようなモーターホームもあれば、手づくりの小さな旅車もある。夢のようなモーターホームが長所ばかりかといえば、必ずしもそうではなく、逆に小さな手づくりの旅車は旅車に値しないのかといえば、断じてそのようなことはない。旅車の価値は他人が決めるのではなく、自分自身が決めるのである。だから自分の旅車を愛車と呼べない人は気の毒である。

別に惚れ惚れとするほどの大げさな感慨は無いけど、我がSUN号は私にとって、そして相棒にとっても、今は無くてはならない大切な存在である。新しい車に乗り換えようなどという考えは全くない。古くてどうにもならない部分が出てきたら、手当てをしてやれば良い。これからはそろそろそのようなことが起きてくるのだと思う。10万キロ近くになって、若干車検のコストが高くなったのは気に入らないけど、年寄りの医療費がかさむのと理屈は同じなのであろうから、やむを得ないと考えている。

  

          霧の摩周湖、第3展望台付近駐車場のSUN号

密かにあと4倍の、40万キロくらい迄は乗り続けたいと思っている。年間2万キロほど走って15年での距離だから、その時には80歳を超えていることになり、これはなかなか難しくも面白い目標のような気がしている。そこまで到達できれば、この身も車のほうもいつ次の世界へ旅立っても満足できるのではないかと考えている。その夢が実現することを心底願っている。

明日からは、車検を終えたSUN号で、久しく溜まったストレスを流すべく、南房総の花を楽しんで来たい。

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キャンプ場への期待

2008-02-17 04:31:31 | くるま旅くらしの話

今日(2/16)の町田編集長(キャンピングカー・スーパーガイド・オンライン)のブログに「キャンプ場の課題」というテーマで、先日開催の「キャンピング&RVショー」の際に開かれた、JRVA所属ビルダー有志とキャンプ場運営者有志との「キャンピングカーとキャンプ場のより良き関係を模索するための意見交換会」開催の記事が掲載されていた。またそれに合せて、オートキャンプ評論家の竹本さんのお考えが紹介されていた。

偶々MHP(Motor Home Port 旅車の簡易宿泊専用駐車場 )のことについて、提案書を書こうと思い立ち、それをまとめていたところだったので、大いに参考になり力を得たのだった。キャンピングカー(といっても私の場合はモーターホームだと思っているのだが)の一ユーザーとして、このような機運が高まりつつあることを嬉しく思う。

MHPの設置に関しては、大別して①道の駅への設置と②キャンプ場内の設置があると考えている。勿論この他にも独自の新しい発想での設置があっても一向差支えない。しかし、くるま旅のための環境整備は、未だその緒についたばかりであるから、新しい発想が育つには至ってはいないと感ずるので、とりあえずは既設の駐車施設の拡張的な発想からスタートするのが妥当ではないかと思っている。

先ずは、道の駅構内への設置について、それを管轄する国交省や市町村などへ働きかけようと案文をまとめていたら、道路特定財源の使途の是非に絡んで、道の駅のあり方を批判の対象とする取り上げ方をした報道があった。その報道のあり方を安易に非難する気は全くないが、報道の正義感というのは扱いにくい一面性を持っているので、今、この時期に、道の駅構内にくるま旅専用の有料簡易宿泊駐車場をつくって欲しいなどという働きかけを行ったら、この上に更なる税金の無駄遣いをさせるのか!と社会正義の斧が振るわれるに違いない。とりあえずこれは控えなければダメだなと思った。

そこで頼みとなるのが、一般の有料キャンプ場の中にMHPを作って頂きたいという働きかけである。一般のキャンプ場なら、税金の無駄遣いなどという謗(そし)りは受けないはずだから、堂々()とお願いしても大丈夫と思っている。しかし、この業界の経営常識からは、既存の概念と相反する要素を含んでいるので、MHPを簡単に受容れては頂けないだろうとは思っている。

町田さんの記事の中で、竹本さんのご意見に全面的に賛成である。MHPの実現は、一にかかってキャンプ場サイドの現状認識と決断によるものと思っている。つまりはキャンプ場経営サイドの意識改革にかかっているのではないかということである。

