冒頭に一句。
「日溜(た)まりの閑(しず)けさ集め 馬酔木(あしび)咲く 馬骨」
馬酔木の花:この木はかなり大きなものだが、普通はもっと小さくて、
路地の片隅に在るともなしに花を咲かせていることが多い
このところ句作をしていない。俳句というのは、私の心の中では物を書く原点となっている。短詩形の文学としては最高の表現形式の一つだと思っている。俳句は短いゆえに難しい。無理に作ろうと思えば、わざとらしい駄作となる。さりとて、自然発生的に句作の興趣が湧いてくるのを待っていたのでは、ほとんど作品は生まれない。現在の自分は、待っているばかりである。
句作に興味を覚えるようになったのは、小学校3年生の時だった。国語の時間に先生が俳句の話をされて、皆も作ってみようということで、そのとき思いついて作ったのが、「冬の山松の木だけが青々と」という句(?)だった。何故かそれを先生が取り上げて褒めてくださったのである。冬の山には松の木の他にも落葉しない木は幾つもあるのだが、その頃の村の山は圧倒的に松が多かったので、自然とその勢いのようなものが目に入ったのであろう。豚もおだてりゃ木に登る(?)というけど、褒められて嬉しくないのは無感情な鉱物くらいのものであろう。そのとき以来俳句を作るのが意識から離れなくなった。中学生の頃は、密かに新聞に投稿し、誰にも知られず入選作が掲載されるのを期待したりした。何度か入選したが、誰にも黙っていた。
長いサラリーマン時代を終えて、くるま旅くらしをするようになってから、再び勝手に句作の意識が働くようになったような気がする。サラリーマン時代は句作の余裕などなく、せいぜいひねた川柳を読んで拍手した程度であった。自分で作るという気持ちが湧いたことはない。それが、このところ時々句作を思い立つようになったのは、何故なのか自分にもよく分らない。
私の句作は、そのテーマも表現も湧いて来るのを待つだけである。駄句でも何でも良いから、ふと思い浮かんだものを温める。そしてこの程度かなと思ったところで書いてみる。それを少し弄(いじ)り回して終りとしている。冒頭の作品も駄作には間違いないが、2年くらいは温めたろうから、自分の中では春というのは馬酔木の花が咲きこぼれた時に確認できるものという思いがある。
俳句には季語というものがあって、厄介だ。何故季語があるのだろうか。そのようなことをあまり深く考えたことはないが、句作をしていると季語の重なる表現をすることが多い。詠もうとする対象に対する思いが強いほど季語がダブルのである。そうすると、当人ばかりが思い上がった独りよがりの句となってしまう。季語のルールというのは、そのような思い上がりを戒(いまし)めるための、日本という国独自のきめ細やかなルールなのかも知れない。俳句というのは、油断も隙もない表現の極致を求めているような気がする。
しかし、現実の人間はそのような細かいことに拘(こだわ)っては句作を楽しむことはできない。そのようなルールなどほどほどにして、自分の思いを句作に傾ければいいのだと思う。(本当に言いたかったのは、このことである)
「白椿 六十路も終り近くなり 馬骨」
「一輪の生命(いのち)膨らみて椿咲く 馬骨」
椿の花:椿は花びらごと地に落ちる。生命の重さと空しさを感じ
させる花のように思える
やっぱり駄作だなあと思う。今日は我が句作の話でした。
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