山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

前途多難の予感

2008-02-01 07:05:56 | 宵宵妄話

我がブログの新年度を迎えたというのに、何とも情けないタイトルとなった。ドタバタがあって、ブログの有料への切り替えが遅れてしまった。大した手続きでもないのに、肝心の登録に不可欠のデータの一つが用意できなかったのである。しばらくは、吹いた大法螺のことは、そのまま据え置きにさせておいて頂きたい。

今年は逆風が吹きそうである。何しろ新年早々やっと出版した本の会社は倒産してしまうし、身内の中でもなにやらスカッとしない出来事が続いている。長い人生の中では、このような時期は再々あったように思うけど、残りが少なくなり出した今では、なるべくなら避けて通りたい気がする。しかし避けて通れないというのが、世の中の常ではある。避けてばかりいたら、やがては世の中から見放されて一巻の終わりとなってしまう。見放されてしまえば、人間は只の生き物と化してしまう。喰って、飲んで、出して、寝るだけでは人間とは言い難い。

と、そのようなことで、このところ何だか神経がピリピリしているようだ。何時もは軽く受け流している相棒のセリフが、くどくて喧(やかま)しく聞こえる。解っていることを何度も念を押して繰り返すのは、わが身に実践が乏しいからなのだと思うが、一々トイレの蓋を閉めろだの、換気扇を回せだの、何だのと細かいことをゴチャゴチャ言われるとむかっ腹が立って、「うるさい!」と怒鳴ってしまう。

元々短気で、むかっ腹が立ったときは、人前であろうと、相手が目上であろうとお構い無しの暴挙に出る性質だから、我ながら始末に負えない。今流行(はやり)の「切れる」という奴の一種なのかも知れない。しかし、怒鳴っても暴力を振ったことは一度もない。暴力を振ったら一巻の終わりになることはよく承知している。暴力を振えば、相手に怪我を負わせることは間違いない。大体、暴力というのは、相手を立ち上がらせないほど打ちのめすために振うのだから、怪我をさせるのは当たり前なのだ。だから、江戸時代ならともかく、現代ではまともに生きてゆこうとするなら、暴力は絶対に振るってはならない。この信念が何度も自分を救ってきたと思っている。少しも自慢にはならないけど。いやはやとんでもない話となってしまった。

ピリピリしながらも、前途多難の予感の源(みなもと)がわが身自身にあるとは思ってはいない。体調はすこぶる良い。具合が悪くなっているのは、てっぺんが次第に明るさを増して、顔がだんだん下になってきているくらいのものであろう。この2年間、一度も保険証を使ったことがない。ずっと健康保険料のムダ払いを続けている。これだけでも随分と世の中には貢献していると思っている。だが、もしかしたら、糖尿君は見えないところで、酒飲みの因果を計算しているかも知れない。ま、これには秘策があるので、古希を迎えるまでは大丈夫だと思っている。些か自信過剰の嫌いがあるとは感じてはいるけど。

逆風と感ずるのは、今までが思いの外に順調にことが運んできたからなのかも知れない。禍福は糾(あざな)える縄の如しと言うから、これからしばらくは思うままには行かないよ、という警告が発せられているのかも知れない。古希近くにもなって、ドタバタと逆風を覚えているようでは、まだまだ人間が出来ていない(出来上がる筈もないけど)証拠なのかも知れない。かも知れないばかりが続く。

深呼吸をして、気を取り直してその逆風とやらを受け止めてみることにしようと思った。ブログ新年度の感慨である。

コメント (2)
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