決断の前に必要なのは、ニーズの判断であると考えるが、キャンプ場サイドではこの見極めがなされていないように思う。先日「オートキャンプ白書2007の概要」という記事を読んで、びっくりした。冒頭に「黒字が期待できる、稼働率が20%を超えるキャンプ場が、05年の9%から11%と増えており、一方赤字が避けられないとされる10%未満のキャンプ場が、40%から35%へと減少しており、全体的に改善されている様子がうかがえる」とあった。これを読むと、黒字のキャンプ場は全体の1割程度、赤字が4割近くを占め、全体の半分はぎりぎりで何とか凌(しの)いでいるということであり、大変な業界なのだということを改めて再認識したのだった。何故赤字なのか、何故黒字なのか、という真因については判らないけど、この業界で生きてゆくのは相当な勇気と知恵が要るなと思った。去年北海道の美瑛町で会った、キャンプ場経営の志を抱く若者夫婦の姿が目に浮かんだのだった。

ビジネスというのは、お客様のニーズに応えることによって存続できるものである。新規のみならず、既存の顧客であっても、顧客のニーズは絶えず変化しており、それをしっかり把握し、それに応えないとビジネスは成り立たなくなる。この意味で、顧客の創造とは新規顧客を獲得するだけではなく、既存顧客のニーズを読んで、新規顧客以上の存在とすることも含んでいるのである。私のマーケティングの理屈では、顧客というものをこのように理解し、説明してきたのだが、さて、キャンプ場経営業界では、この理屈は当てはまらないのであろうか?

キャンプ場を実際に利用、活用するのはユーザーである。私は、キャンプ場が、キャンプというアウトドア生活を楽しむ場であるという従来のコンセプトにこだわっている限り、MHPなどが実現できるはずはないと思っている。従来からのキャンプ場という条件を活かして、新しいユーザーを開発するという発想がないと先には進めないのだと思う。ブログの中に、既存のテントキャンパーとキャンピングカーとの軋轢(あつれき)の事例が紹介されていたが、同じ敷地内に隣同士で駐車させるという行為の中には、新しいユーザーを開発するという発想はない。

くるま旅のニーズとキャンプ場のニーズがズレているとは思わない。竹本さんが指摘されるキャンピングカーユーザーの3つの特徴はその通りだと思うし、それらの特徴をテントキャンパーとのズレとして捉えるのではなく、新しい顧客を開発するのだと考えれば、その調整など大した作業ではないのではないか。業界のたった1割強しか黒字が確保できないという厳しい経営状況の中で生き残ってゆくためには、何としても顧客を創り出してゆかなければならないのだと思う。既存のコンセプトにしがみついていたのでは、来訪する顧客は限られ、やがては消え去ってゆくのではないか。

シニア世代のくるま旅のニーズが拡大しているのは明らかだ。キャンプ場業界は、現在願ってもない棚ボタ式の顧客開発ニーズが目前にぶら下がっているのである。それをどうやって食べるかだと思う。今まで食べていたうどんや蕎麦と同じように、唐辛子を振り撒いて食べたのでは、ボタ餅の本当の味も価値も見出せないと思う。

町田さんがおっしゃるように全てのキャンプ場がMHPを作るには無理がある。無理な条件の所は考える必要はない。その条件を活かす工夫こそが大切なのだと思う。くるま旅のユーザーがどのようなMHPを望んでいるのかは、ユーザーに訊かなければ判らない。キャンプ場サイドは、もっともっと、キャンピングカーをモーターホームとして使って旅を目指す人たちのニーズを掴んで欲しいと思う。そしてそのニーズをベースに、キャンプ場での新しいくるま旅の過ごし方を、そのユーザーに提供するくらいの意気込みで取り組まれんことを期待したい。

私の体験や同じくるま旅をしている知人との交流からは、くるま旅の者には、キャンプ場を一夜の利便性を求めて使うというような発想は少ないように思う。人里離れたロケーションであっても、否、それゆえにそこへ泊まって2、3日ゆっくりしたいと考えるシニア世代の方が遥かに多いのではないか。一夜の賑わいのための野営とは違った、新しい旅のための環境づくりに、キャンプ場が一肌脱ぐ時が来ているのだと思う。

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夏のオホーツク海

2008-02-16 01:55:53 | くるま旅くらしの話

 昨日も一昨日も寒かった。今年は、北国ではマイナス30℃を超えた所もあるという。冬は寒いのが当たり前というけど、長い間暖冬に慣れてきた身には、この冬の寒さは少し異常性を感じたりしている。

