山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ああ選挙・市議会議員選挙結果に思う

2008-02-05 05:57:05 | 宵宵妄話

   一昨日雪の中を市議会議員選挙の投票に行った。薄い靴下のまま長靴を履いて行ったため、足が冷たさを通り越して痛いほどだった。このような天気では投票に行く人は少ないのではないかと思いながら、11時ごろに出向いたのだが、投票所には結構車や歩きの人が来ていて、守谷という所は、真面目な方が多いのかな?と思ったりしたのだが、いざ終わって結果を見ると、投票率は46.30%と前回を下回り、有権者44,778人に対して投票者は20,731人という低調な数字で、何だか裏切られた感じがした。

 選挙運動では、ガナリ立てる騒音合戦が繰り広げられ、飽き飽きした人たちが、選挙などどうでもいいと義務も権利も放棄して自分のことだけに一日を使ったのかもしれない。確かに守谷の市政がどのように運営されようと、個人のレベルでは、誰が市会議員になろうと大同小異という思いは、自分にも理解できるような気がする。要するに一般大衆というのは、本人の利益に密着したテーマが無いと、何事も無関心となる傾向がある。特にここ30年くらいはその傾向が一層強まったような気がする。

 20人の市会議員が決まったが、トップ当選の得票数が1,880票、最下位当選の得票数が315票だという。この数字を見て、愕然とした。4万5千人近い有権者がいるのに、たった315票(有権者総数の0.7%)で議員になれるなんて、何と言う摩訶不思議な現象だと思った。民主主義というのはこのようなものなのであろうか?これは選ばれた方に対する嫌味を言っているのでは無い。投票すべき市民全体に対する情けなさの気持ちである。これほどの無責任と言うか、義務や権利の放棄がまかり通るのであれば、民主主義はやがて廃絶の運命にあるのではないか。守谷以外の町でも、或いは国政選挙においても、傾向は同じではあろうが。

 民主というのは、すなわち「民」(=大衆)が「主」なのである。それなのに自分勝手な「主」ばかりで、世の中全体に係わることにはそっぽを向いているという風潮は、何か変だと思わずにはいられない。

 守谷に来て初めての市会議員選挙だったが、選挙のあり方にも疑問を感じた。選挙公報が新聞受けの新聞に入っていたのは、選挙の2日前だった。これは手続き上やむを得ない納期なのだと思う。しかし、候補者が作った、いわば自己申告ともいえる公約や政策などの記述は、解りにくいものが多かった。当たり前のことを当たり前にしか取り上げていないのだから、判断の仕様がない。皆さん同じようなことばかり述べておられて、魅力ある政策は殆ど感じられなかった。また、せめて候補者が市内の何処に住んでおられるのかくらいは知りたいと思ったが、それを書いている候補者は少なかった。結論的にいえば、誰を選んで良いのか、情報があまりにも少ないのである。これだけで、誰かを選べと言われても、普段から市議会の傍聴に行くほどの関心は無いのが普通の者には、相当無理な判断を強いられる選挙だなと思った。

 驚いたことに、候補者の中に被選挙権が無いという方がいて、投票が済んだ段階になって失格無効となった。終わってからそのようなことが判明すると言うのは、一体どういうことなのだろうか。被選挙権がないのであれば、選挙管理委員会は、受付或いはそれ以前の段階できちんと被選挙権者の条件を伝えるなり、審査を行うなどして無駄な選挙運動をする人を排除すべきであったと思う。しかもその人が当選圏内の得票だったというのは、守谷市にとって、選挙がどのような意味を持つのか見当もつかない珍現象のように思う。いやはや。解せない。

 最近、なにやらのコマーシャルで、知事選のことを取り上げたものが非難の対象となり、問題化しているという話題がある。自分はそのコマーシャルを見たことは無いが、二ユースなどで聞くと、そのセリフの中に「政治っていうのは、人を笑わせるものなのだ、……云々」という一節があるらしいが、これは真に当を得た指摘だなと思った。(しかし、そのような政治をおちょくるようなコマーシャルそのものには不快感しかない)

 今の世の中、低俗な笑いが溢れている。笑いの多くは健康性を失い、病んだものとなっているような気がしてならない。それは、つまりは政治がつくり出しているものなのかもしれない。今は、笑いについての評論をするのは大変危険な世の中となっているように思っている。笑いの健康性などという話をしたら、総スカンを食うのは解っているけど、自分としては今のTVなどで披瀝されている笑いの多くは本物ではないと思っている。このような気取ったことをいうと、たちまち、それならお前さんの言う本物の笑いとは何だ!と来るに違いない。そのことについて、今言えるのは、少なくとも人をバカにしたり、益体(やくたい)も無い芸ともいえぬ芸で失笑や苦笑を買っているようなものは本物の笑いではないということくらいか。

 言いたいのは、政治の本質はやっぱり人々を笑わせることにあるということだ。その笑いとは、人々が政治家の呆れた言動などに失笑を抱くような笑いではなく、日々の生活に安全と安心を見出し、笑みがこぼれるような、そのような笑いを生み出すのが政治の本質なのだと思う。

 守谷と言う小さな町であっても、そのような笑いが生まれる政治を新しい20人の議員さんに期待したい。特に有権者総数の1%にも満たない得票率で当選された何人かの方には、民主主義を守る意味でも、大いなる活躍を期待したい。そして市民が普段の生活の中で、自然と微笑(ほほえみ)を交わせるような政治の実現に取り組んで欲しい。

コメント
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