真冬だというのに、何故か夏のオホーツク海の一日を思い起こしたりしている。旅への郷愁なのだろうか。斯様(かよう)な天邪鬼(あまのじゃく)も時には良いのではないかと思ったりしながら。

昨年の夏は、何年かぶりに枝幸(えさし)のかに祭りに行った。枝幸のことを、北海道では北見枝幸と呼ぶ。エサシとはアイヌ語では突き出した岬という意味らしい。確かに枝幸町はそのような地形にあるようだ。北海道には無数のエサシが存在するのであろう。

今日は、かに祭りのことではなく、3日ほど過ごした枝幸のウスタイベ千畳岩キャンプ場から見た、夏のオホーツク海の夜明けと青い世界の思い出を引き出してみたい。

ウスタイベ千畳岩というのは、枝幸の市街から少し北に行った所にある、海に突き出た岩の上に広がる台地で、まさに千畳といえる広さがあるといえよう。そこが無料のキャンプ場となっており、枝幸のかに祭りは、毎年このキャンプ場の横にある広場で開催されるのである。かに祭りの2日間は、広いキャンプ場はキャンピングカーなどの車で埋め尽くされ、はみ出た車は更にもう一つの広大な臨時駐車場に溢れることになる。

ここに来ると、われわれはいつも海近くの定位置に居座ることにしており、そこからは眼下にオホーツク海の広がりを見渡すことが出来る。夏のオホーツク海は、冬よりは安定した天気なのだろうけど、それでも過ごした3日間の内で、晴れた日は少なかった。その分、晴れた時間の海と空の青さが心に染み付いて離れず、いつでもそれを思い出せるのである。

  

     オホーツクの日の出 (3時57分  7.7.2007)

7月7日というのは七夕の日なのだが、旅をしていると殆どそのような季節の行事に気づかないことが多い。去年もそうだった。その日は3時には目覚めていた。北海道の夏の夜明けは早い。3時には既に空は明るみ出し、4時前に日が昇るのである。携帯でブログの記事を書いていたら、何だか外が明るくなってきたの気づき、慌てて外を見たら、何と日の出ではないか!水平線に今まさに日が昇りだしたのである。直ぐに飛び出してカメラのシャッターを切った。急いでいたので相棒を起こすことも忘れ、せっかくのチャンスを、どうして起こしてくれないのだと、何故かその後文句を言われる破目となった。

その日の朝は快晴だった。僅かにあった雲も水平線から離れた上方にあり、日の出を遮(さえぎ)るものは何も無かった。ご来光というのは、山の上からも神秘的だが、水平線からのもまた神秘的である。その昔から、人間が太陽を神と崇(あが)める気持ちは解るような気がする。日の出を見ても、敬虔(けいけん)な気持ちを感じない人は、かなり心を病んだ人ではないかと思う。紅く染まった空と海は、やがて次第に透明感を増しながら青く、紺碧(こんぺき)なそれへと変わって行った。その日は、午後まで快晴が続き、十二分にオホーツクの海と空を堪能(たんのう)することが出来たのだった。

     

     海辺のくらし 少し殺風景だけど、心は満たされている

私たち、というよりも自分自身のことなのだが、普段、日常の暮らしの中では、海や空を仰ぐことは滅多にない。青い色といったら、交通信号のランプくらいのものだろうか。真(まこと)に殺伐(さつばつ)とした砂漠の中に住んでいるような感じがする。ここへ来ると、下や脇を向くことを忘れて、しばし眼前の青い海と、真っ青な空を仰ぐことが出来るのである。

キャンピングカーというのは、このような大自然の中にいるのが、一番似合っているようだ。人ごみの中にうろうろ、おろおろしているのは、哀れな感じがする。北海道に来ると、たくさんの大自然がくるま旅くらしを包んでくれるのがありがたく、嬉しい。エゾニュウの向こうに広がるマリンブルーに心を染めながら、限られた夏の、ここに居るひと時を感謝せずにはいられなかった。夏のオホーツクの海辺の満ち足りた時間だった。

   

 巨大なエゾニュウの向こうには、真っ青なオホーツクの海と空が広がる

さて、今頃のオホーツクはどうなのだろうか。流氷が押し寄せて、身動きの出来ない海に、冬は固まってしまっているのだろうか。それとも吹きすさぶ寒風に目も開けられぬほど、激しい灰色のカオスの世界となっているのであろうか。ウスタイベ千畳岩の冬の現在を私は想像することができない。

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つくば市を歩く

2008-02-15 03:58:32 | 宵宵妄話

少し大げさなタイトルだけど、今日は久しぶりにつくば市の中心街周辺を歩いたので、つくば市を紹介するようなつもりで、歩きの様子を書いてみたい。

つくば市を訪れたのは、今年になって初めてだから、2ヶ月以上が経っていることになる。相棒がフォークダンスのクラブに入っていて、週に2回ほど練習に通っており、それにあやかって運転手兼歩きの楽しみを味わうために、一緒に来訪しているのである。フォークダンスのことは全くわからないし、興味も関心もない。市の中心街から少し外れた並木という住宅街の一端にある公民館が相棒たちの練習場となっている。駐車場に車を入れると、後はさっさと2時間ほどの歩きを楽しむことにしている。

   

    相棒の練習拠点並木公民館(おまけ?)

今日は強風が吹いて、寒さが厳しかったが、その分真っ青に澄み渡った空が広がり、筑波山も近くに望むことができた。このあたりで筑波山の写真を撮ろうとすると、至る所電柱だらけで、それを除外して撮れる場所を探すのに苦労する。つくば市は茨城県では3番目に人口の多い町だが、研究学園都市部を除けば全くの田園都市といっていい。要するに大いなる田舎である。

   

         つくば市郊外から見た筑波山

田んぼの縁の道をしばらく歩くと、40分ほどで、新都市の中心部に至る。ここはもう幕張新都心などとあまり変わらない。幕張と違うといえば、建物の高さが低いというのと、それから夏になると油蝉やミンミンゼミなどが喧しく鳴き渡るということか。海を埋め立てた幕張新都心には、かなりの樹木が植えられているけど、そこに無く蝉はたったの一匹もいない。異常都市である。

つくば市の中心部は、TXと呼ばれる新しい鉄道の終点駅のあるあたりなのだが、駅舎は探しても見当たらない。地下なのだ。地上にはバスやタクシーなどのターミナルとして、交通センターが作られている。このあたりは一般の歩行者は架けめぐらされた歩道橋の上を縦横に歩くことになる。樹木は至る所に植えられているけど、平面よりも立体感の目立つ、人工の空間が広がっている。その橋の上からは、つくば万博の時に建てられたシンボルのエキスポタワーが目立って見える。

  

   エキスポタワー       つくば交通センターの景観

ここらあたりは、あまり好きな場所ではないのだけど、私が好んで散歩に来るのは、この都心部から郊外に向かって5kmほど続いている、つくば公園通りという、散歩道があるからである。エキスポ記念公園から、洞峰公園、赤塚公園と3つの公園をつなぐ木立の散歩道が続いており、ここは四季を通じて花も緑も多い素晴らしい散歩道なのである。三つの公園は、夫々日比谷公園などよりは規模が大きいのではないか。このつくば公園通りは、いばらきヘルスロードとか言う県指定の道となっているらしいが、そのことは良くわからない。道の傍らには、独立行政法人となった各種の研究所などが森の中に点在しており、いかにも研究学園という雰囲気に満ちた場所なのである。

   

         つくば公園通りの散歩道

冬の今頃は落葉樹の箇所は少し寂しい感じがするが、常緑樹もたくさんあって、飽きの来ない空間がずっと続いている。久しぶりに心行くまでその空気を味わいながら歩いたのだった。

赤塚公園で終りとなるが、そこから左折して2kmほど歩くと並木の駐車場へと戻ることになるのである。赤塚公園の中には数本のヒマラヤ杉が植えられており、毎年今頃からその実を拾うのを楽しみにしている。杉の実といっても花粉症の悪さをする杉とは違って、ヒマラヤ杉は杉というよりも松の仲間に近い実をつけるようだ。その実が地上に落ちると、その先端が丁度バラの花のような形をしたものとなり、これをシーダーローズと呼んで、工芸品などに用いるのである。今日はまだその時期ではなさそうで、たった3個しか拾うことが出来なかった。これは相棒用であり、私はいつも拾い屋を相勤めている。

     

        今年初拾いのシーダーローズ

万歩計も2万近くになり、少し疲れがでかかる頃に梅園公園というのを通るのだが、そこには名称の通り、かなりの数の梅の木が植えられており、その中の何本かは紅白の花を既に開花させていた。その高貴な香りには、心を濯(そそ)がれるものがある。歩きの終り近くになって、本物の春の到来の証(あかし)に出会って、今日の歩きに大いに満足したのだった。 

   

   白梅も咲く          あでやかな紅梅

 

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キャッチボール

2008-02-14 00:17:34 | 宵宵妄話

 キャッチボールというのは、ボールを投げ合い、受け止めあうことである。一人では出来ない技(わざ)である。投げたボールが相手に受け止めて貰えない時には、がっかりすると同時に、受け止められないような悪いボールを投げてしまったかと反省する。受け止められなかったボールを拾いにゆくのは、辛く、厳しい。それが何回も続くと、お互いキャッチボールをする気がなくなってしまう。

 人間同士は、ボールなど持っていなくても、いつもキャッチボールをしている。本人が意識する、しないとは無関係に、相手構わず、所構わず私たちはキャッチボールをしながら生きているのである。しかし実際のキャッチボールは、誤って投げられたボールを拾うことの方が多いし、もう拾うのにも疲れて、うんざりしていることが結構多いように思う。

「今日の夕飯のおかずは何?」

「あら、あなた今日は夕ご飯、食べないと言ったでしょう?」

(そんなこと言ったのかなあ、……と思いつつ)

「気が変わるのが俺の特徴だといつも言ってるだろう。俺が聞いているのは、飯を食うことではなくて、今夜のおかずのことを聞いているだけなんだ、質問に答えたら!」

(何を言っているのか、……という感じで、)

「今夜のおかずなんて、まだ考えていませんよ、あなたが食べないというから、どうするかなと思っているのに、…」

(ああ、これじゃあ話にもならないなあ、止めた。)

(バカじゃないの、全く、…… ~ これは相棒の感慨)

 我が家では毎度このような会話にもならないやり取りが多い。投げかけたボールは、最初から全く見当違いの所に飛んでこぼれてゆき、受け止めるためのグローブもへちまもあったものではない。相棒から見れば、こちらの気まぐれなんぞに対しては、寸分も許さないという正義感()のようなものがあるらしい。確かに筋は通っているのだろうけど、素直に従う気にはなれない。むしろ、何でこのような情緒のない奴と一緒に居るのだろうと思うのである。それは多分相棒の感慨としても同じなのであろう。

 キャッチボールというのは、第一投目への反応が肝心だと思う。これを投げ損ない、受け損なうとその後のキャッチボールはシッチャカメッチャかとなる。シッチャカメッチャかとは、つまりはキャッチボールなどとはなっておらず、ボールのぶつけ合い、投げ合いであり、まるで雪合戦をやっているようなものである。全てが雪の玉ならまだしも、時々小石や鉛の玉などが混ざったりしていて、怪我に怪我を重ねるやり取りをしているような感じさえする。

 本来なら40年近くも一緒に暮らしを共にしてきたのだから、(いわゆる)阿吽(あうん)の呼吸で、目と目を合わせただけでお、互いに相手の考えを察知するというのが理想の夫婦であり、老いて美しい姿なのかも知れないのに、我々二人にはそのようなムード()は欠片(かけら)も無い。双方ともバカなのだと思う。このバカさ加減に、適当に妥協してきたのだが、この頃は少しその加減さが気になりだしてきている。

 キャッチボールが生きている者同士の宿命だとしたら、只のぶつかり合い、投げ合いばかりはそろそろ止めた方がいいのではないかと思うようになった。只投げつけるだけで、受け止める相手のことなど眼中に無いというのは、お互いに今まで生きてきたことを消し去るような気がするのである。

 しかし、このような話を相棒に持ち出しても、受け止めてくれる姿勢がないと、通じはしない。「もともと、あなたの身勝手から出ていることなのでは?」などといわれると、いっぺんに何も話したくなくなる。つまりは、キャッチボールの一投目でつまずくことになる。その可能性は高い。はてさて、相棒はどのように思っているのだろうか。

 キャッチボールというのは難しい。投げるのは自由だけど、受け止める方に準備や心構えが出来ていないと、全てがパスボールとなる可能性が高い。しかし投げた方は、そのようなことは少しも考えていない。してみると、やっぱりこれからは無口にならざるを得ないようだ。しかし、根がバカだから、無口を守るのが難しい。困ったものではある。

 皆様方は、ハテ、如何(いかが)なものでありましょうや? 旅に出かけられない毎日ですと、このような本物の妄想に囚われるのであります。

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冬の菜園

2008-02-13 00:58:10 | 宵宵妄話

  今年は雪が降ったりして、本物の春が遅くなりそうである。ま、寒いと感じているのは相対的なものであって、要するに去年までの冬が暖かすぎたということなのであろう。50年前の冬と比べたら、今年の冬だって格段に暖かいといってもいいのではないか。

 冬の寒暖のことは措くとして、本物の春が待ち遠しいのは、菜園の野菜たちであろう。というよりも、それを摘んで食べようと待ち構えている人間どもの欲望であるかも知れない。斯く言う私は、性懲りもなく三日に一辺は畑を見に行く。そして殆ど生長していない野菜を見て、それは寒さの所為なのだと、恨めしさを感ずるのである。とにかくせっかちなのだ。

 今、市から借りている菜園(50㎡)には、ほうれん草、アスパラ菜、紅菜苔それにタマネギが植え付けてある。土地の半分は休ませており、来月になったらジャガイモを植え付けようと考えている。ほうれん草は50cmほどの幅の畝が2本、紅菜苔は2畝、アスパラ菜は1畝、たまねぎも50cmの畝が1本だけで、冬の我が家の菜園は寂しい。

 現在収穫が出来るのは、ほうれん草だけで、丁度食べごろになっている。タネを播くのが遅れて、本来ならお正月に収穫出来るものを、1月の終り近くになってようやく15cm近くになり食べられるようになった。ほうれん草は、小さいときはアクが少ないので、私は茹でもしないで、水洗いしたのをそのまま食べている。家族は呆れているが、牛や馬のようにバクバクと食べるのである。毎日、店で売っている一束以上は食べているだろうと思う。それでもなかなか食べきれるものではなく、畑全体を3月半ばまでに平らげるのは不可能だろう。もう少し大きくなり出したら、ご近所に貰って頂こうと考えている。

    

  楽しみなのはアスパラ菜と紅菜苔である。この2種も播くのが遅れて、育たないのではないかと心配したのだが、トンネルの覆いをかけたら、どうにか生長してくれたのでホッとしている。この二つの野菜は、いずれもトウ立ちした花を摘んで食べるものである。菜の花と同じような食べ方である。

 アスパラ菜は菜の花と同じような黄色い花を咲かせ、茎もグリーンなのだが、紅菜苔は、花は黄色でも茎が赤紫色をしており、特徴がある中国野菜である。去年初めて作ってみたが、3月半ばまで、毎日食べきれないほどの蕾をつけて、知り合いに貰って頂いたりして、存分に楽しんだのだった。今年も是非にと作ったのだが、今はトンネルの中で春を待っている状態である。写真は、そのトンネル内の様子である。後1週間ほどしたら、トンネルを取り払って自然の状態で頑張って貰おうと考えている。

     

   アスパラ菜というのは、何処だったか忘れたけど旅先でタネを手に入れたものである。確か、福島県のどこかだったと思う。意外と高い値段だった。こちらの方は、日本で作られた改良種らしい。菜の花よりは美味いはずだと勝手に思っている。これも播種時を遅らせてしまい、只今トンネルの中にある。

      

この種の野菜は、冬を乗り越えると、あっという間に生長して花を咲かせるのである。寒い間はじっと我慢をしていて、その厳しさに耐えているのだが、ほんの少しでも寒さが緩むと、一挙に溜めていた生長のエネルギーを爆発させるのである。毎年野菜たちの冬から春への生き様を見ていると、人間などとは比べものにならないパワーを見て感動するのである。それにしても早く本物の春が来て欲しい。

 

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生きもののリズム(寸感)

2008-02-12 00:05:08 | 宵宵妄話

私のブログのことで恐縮だが、最近のアクセス状況について触れてみたい。ブログには、ご覧頂いた方がどれくらいおられるか、何回ぐらいご覧になっているのかを解析するデータがついている。それをここ1年間ずっと見ていて、気がついたことがある。

大したことではないのだが、ご覧になる方たちには一種のリズムのようなものがありアクセスの数は一種の上下する波のような形で動いているようである。本来良い内容の記事であれば読者も増えるというものであろうが、概して大した記事は書いていないので、アクセスされる方もあまり内容には期待されないまま、見たくなったら見てみようかということなのではないかと思う。

それでも一応書く方としては、たくさんのアクセス数を頂いた時には、嬉しくなって多少は力を入れて次の記事を書いたりするのだが、そのような時に限ってアクセス数が少なくなったりするのである。

その昔、バイオリズムというのがもてはやされたことがある。今それはどうなってしまっているのかわからないけど、一時はこれをもとに個人の未来予測というか、危ない日やラッキーな日などを知って、それを上手く使おうというような取り組みもあった。バイオリズムでは、人間には身体、感情、知性に関する3つの基本リズムがあって、身体は23日、感情は28日そして知性は33日の周期で高低を繰り返しているという。この3つの基本リズムが交差するような時期や、正負が移り変わるようなタイミングの時に、生きる上での好調や不調の兆しが起こりやすいという仮説である。

これが本当なのかどうかは未だに良くわからないけど、全くの嘘ではないようには思っている。確かに身体、感情、知性については好不調の波はあるようだ。心も身体もいつも安定した状態を保ち続けることなどありえない。ちょっとした出来事で、人間の生き方というのは予想外のインパクトを受け、とんでもない事態を引き起こすことが多いものである。

だからバイオリズムについては、それを盲信する考えはないけど、一応は信ずることにしている。本来ならば、このリズムは未来予測的な使い方をするのが有効なのであろうが、未来予測については、それがどのような種類のものであっても殆ど期待しないことにしており、そのような使い方には捉われないようにしている。良いことがあってもそうでないことが起きても、それはバイオリズムの所為ではなく、別の原因が直接の引き金となっているのだ。そしてそのバックに何かしらのバイオリズムの力が働いていたと考えるのである。

音楽の3要素に、リズム、メロディー、ハーモニーがあるが、人の心というか、生きてゆく世界にも何やらこの音楽の世界に通ずるものがあるような気がする。特にリズムについては、人の心のかなりの部分を支配しているように思える。調子の良し悪しなどというものは、殆どがその人の生き方のリズムが決めているようなものではないか。人は己(おのれ)の生き方の波から抜け出て、自分勝手なことをしようとしても殆ど無力なような気がする。それは運命論にもつながっているような気がするのである。

少し本論から外れ出したが、私のブログへのアクセス状況を見ていると、明らかにアクセス数には波があって、毎週山と谷を描いているようである。人々の気持ちというか、心の動きというのは、夫々がバラバラのように見えても、それをトータルすると一つの大きな波となることを知った次第である。

私のブログの毎日の平均来訪者は100名ほど、そして平均2回ぐらいはアクセスを頂いているようだ。100名といえば、大変な数である。真に拙いブログ記事ではあるが、改めて来訪者の皆様にお礼を申し上げたい。そして、谷底となっているアクセス数を持ち上げるよう、一層お読み頂ける記事を書かなければならないと思ったのだった。今日は再びアクセス数を下げてしまうような内容でした。

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走りの願望

2008-02-11 00:58:17 | 宵宵妄話

  今日(2/10)は守谷ハーフマラソン大会があった。今の時期はマラソン大会の開催が多い。昨日の天気予報では雪が降るとのことだったので、どうなるかと心配していたが、この地の予想は外れて、今日は朝からそれほど冷え込みも感じられない絶好のマラソン日和となった。

      

 走りもしないのに、マラソンの話となると俄然興味を感ずる自分なのである。TVでの各地での大会の実況は必ず見るし、地元の大会とあれば見に行かないわけにはゆかない。今日も早速近くのコースまで見に行った。守谷に越してきてから3回目の見物となるけど、いつも見に行くのは最後のランナーが走っているような時間帯である。今日も11時過ぎに行ったのだが、最後のランナーはいかにも「私、走っています!」という服装というか衣装を着けた人だった。その前を走る人の中にも、このような衣装の人が多い。競走ではなく、走るのを楽しんでおられるのだと思う。それでいいのかもしれない。

     

 もう走るのを止めてから20年以上が経ってしまっているようだ。43歳の時、休日になると15kmほどのジョギングを楽しんでいたのだが、ある日走っている最中に突然膝に急激な痛みが走り、動けなくなってしまい、休み休みながら足を引き摺って、やっとの思いで帰宅したのだが、医者に行ったら膝に水が溜まっており、この年齢なのに、サポーターもつけずに走るなんて、真に無謀だと叱られてしまった。その後1年以上をかけてリハビリを続けて、ようやく普通の状態に戻ったのだが、それ以来走るのが怖くなって、ほどほどの距離を走るのに止めることになった。

 走るのは嫌いではない。短距離走は苦手だけど、マラソン等の長距離走には自信があった。30歳過ぎまで、20年間ほどバスケットボールに戯れていたので、身体を使うのに苦を覚えたことは殆ど無い。バスケというのは瞬発力が必要なスポーツだが、何よりも持久力が無ければ続かない競技である。だから、長距離を走ると結構長続きするのである。大学時代は、陸上のクラブの人よりも長距離走は上を行っていたように思う。単位のかかっている運動会のマラソン(といってもたった8kmほどだったが)では10番内には入っていた。今の自分からは想像もつかない話ではある。

 糖尿病の宣告を受けてからは専ら歩きに徹してきたのだが、ここ3年この季節の地元開催のハーフマラソンを見ていると、走りたくなってしまう。間もなく古希が近づいていることを考えると、気持ちだけで走ってしまって、再び膝を痛めたら大事(おおごと)になるとは思うのだが、走りたい気持ちは高まるばかりである。

 今は走ろうと思っても、恐らく100mも走れば息が上がってしまうに違いない。守谷のハーフマラソンには、10kmくらいのコースも設定されているようだから、とりあえずはそのくらい走れるようになることを目指すのがいいのかもしれない。歩くのを止めるわけにはゆかないけど、最近は歩くだけでは物足りなさを感じたりしているのである。それは体力が有り余っているというのではなく、このまま走ることなく一生を終わってしまうのは寂しいような思いに捉われるからなのである。無謀な欲望なのかも知れないけど、今日のマラソンの人たちの中には、自分よりも遥かに高齢の方もたくさんおられたようだし、見物している側よりも見物される側の方がやっぱりいいなと思ったのだった。

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重大なエラー(お詫び)

2008-02-10 03:00:54 | 宵宵妄話

今日は本来のブログは休みます。実は大変なエラーを約1年間見落としており、そのことについてお詫びを申し上げたくて、この記事を書いています。

私は、このブログのほかに「山本馬骨のくるま旅くらしの泉」というホームページを開設しているのですが、それはこのブログともリンクしてあります。(ブログの左記欄にある「BOOKMARK」の下のホームページ名をクリックするとつながるようになっています) そのホームページを見直そうとチエックしていたのですが、その中にメールのあて先をおすボタンがあるのですが、実はこのあて先(メールアドレス)を間違って記述していたのでした。

ホームページは、当初更新の部分を増やそうと考えていたのですが、写真入りエッセーを載せるためには、現在の容量ではまかないきれず、ブログを始めた今では、それはむしろブログに掲載した方がベターだと気づき、この2月からはそのような取り組みを開始したのでした。

1年もの間、殆どホームページには手をつけないでいたこともあり、そのエラーに気づきませんでした。ホームページには、私の著書の他に、旅の記録の頒布についての案内も掲載していたのですが、その注文の際はメールでお申し込み頂こうと、そのように書いていました。ところがこの1年間、1件の問い合わせのメールも無く、これは自分のくるま旅くらしの提唱なんぞには、皆さん誰も興味関心など無いのだと思って諦めていた次第です。

確かにそのことについてはかなり本当のことだとは思っているのですが、この間メールを頂いてもアドレスが間違っているため、連絡できなかった方もいらっしゃるのではないかと、そのことに気づいて、びっくりした次第です。真に申し訳なくこの場を借りて深くお詫び申し上げます。

とりあえずメールアドレスは修正いたしました。長いことホームページを扱っていないと、驚くほど忘れるのが早くて、メールアドレスを修正するだけでもかなりの時間がかかり、我ながら呆れ返ると共に、これではいかんなと反省している次第です。ホームページは近く大幅な修正をする考えでおります。どうぞ気が向きましたら、覗いて見てください。メール等もお待ちしております。 山本馬骨拝

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